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私はこう考える【中国について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


1999/02/24 SAPIO
もしチベット、モンゴルが中国領ならカナダはインド領になってしまう
東京外国語大学名誉教授 岡田英弘
中国人のいう「正確な歴史認識」とは何か?
 日中関係というと、すぐに「過去の歴史」を問題にしたがる向きがある。しかし同じ「歴史」と言っても、日本人と中国人では、「歴史」という言葉の意味がぜんぜんちがう。
 日本人の素朴な考えでは、歴史というものは、毎年毎年の事実の積み重ねで、あった事はあった事、なかった事はなかった事だ。つまり歴史は過去に確定してしまった事実だから、あとの都合で変えることはできない相談だ。
 ところが中国人にとっては、歴史の「事実」は、現実の政治の必要に応じてどんなにでも変えることができるものなのだ。この意味で「歴史」は、権力者にとっては、他人をねじふせて自分の意に従わせるための強力な武器である。
 このことは、中国の政治家が好きな「正確な歴史認識」という表現そのものに、よく表われている。日本語で「正確(せいかく)」と言えば、「ただしく、たしかなこと、まちがいのないこと」(三省堂『大辞林』)で、動かしようがない、変えようがないというニュアンスがある。
 ところが、中国語で「正確(ジェンチュエ)=zhengque」と言えば、日本語の「正確」とは意味がまったくちがい、「正」はすなわち「政」で「そのときどきの政治権力の要求に合致している、政治の大勢に順応している」ことなのである。
 つまり、中国人の言う「正確な歴史認識」は、そういうことにしておくほうが、権力にとっては便利であり、個人にとっては安全だという、政治的な通り相場である。だから中国人の「正確な歴史認識」を、日本人の立場から見れば、「過去の事実に反した、とんでもない嘘の固まり」にしか見えないことがしばしばだ。
 そこで、中国人の言う歴史が、いかに嘘で固まっているか、実例を挙げて説明しよう。
「中国四千年」の歴史はウソである
 俗に「中国四千年」と言う。この言い方が示すように、中国がそれほど長い間にわたって存在してきた、ゆるぎない大国であるかのように、中国人はこれまで宣伝してきたし、日本人にもそう思いこんでいる人が多い。ところがこの「中国四千年」は、とんでもない大嘘なのだ。
 今で言う「中国」ができたのは、西暦紀元前221年、秦(しん)の始皇帝が黄河と長江(揚子江)の流域をはじめて統一したときのことだ。この前221年が、中国文明のスタートだった。ここから数えれば、2000年までとしても、中国文明の歴史の長さは、2220年にしかならない。これでは、「中国四千年」どころか、「中国二千年」のほうがほんとうに近い。
 秦の始皇帝の統一以前の戦国(せんごく)時代(前5〜前3世紀)や、さらに前の春秋(しゅんじゅう)時代(前8〜前5世紀)には、黄河と長江の流域に多くの都市が並び立って、たがいに覇権を争っていただけで、統一政権などただの一度もあったことがなかった。
 いま英語で中国のことを「チャイナ」という。フランス語でも「シーヌ」、ドイツ語でも「ヒーナ」という。これは「秦」がインドのことばに入って「チーナ」となったのを、15世紀末にインドにやってきたポルトガル人が聞いて、西ヨーロッパに伝えた名前だ。
 日本語でも「支那(しな)」というが、これはイタリア語の「チーナ」に、江戸時代に新井白石が当てた漢字で、もとは仏教の経典の音訳漢字だ。これは、秦の始皇帝のときに中国ができた、何よりの証拠だろう。
 「中国四千年」という言いぐさの出所は、神話だ。歴史ではない。
 中国で最初の歴史書『史記(しき)』では、黄帝(こうてい)などの「五帝(ごてい)」が人類最古の君主だったことになっていている。「帝(てい)」は天の神のことだから、五帝の物語は神話そのもので、人間界の歴史ではないが、『史記』よりあとの中国では、黄帝が中国文明をつくったことになった。
 1911年10月10日、湖北省(こほくしょう)の武昌(ぶしょう)(いまの武漢市)で漢人の軍隊が反乱を起こし、北京にいた満洲人の清朝皇帝から独立を宣言した。これが辛亥(しんがい)革命のはじまりだったが、このとき武昌の革命政府は、神話にもとづいて、1911年を「黄帝即位紀元4609年」と呼んだ。「中国四千年」という言い方が一人歩きをはじめたのは、これからのことで、20世紀の中国人が吹いたほらがもとになったわけだ。
皇帝たちの多くは非中国人だった!
 紀元前221年に中国ができたといっても、それから2000年間、同じ中国人の中国が続いてきたわけではない。
 秦の後を受けた前漢(ぜんかん)・後漢(ごかん)朝が421年も続いたので、それ以後、漢人を中国人と呼ぶようになった。その後漢時代の184年、黄巾(こうきん)の乱という大反乱が全国で起こり、これが内戦の連鎖反応を引き起こして、食糧難のために、漢人の人口は5600万人台から、たった400万人台に激減した。ことに被害のひどかった華北の平原部では、漢人はほとんど絶滅した。
 人手不足を補うために、北アジアの草原から強制的に華北に移住させられた遊牧民たちは、304年、五胡十六国(ごこじゅうろっこく)の乱と呼ばれる反乱を起こして、華北に多くの独立王国を建てた。こうして華北は遊牧民の住地になり、生き残った漢人たちは、長江の南の未開の地に逃げ込んで、南朝と呼ばれる一連の亡命政権を建てた。
 589年になって、鮮卑人という遊牧民の隋(ずい)朝が南朝を征服して、中国の再統一を実現した。こうして遊牧民が全中国の主人になった。
 こうして再建された中国では、隋朝の皇帝も、その後を受けた唐(とう)朝の皇帝も鮮卑人で、その宮廷で活躍した大臣や将軍も、ほとんどが漢人ではなかったのである。
 907年に唐朝が滅亡して中国が混乱におちいった後、華北では53年間に5つの王朝(五代(ごだい))があわただしく交代したが、そのうち3つの王朝の皇帝はトルコ人だった。
 979年に北宋(ほくそう)朝が中国を統一したころには、中国の外の北アジアには、すでに遊牧民・狩猟民の新しい帝国が成長してきていて、契丹(きったん)人の遼(りょう)帝国が優勢な軍事力で北宋をおびやかし、ついで女直(ジュシェン)人(女真人)の金(きん)帝国が、北宋の本拠地の華北を奪った。最後にモンゴル帝国がユーラシア大陸を席巻して、中国をも呑み込んだ。こうして中国は、大モンゴル帝国の植民地の一つにすぎなくなった。
 その後、1368年、中国には明(みん)朝という漢人の政権が出現して、モンゴル帝国から独立したが、これが最後の漢人の王朝だった。明朝は1644年に滅亡し、代わって満洲人の清帝国が中国を支配した。
 秦の始皇帝が中国を建国してから、1912年に清の最後の皇帝・宣統(せんとう)帝が退位するまでの2132年間に、はっきり漢人とわかる皇帝が在位した期間はその4分の1の年数しかない。大部分の期間、中国を支配した皇帝は、漢人ではなかった。
 皇帝ばかりではない。建国以来2200年の間に、中国人の血統も、すっかり入れ替わった。中国文化もくり返しくり返し、征服者が持ち込んだ外来文化に同化された。現代の中国で伝統文化ということになっているものは、ほとんどが13〜14世紀のモンゴル時代以後に中国に持ち込まれたもので、秦の始皇帝以来変わっていないのは、漢字を使っていることだけである。
事実無視の中国人の論法こそ無視せよ
 日中関係の歴史は、日本の外務省が1913年10月6日、中華民国を承認したときにはじまった。90年にも足りない短いものだ。現在の中華人民共和国にいたっては、1949年の成立だから、たった50年の歴史しかなく、日本が中国大陸に出兵した支那事変(1937〜1941年)の当時には、まだ存在さえしていない。
 そもそも天智天皇が668年*注に日本を建国したのは、唐帝国が韓半島を征服したという危機に対処して、日本列島の住民の団結を固めて、中国に呑み込まれることを防ぐのが目的だった。日本はその後1200年間、一貫して、中国とも韓半島とも、公式の関係を持ったことがなかった。
 日本が建国以来はじめてアジア大陸の政権と国交を開いたのは、1871年(明治4年)に調印した日清修好条規だったが、相手は中国ではなく、満洲人の清帝国だった。
 清朝という帝国は、万里の長城の外の藩陽(しんよう)で、1636年、狩猟民の満洲人と遊牧民のモンゴル人が連合して建国した政権である。後に1644年、中国で漢人の明朝が滅亡したので、満洲人の清朝皇帝が北京に入って中国皇帝を兼ねることになったのだ。
 清帝国は18世紀になって、チベットを保護下に入れ、さらに中央アジアのジューンガル帝国を滅ぼして新疆を征服した。
 清帝国の第一公用語は満洲語、第二公用語はモンゴル語で、漢文は第三公用語に過ぎなかった。漢人の官僚は中国の行政を担当するだけで、帝国の経営には参加させてもらえなかった。中国は満洲人に支配される植民地だっただけで、漢人はその中国でさえ主人ではなく、二級市民の地位しかなかったのだ。チベット人も、新疆のイスラム教徒も、満洲人の皇帝の下で完全な自治を認められていて、中国の一部だったわけではなく、ましてモンゴルや、チベットや、新疆の統治に、漢人が関係したことは一度もなかった。
 そういうわけで、日本が建国以来はじめてアジア大陸と正式な国交を開いた相手は、中国ではなかった。1894〜1895年の日清戦争も、日本と清帝国の戦争で、中国との戦争ではなかった。
 日清戦争後の下関講和条約で、日本は清帝国から台湾を獲得したが、その台湾は、それまで一度も中国領だったことはなく、満洲人が1683年にはじめて征服したものだった。中国という国家は、日清戦争の当時にはまだなかったのだから、日本は台湾を中国から奪ったのではない。
 1911年、中国で辛亥革命が起こると、モンゴル人とチベット人は、それまで一度も中国に支配されたことはなかったので、清帝国に見切りをつけて独立を宣言した。中国人の中華民国が成立したのは、その翌年になってからだ。
 モンゴル国はそれ以来、現在に至るまでずっと独立をたもっている。チベットは1950年になって、中国人民解放軍に占領され、むりやり中国に併合された。中国共産党はこの侵略を正当化するために、例によって中国流の大嘘をつきまくっている。
 いわく、清朝は中国の中央政府だったのだから、清帝国はすなわち中国であり、清帝国の領土はすべて中国領である。だからチベットも中国の一部であり、チベット人が独立を主張するのは祖国に対する反逆だ。
 この論法は、中国人以外のわれわれから見れば、とんでもない事実の無視だ。
 だいたい、満洲人の清朝皇帝は、中国の皇帝だけを兼任していたのではなく、モンゴル人のハーンでもあり、チベット仏教の施主でもあり、イスラム教徒の保護者でもあった。中国皇帝の資格でモンゴル人やチベット人やイスラム教徒を統治していたのではない。
 中国共産党の論法を適用すると、英国のヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねていたのだから、大英帝国の領土はすなわちインドの領土であり、カナダもオーストラリアもニュージーランドも、インド領の一部であることになりかねない。
 中国人の言う「正確な歴史認識」を、われわれ日本人はあまり本気にしないほうがいい。
岡田英弘(おかだ ひでひろ)
1931年生まれ。
東京大学文学部卒業。東京大学大学院修了。
東京外国語大学助教授、教授を歴任。現在、東京外国語大学名誉教授。
 
 
 
 
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