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私はこう考える【中国について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


2000年1月号 法学研究
試練の時代の日中関係
国分良成
(慶應義塾大学教授)
はじめに
 日中関係においては、安定的関係の制度化へ向けて、毎年どちらかの首脳が公式訪問することで、意思の疎通をはかることになっている。その一環として一九九八年一一月二五日から三〇日まで、中国の最高指導者である江沢民国家主席は日本を公式訪問した。この訪日により、日中両国は共同宣言を発表し、「平和と発展のための友好協力パートナーシップ」を宣言した。
 この数年、日中関係は歴史認識、台湾、尖閣諸島、核実験等さまざまな側面で摩擦を生じていた。中国に対する日本人のイメージも一九八九年の天安門事件以来、下降線をたどりつづけている。中国における日本のイメージ調査も必ずしもよい結果を示していない。これらに関しては、さまざまなところで指摘されているとおりである(1)。冷戦終結や世代交代を経て、日中関係はいま大きな転換期を迎えている。にもかかわらず、新たな関係の構図はいまだ不透明である。それだけに日中両国にとって、今回の国家主席として初の訪日にかける期待は以前からかなり大きかった。
 江沢民国家主席の訪日にはもともと二つの意味が込められていた。ひとつは日中平和友好条約の締結二〇周年の記念であり、もうひとつは日中間のパートナーシップを築くことで、日米中露のそれぞれの二国間のパートナーシップ関係がすべて完成することであった。中国にとってみれば、一九九七年秋の江沢民訪米と九八年夏のクリントン大統領訪中により、アメリカとの間に「建設的、戦略的パートナーシップ」を形成し、ロシアとの間でも一九九六年四月のエリツィン大統領訪中以来「戦略的協力パートナーシップ」を形成していた。これ以外にもヨーロッパ、とくにイギリスとフランスとの間にも同様の関係を築き上げていた。
 江沢民訪日についての両国政府の公式評価はいうまでもなく「成功」である(2)。ところが訪日後の実際の評価は実に複雑である。翌九九年七月には小渕恵三首相が中国を訪問したが、このときも前年の江沢民訪日をお互いに高く評価した。しかし日中両国の内部では、結局訪日が「歴史問題」に終始し、「未来志向」の関係を明確に築くことができなかったことから「失敗」であったとする声も大きい。日本の一部ジャーナリズムは、歴史問題に執着した江沢民の態度や、一九九九年と二〇〇〇年の二年分の円借款三九〇〇億円の供与決定を集中的に批判した(3)。筆者が一九九八年一二月に中国で行ったこの問題についての私的調査によれば、中国内部でも日本の歴史問題への対応に強い反感を感じる人びとが多く、中国外交部の「弱腰」を批判する声が実に大きかった。中国の公共のマス・メディアでは、争点となった共同宣言に関して抄訳が出されただけで、結局全文が公表されることはなかった。
 海外の反応も複雑であった。日本が共同宣言に「おわび」を挿入するのを拒否したことを批判する記事、あるいは逆に江沢民が日本の歴史認識問題に拘泥した態度を批判し、日本の小渕政権の強い態度を評価する記事などさまざまであった(4)
 こうした事実は、首脳外交というひとつのパフォーマンス外交の難しさを改めてわれわれに教えてくれる。一般に首脳外交はその華やかさで彩られた成功例が紹介されやすいが、実際の歴史においてはその逆のことも多かったのである。首脳外交はリーダーのパーソナリティに依存し、短期間に結果を出さねばならないがゆえに、そこに難しさを内包している(5)。いったん首脳外交が失敗すると、その波及効果は長く尾を引くことになりやすいのである。
 このようなところから、江沢民訪日をいま一度冷静に振り返る必要があると痛感されるのである。そこでこの論考では、江沢民訪日がなぜ複雑な結果をもたらすにいたったのかについて、公表された関連資料および新聞記事と日中双方の政策関係者に対する筆者自身のインタビュー調査にもとづいて、それぞれの立場から客観的に再構成してみたい。同時に、この訪日をできるかぎり前向きにとらえる目的で、今後の日中関係構築へ向けて「成果」として評価しうる点についてもまとめてみたい。
一、江沢民訪日までのいきさつ
 江沢民の訪日はもともと一九九八年九月初旬に予定されていた。ところが中国南方の揚子江流域と北方の松花江流域での洪水問題が深刻となり、これを理由に中国側は八月二一日、訪日の延期を申し出た。併せて訪問する予定であったロシアに対しても延期が通告された。この延期に関しては、洪水以外にも理由があったのではないかとのさまざまな憶測が生まれた。なかでも当時筆者自身が中国側から漏れ聞いていたのは、七月に突然に起こった日本の政権交代との関連であった。中国側は橋本龍太郎政権下での訪日を想定し、その方策を練っていた。ところが参議院選挙で自民党が大敗北を喫し、その責任をとるかたちで橋本首相は七月一三日に辞任を発表した。
 このあと誕生した小渕政権については、当初からジャーナリズムで「短命政権」とのレッテルを貼られ、批判記事が相次いだ。このときこれを見た中国側は、様子を見て日本の政局が安定した時点で訪日したほうが効果的であり得策であるとの判断に達した。ところが説明のつく理由が必要であり、やはり深刻な問題となりつつあった洪水問題を前面に出すことになった。以上は筆者が中国の複数の関係筋から得た別の背景説明である。この件についての真のいきさつは不明である。いずれにせよ、これにより本来江沢民訪日後に予定されていた韓国の金大中大統領の訪日が先となってしまった。この順番の逆転が後に大きな意味を残すことになる。
 一〇月初旬に訪日した金大中大統領は、日本が歴史問題に関して明確に謝罪表明をしてくれれば、二度と同じ問題を取り上げないことを事前に約束していた。これをめぐって自民党内にはさまざまな意見があったが、韓国との歴史問題に関して日本は文書化したかたちで態度を明確に表明したことがなかったため、金大統領の今後は繰り返し要求しないとの言質もあり、小渕首相は一歩踏み込んだ表現を盛り込むことにした。こうして共同宣言にはこの点に関連して、「小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのおわびを述べた」との文章が盛り込まれた(6)。また金大中大統領は一〇月八日に国会でも演説を行っているが、そこでは日本の対応を「真摯に受け止めた」と表現するとともに、戦後の日本が「変わった」ことを強調し、経済と民主主義の発展を高く賛美した(7)。このようなやりとりにより、日本では金大中に対する評価が一挙に上がりはじめ、これ以後の日韓関係もきわめてスムーズに展開するようになった。
 この後、江沢民訪日にあたって、中国側が日本側に韓国と同じ、もしくはそれ以上の表現を要求するようになったとしてもまったく不思議ではない。そもそも延期される以前では、日中間では歴史問題に関して、後述する一九九五年の村山富市首相談話を踏まえて「その重要性を再確認した」というような表現でほぼ妥結することになっていたと伝えられる。つまり歴史問題については両国間でそれほど大きな問題とはなっていなかった。ところが日韓共同宣言の一歩踏み込んだ表現に触発された中国は、「おわび」(中国語では「道歉」)の挿入を強く日本側に働きかけはじめたのであった(8)
 しかしこれに対して自民党総務会では、日韓関係と日中関係の違いを理由に「おわび」挿入に反対の意見が多数を占めることになった。この辺りの詳しい背景については後に整理して述べるが、いずれにせよ中国の要求は小渕首相の強い抵抗に遭遇し、最終的に実現を見ることはなかった。
二、江沢民訪日の経緯
 江沢民訪日の前日の一一月二四日、準備のために来日した唐家外相と高村正彦外相の間で最後の折衝が繰り広げられた。最終的な合意としては、宣言には「おわび」を盛り込まず、その代わり小渕首相が口頭で江主席に対して「おわび」を表明する、というものであった。このとき唐外相は、「江主席は世代が違うので、これでいいかどうかわからない」と答えたと言われる(9)。ただ日本側は、中国側が要求していた「中国への侵略」という明確な表現を日中関係史上はじめて公文書に挿入することに同意した。
 ところでこの「おわび」に対応するかたちで、もともとひとつの文章が準備されていたと言われる。それは中国側が、「戦後の日本が平和国家としての道を堅持することで、今日の経済大国を築きあげたことを高く評価する」というような内容の一文であった。これはいわば戦前と戦後の日本を区別することで、戦後から現在にかけての日本を「平和国家」として評価し、「未来志向」の関係構築をねらった内容であった。しかしこの一文は、結果として、「おわび」の表現が文書化されなくなったことから同時に削除された(10)
 一一月二五日、ロシア訪問を終えた江沢民国家主席は日本に到着した。その晩は迎賓館で小渕首相の非公式夕食会が開催された。おそらくこの晩から江沢民は、外交部の説明を聞くなかで日中間の外交交渉の結末を理解しはじめ、妥結内容に強い不満を抱いたと思われる。その後中国内部では、このとき江主席は交渉にあたった唐外相と外交部の日本担当者を強く批判したと伝えられた(11)
 二六日朝、江沢民は中曽根康弘氏ら歴代首相との朝食会に臨み、このあと日中友好に貢献した人びとやその子弟と会見した。これらの時点で江沢民はすでに歴史認識の重要性を語りだしているが、それが爆発したのは夕方の小渕首相との公式の首脳会談においてであった。この会談において、江沢民は歴史認識問題に多くの時間を割き、国民への「啓蒙活動」を含むこの問題への日本側の真剣な取り組みを訴えた(12)
 さらにこの後の宮中晩餐会においても江沢民は歴史問題を中心に取り上げ、過去の「軍国主義」を痛烈に批判した。「不幸なことに、近代史上、日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩み、中国人民とアジアのほかの国々の人民に大きな災難をもたらし、日本人民も深くその害を受けました。『前事を忘れず、後事の戒めとする』と言います。われわれはこの痛ましい歴史の教訓を永遠にくみ取らなければなりません」と(13)。宮中晩餐会の天皇の面前で歴史問題を強烈に語りつづけ、しかもこれがテレビで中継されたことから、その後江沢民の晩餐会の場での発言に関しては日本国内でかなり不評を買った。
 この間海外でも大きな話題となったのは、共同宣言に署名が行われないと判明したことであった。日中両政府とも署名はもともと予定されなかったとしているが、日韓共同宣言や小渕首相の訪露のさいのモスクワ宣言などでは署名されており、この段階においては中国側の不満の現れであるとの見方が大勢を占めることとなった(14)
 一一月二七日は衆参両院議長主催の朝食会、日中友好七団体主催レセプションなどがあったが、ここでも歴史問題への言及が多くを占めた。しかし夜の小渕首相主催の歓迎晩餐会から江沢民の発言は若干軌道修正に入った。そこでは歴史問題について触れたあと、「日本は戦後平和発展の道を選択し、経済の面で大きな成果をあげ、今日の世界の主要経済先進国の一つとなっています。引き続きこの正しい発展の道を堅持していくことは、日本自身にとって有利であり、アジア及び世界の平和と発展にとって有利であります」(傍線筆者)と語った(15)。これは明らかに共同宣言で削除された部分の復活であり、この時点にいたって江沢民の対応もややソフトなものにシフトしはじめた傾向を見ることができる。この段階でおそらく彼は日本の反応を感知したのではないかと推察される。ただこの微妙な変化に気づいた日本のマス・メディアは当時ひとつもなかった。歴史問題関連の発言の有無にすべての神経が集中していたといっても過言ではない。
 一一月二八日で注目すべきは早稲田大学での江沢民の講演である。ここで江沢民は日本の若者に伝えたい一念からか「歴史の証人」を自認し、日本の侵略により中国では「軍民三五〇〇万人が死傷し、六〇〇〇億ドル以上の経済的損失を被った」と語った。ただ別のところでは、「今日、日本が経済大国に発展できたのは、まさに平和と発展の道を歩んだ結果であり、隣国と平和につきあった結果だ」と述べることで、戦前と戦後の日本を区別する姿勢も見せ、若干のバランスをはかった(16)
 この日の夕方、江沢民は新幹線で仙台へ向かった。その後二九日は魯迅の碑や東北大学を訪れ、午後には札幌へ向い、牧場などを視察し、翌三〇日すべての公式日程を終え中国に帰国した。江沢民は東北と北海道ではくつろいだ様子を見せ、東京で見せたような重苦しい雰囲気とはかなり異なるものであったと伝えられる。
三、日本の立場
 以上のような経緯で摩擦を生じた日中関係ではあったが、その背景には具体的に何があったのであろうか。日中両国にはそれぞれの論理があり、それがさまざまな要素でこじれたと考えられる。そこで両国の立場にたって、それぞれの論理と背景を、筆者自身による両国の政策担当者へのインタビュー調査にもとづいて、できるかぎり客観的に再構成してみたい。まず日本の立場である。
 (1)日本側に「歴史問題疲れ」ともいうべき状況が生まれていることがあげられる。戦後五〇年以上を経て世代交代もすすんでいる。戦争を実際に知る世代は六〇歳を優に過ぎている。一部には戦争を正当化する人びとも存在するが、大多数の主流を構成する人々は戦争を直接体験していなくとも一定の反省の念を抱き、「侵略」を認めている。しかし「一部」を「全体」として扱うかのような中国による歴史問題への執着と繰り返しの批判に、多くの人々が徐々に「疲れ」を感じはじめている。
 とくに中国の共産主義イデオロギーの衰退と、国内の分散化傾向を是正するためとも思われる一九九五年の戦後五〇年の頃からの相次ぐ愛国主義キャンペーンは、日本の「歴史認識問題」と結びつけられることが多い。中国は歴史問題を大きく取り上げつづけると、それが日本国内で反感を呼びつつあることについてもほぼ理解している。しかし国内的論理の前に、それを簡単に取り下げることができない事情も大きい。
 (2)日本では、中国との歴史問題についてはすでに「おわび」を表明したとの認識が根強い。一九七二年の日中共同声明のなかではこの点に関して「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と述べている(17)。また一九九二年の天皇訪中のさいのいわゆる「お言葉」のなかでは、「我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」とギリギリの線で表現している(18)。一九九五年の戦後五〇周年にあたっての村山首相談話は中国だけに向けられたものではなかったが、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、・・・この歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのおわびの気持ちを表明いたします」と語った(19)
 たしかに「おわび」という言葉自体は、中国を含むアジア諸国に向けられた村山談話のなかで使われたのみであった。しかし日本側は、過去のこうした機会を通して「おわび」の気持ちを何度も表現してきたという立場を維持している。とくに中国と韓国を比較した場合、中国には文書化もしてきたし、天皇訪中も実現しているのに対して、韓国に対しては両方ともまだ実現していないという思いが日本側には強かった。
 (3)小渕政権を取り囲む状況との関連を考える必要がある。七月三〇日に誕生した小渕政権は、リーダーシップへの疑問と経済停滞の深刻さとあいまって支持をさらに減らしていた。そして八月三一日には北朝鮮が三陸沖に達するテポドン・ミサイル(北朝鮮は人工衛星と主張)の発射実験を敢行し、日本国内で急激に安保問題に対する危機意識が高まった。このような状況のなかで自民党内部では政治の主体性と指導力の欠如に対する批判が強まり、それが結果としてその後の自民党と自由党の連立を生み出す原動力となった。「おわび」挿入に対する強硬な反対姿勢も、こうした自民党内の一連の動きのなかに位置づける必要があると思われる。
四、中国の立場
 中国の立場に関して最も言われるのは、歴史問題は中国の原則中の原則であり、今回の訪日での扱いは面子(メンツ)を失ったとするものである。端的に言えば、なぜ中国は韓国以下の扱いを受けたのかという点である。中国にとってみれば、金大中訪日にさいして「おわび」を文書化しておきながら、その翌月の江沢民訪日でそれを挿入しないというのは、何らかの意図がそこにあると感じざるをえない。これについて日本側は、中国に対しては天皇訪中を含む多くの対応をしているが、韓国には何もしていないと主張する。しかし中国はさらにこれに対して、過去に対応しているのなら今回「おわび」を挿入することに抵抗はないはずであり、入れることでけじめをつけ未来志向の関係を築くべきであったと考える。またこの間日本のなかでは、韓国の場合は「植民地」であったが中国の場合は「侵略」であり、そこに差があるというような意見まで一部で言われた。これを聞いた中国側は日本の対応にさらに不信感を強めることになった。
 (2)これも面子に関連するが、台湾問題が指摘できる。中国は対米交渉でクリントン大統領から「三つのノー」(「二つの中国」「一つの中国・一つの台湾」不支持、台湾独立不支持、主権国家で構成される国際機関への台湾の加盟不支持)を訪中で引き出した。ロシアも明確にそれについて言及した。しかし、準備交渉の段階で中国が台湾問題に関して日本側から得たのは、共同宣言のなかでの「中国は一つである」との表現だけであり、結局「三つのノー」を引き出すことはできなかった。それは日本側の強い抵抗によるものであったといわれる。
 実際のところ、もともと歴史より台湾のほうが中国にとってより深刻な問題であり、江沢民訪日をめぐって長く争点となっていたのは台湾問題であった。それは一九九七年秋の地方選挙で独立を掲げる民進党(民主進歩党)が勝利して以来、中国側は台湾の政治的変化を非常に警戒してきた。中国は対米関係の改善にあたって、政治犯の魏京生や王丹の釈放や国連人権A規約(経済的、社会的、文化的権利に関する国際規約)、B規約(市民的、政治的権利に関する国際規約)への調印約束等、多くの譲歩を行ってきた。これに対して中国がアメリカに要求したのは、主として台湾の独立傾向阻止への協力要請であった。クリントン訪中以後から九八年にかけて、アメリカはさまざまなルートを使って台湾に中国との対話に応ずるよう働きかけるなど、独立傾向を抑制させる行動をとったことは疑いない。
 中国は江沢民訪日にあたって日本にも同じように要求した。とくに江沢民訪日は一二月五日の台湾における立法院選挙と台北・高雄市長選挙の直前であり、中国は日本から一定の譲歩を引き出し台湾にさまざまな形で圧力を加えることで、一連の選挙で是が非とも国民党に勝利してほしかった。ところが日本の強い抵抗に遭遇し、しかも一〇月から再開した中台間の民間対話(辜振甫氏訪中)の雰囲気を壊したくないため、中国側は台湾問題に固執するのをあきらめ、歴史問題に重点を移動した。ところが結果は前述した通りとなってしまった。結局、中国は日本から台湾問題でも歴史問題でも何も譲歩を引き出せず、江沢民自身が一定の敗北感と面子喪失を意識したとしても不思議はない。このあたりのバランスの悪さに中国側は怒りを募らせたと予想される。
 (3)訪日問題での主役は何といっても江沢民であり、あくまで歴史にこだわりつづけた彼個人の行動と思いに注目する必要がある。江沢民は一九二六年に揚州に生まれた。彼の父・江世俊の弟・江上青は共産党員であったが、一九三九年に日中戦争のなかで漢奸に殺されたと言われる。江世俊は江上青に男の子供がいなかったことから、息子の江沢民を未亡人王者蘭の養子にした。当時揚州は日本軍の影響が強く、亡くなった養父のこともあり、このころから日本に対して強い反感を抱いていたと言われる。真偽のほどは定かでないが、彼個人も日本の軍人に殴られた、あるいは軍犬に咬まれたなどの風説が根強くあり、これらも江沢民の対日観に大きな影を落としていると言われる。
 ただこうした個人的経験だけで、突如として日本との歴史問題に強くこだわる姿勢を見せたのは不自然である。そこには何らかの契機があったはずである。この点で言えば、訪日の数週間前に江沢民は一冊の日本語からの翻訳本を読み、その内容に激怒したと言われる。それは『大東亜戦争の総括』と題する本であり、自民党内の歴史研究委員会の編集となっている。これは中国で内部発行として新華出版社から出されたものであった(20)。歴史研究委員会とは自民党の国会議員を中心に一九九四年一一月に結成されたものであり(委員長は山中貞則、事務局長は板垣正)、全体で一〇〇人以上の議員の名前が連ねられている。この委員会の名簿には、このときの内閣の大臣や主流派議員が数多く含まれている。本書に収録された論文のほとんどは議員以外の評論家等によって書かれたものであるが、内容的には「虚構の『南京大虐殺』」等の論文が含まれ、全体として東京裁判史観に対する批判が底流にある。江沢民はこれを読み、こうした歴史観が自民党の主流まで含めた多くの国会議員の本音であると判断し、結局それは日本の「一部」ではないのではないかとの思いに達したようである。
 江沢民の態度硬化の背景として、しばしば彼が権力的に弱体であったからだと指摘される。ただ江沢民はアメリカとの関係を改善し、ロシアやヨーロッパ諸国との関係を調整することでパートナーシップを確立し、国内的にも当時深刻であった洪水問題を陣頭指揮して対策を講じ、軍への信頼と士気を回復させるなど、彼の権力基盤はかなりの程度固まっていたはずである。その意味で、彼の個人的思いや行動を周囲が制止できなくなってしまったのが実情ではないかと思われる。
五、江沢民訪日の成果と意味
 一九九八年一一月の江沢民訪日は日本の歴史問題に焦点が集中し、それ以外に取り決められたこと、とくに前向きの話がほとんど無視される形となってしまった。しかし言うまでもなく、それは一面的な見方である。今回の訪日には数多くの成果もある。
 第一に人的往来の拡大によるネットワーク強化が確認されたことがある。共同宣言のなかで毎年どちらか一方の国の首脳が相手国を訪問すること、政府間のホットラインを設置すること、安保対話を促進すること、一九九九年から二〇〇三年までに延べで一万五千人にのぼる相互の青年の交流を実現すること、中国側が日本から今後五年間、毎年一〇〇人の青年を招聘すること(「青少年交流のための協力計画」)、中国人の日本観光旅行の制限を緩和すること等が取り決められた。これらが着実に実行されれば、交流の基礎として重要な契機となるであろう。
 第二に共同宣言が言うように、日中関係を従来の二国間関係中心ではなく、その安定がアジア太平洋と世界の平和と発展のために資するというように、関係をグローバルな視野のなかでとらえる方向性を打ち出したことである。それは関係の相互依存化を前提にした発想であり、両国の利害が相互に結び付きあい、関係が世界とも有機的につながりをもっていることを確認しあったことを意味する。共同宣言のなかで、アジア経済危機への共同対処や、核実験と核軍備競争の停止を訴えたこと等はその現れである。
 第三に環境協力があげられる(「環境協力に関する共同発表」)。日中共同で大連、貴陽、重慶の三都市で環境開発モデル都市を作ること、環境情報のネットワークを整備すること、日中環境保護合同委員会の活動をさらに促進すること、日中環境協力総合フォーラムを設置すること等、についての合意が今回の訪中で決められた。
 第四に今回中国側ははじめて共同宣言のなかで、これまでの日本の経済協力に対して「感謝の意」を表明したことである。ただし前述したように、中国の公式メディアでは共同宣言の全文でなく抄訳が公表されており、残念ながらこの部分は省略されてしまった。とはいえ内部で幹部は全文を読んでいるはずであり、まがりなりにも公的文献にこうした文言が挿入されたことは日本にとっても歓迎すべきことである。
 
 最後に、江沢民の訪日をどう総括したらよいのであろうか。これを単純に判断することはできない。残念ながら、双方にとって後味の悪い思いを残したことは疑いないが、将来へ向けての具体的なビジョンが提示されたこともまた事実だからである。この小論で示したように、両国には両国の論理と裏事情があり、それらがたまたまねじれ現象を起こしたとも言える。日本は国内の政治事情があり、中国では江沢民個人の思いがとりわけ強かった。両国は故意に関係を崩そうとしたわけではなく、さまざまなコミュニケーションのもつれが結果を複雑なものとした。
 現在でも両国は訪日を「成功」と評価する方向を維持しており、関係を悪化させまいとする冷静な対応をつづけている。江沢民訪日を受けた一九九九年七月八日からの小渕訪中は二泊三日という短い期間ではあったが、和やかな雰囲気のうちに終わった。もちろんその下準備として、訪中する当日の直前に、日本は中国のWTO(世界貿易機関)加盟に関する合意を発表するなどの措置をとっていた。そして訪問の過程でも、中国側が歴史問題への言及を必要最低限に止めるなどの配慮を見せた。小渕首相との会談のなかで、江沢民は歴史問題に関連して、「歴史をかがみとし、将来を開く」との発言に止めた(21)。こうした状況は九九年一〇月一日の建国五〇周年にさいしても変わらず、日本の歴史問題に関連させて「愛国主義」を発揚させることはなかった。中国においても、江沢民訪日を通して一定の反省があったと見るのが妥当であろう。ただもちろんこれで問題が本質的に解決したことを意味しない。
 全体として言えば、今回の訪日のなかで起こった両国の軋轢は、日中関係の基本的構造を根底から揺るがしたわけではなかった。しかしこうした状況が日中関係においてなぜ出現するのかについて、感情を排した冷静な議論と分析が今日きわめて必要である。でなければ、こうした摩擦がいつしか関係の根底部分まで揺るがすものとなりうる素地を含んでいるからである。とくに最近の相互イメージの低下という事実を見るにつけ、問題はより根底的なところにあることを感じさせる。それが何かについては、いずれ稿を改めて論じてみたい。
国分良成(こくぶん りょうせい)
1953年まれ。
慶應大学法学部卒業。慶応大学大学院修了。
慶応大学法学部助教授を経て現在、慶応大学法学部教授。慶應大学東アジア研究所所長。
 

(1)小島朋之「日中関係の変容―相互認識とイメージを中心に―」、小島朋之・家近亮子編『歴史の中の中国政治―近代と現代』、勁草書房、一九九九年、等参照。
(2)「高瞻遠矚 面向未来―熱烈祝賀江沢民主席訪問俄羅斯和日本圓満成功」『人民日報』一九九八年一二月一日。
(3)田久保忠衛「それにつけても無礼千万、江沢民」『諸君』一九九九年二月号、「結局江沢民に三九〇〇億円を献上しただけだった外務省の『無能』」『週刊ポスト』一九九八年一二月一八日、等参照。
(4)どちらかといえば、日本に対する批判記事が目についた。例えば、Nicholas D. Kristof, "Buying the Past: War Guilt Haunts Japan," New York Times, November 30, 1998.
(5)国分良成「首脳外交と中国」『国際問題』一九九九年一月号、参照。
(6)日韓共同宣言は一九九八年一〇月八日夕刊各紙に掲載されている。
(7)『朝日新聞』一九九八年一〇月九日。
(8)この辺りの事情については、『読売新聞』一九九八年一一月二七日解説面記事、『朝日新聞』一九九八年一一月二九日記事等、参照。
(9)『朝日新聞』一九九八年一一月二五日朝刊。
(10)『朝日新聞』一九九八年一一月二九日朝刊。
(11)中国の政策担当者への私的インタビュー(一九九八年一二月)。
(12)一一月二七日朝刊各紙。
(13)『朝日新聞』一九九八年一一月二七日朝刊。
(14)『産経新聞』一九九八年一一月二六日夕刊。
(15)「小渕恵三首相主催の歓迎宴における挨拶」、総理府資料。
(16)『朝日新聞』一九九八年一一月二八日夕刊。
(17)「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」『日中関係基本資料集 一九四九年―一九九七年』、霞山会、一九九八年、四二八頁。
(18)「天皇陛下の揚尚昆国家主席主催晩餐会における答辞」同右、七九四頁。
(19)「村山内閣総理大臣談話」同右、八二〇頁。
(20)国際問題参考訳叢、[日]歴史研究委員会編『大東亜戦争的総結』、新華出版社、内部発行、一九九七年。
(21)一九九九年七月一〇日朝刊各紙、及び『産経新聞』一九九九年七月一一日、主張欄。
 
*本稿は財団法人国際金融情報センター・平成一〇年度プロジェクト「我が国の二一世紀における対中公的資金協力のあり方について」の報告書(未公刊)に提出したものに、最新の資料と調査を加えて書き改めたものである。
 
 
 
 
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