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 その日の午後、幸いにも前川課長の予想は外れ、マゼにはならなかった。
 それから二週間、吉田は相変わらず仕事では苦労していた。どうやら機関長の江口が彼の教育係になっているようであった。
 彼は江口に叱咤されながらも、明るい船員達の間に、徐々にとけ込んでいった。
 この日もきしゅうは、ゴミを求めて紀伊水道に滑り出した。
 操船室ではいつもどおり、谷口の横で杉山が双眼鏡を覗いていた。
「船長、あれ、なんやしょねぇ?」
「ああ、あれなぁ・・・」
 谷口は、その得体の知れない物の方向に、きしゅうを進めた。
 やがて双眼鏡でその全容をとらえた杉山は、驚きの声を上げた。
「船長、でかい!流木やして。おまけに根っこまで付いてらっしょ」
「前方に流木発見」
 鳴り響く船内放送に、船員らがあわただしく配置に付いた。
 近づいてみると、それは根っこの付いた直径一メートル半、長さ十メートルはあろうかという朽ちた流木であった。
 これまで流木の回収を何年も行ってきた船員達でさえ、ため息の漏れる大物であった。
「船長、これかいなぁ。ほんこないだ南海フェリーが大きな流木を見たって電話掛けてきてたっしょ」
「ああ、おそらくそうやしょ」
「こないなでかいのが、漁船にでも衝突したらえらいことやして」
「船長、どう料理しよらぁ。コンテナに入らないっしょ」
「うーん。ロープで結わんことには何事も始めれんが、こりゃ、結わえれんやして」
「ケンツキで引っかけて流木を持ち上げることもできんやして・・・」
 杉山航海士も腕組みをしたまま考え込んだ。
 船員達も集まって流木を眺めながら、操船室の二人と同じように思案をしていた。突然、無口な満ヤンが口を開いた。
「ロープかせ」
 エグチンがロープを渡すと、せかせかと満ヤンは自分の体にロープを結わえた。
「飛び込む気か」
 と音ヤンが言った時には、もう満やんの体は宙に舞っていた。
 みんながアッと言う声と、満ヤンが海に飛び込む音を聴いた杉山が放送で怒鳴った。
「こらァ、むちゃすなっしょ!」
 今度は、両手を掻いて海中から浮き上がってきた満ヤンが、一回大きく息を吸い込むと操船室に向かって叫んだ。
「他にないっしょ!」
 捨てぜりふを残した満やんは、まるで忍者のように素早く流木の周りを潜って、あっさりとロープを結わえてしまった。
 結わえ終わると、今度は流木に馬乗りになって、カウボーイの投げ縄の体制である。
「ほら、クレーンに結わえっしょ」
 飛んできたロープを上ヤンがキャッチし、船体に装備されているクレーンに引っかけた。
「ほな、満ヤン巻き上げるっしょ」
 と、すでに操作リモコンを手にしている、エグチンがスイッチを入れた。
 ウィーンというクレーンの巻き上げ音と、ギシギシというロープの軋む音が、耳に響いた。
「潮岬へ、よーそろぉー、よーそろぉー、はいすと!でっこぉ。よーそろぉー・・・」
 杉山の変な号令に、吉田だけが首を傾げた。
 やがて、恐ろしいほどの巨木が、海水を切りながら斜めに持ち上がってきた。
 流木のもう片方は、水面に浮いた状態で、依然満ヤンが馬乗りになったままである。
 やっと船体に流木の片方が持ち上がると、今度は上ヤンが流木に乗り移り、ロープを何カ所か結わえた。
 すると、チェーンソーを持って来た音ヤンが、デッキから身を乗り出して、「ナンマンダブ、ナンマンダブ、樹齢二百年の巨木様」
 と冗談を言いながら流木を切り始めた。
 ウィーン。ガリガリ。チャチャーン。騒々しい音が鳴り響き、木くずが風に舞った。
 船員らがてきぱきと動く様子を、吉田は唖然として見つめていた。というか自分が何をしていいのか分からず、所在なく見守るしかなかった。
「ヨシヤン、ケンツキ持ってこいっしょ」
 と、初めて江口からヨシヤンと呼ばれたのと、自分にも仕事が言いつけられたのがうれしくて、「はい」と威勢のいい返事をし、急いでケンツキをかき集めてきた。
「そんなにもいらんのやして。一本でええんやっしょ」
「はあ」
「ええか、この切った木にケンツキをかまして、クレーンにあわせて引っ張り上げるんやっしょ」
 切った流木はクレーンだけでも持ち上がるが、安定させるためにはケンツキをかまし、船体に当たらないようにする必要がある。
 吉田は、巻き上げるたびに腰を落として、ケンツキを持つ手に力を入れた。
 流木は海水を含んでとにかく重たい。その揺れ動く流木に、吉田の突き刺したケンツキは何度も振り払われた。
 おまけに、ここにきて風と波がいよいよ強まってきて、船体が激しく揺れ始めた。
「ヨシヤン!しっかり固定せいっしょ」
 江口が、ケンツキを突き立てて加勢した。
 強い南風が船員達の顔や体に、容赦なく飛沫を叩きつけた。
 満ヤンのまたがっている流木も激しく揺れ動き、まるでロデオの暴れ馬のような状態だ。
「こら、はよせい。マゼやしょ!」
 満ヤンが鬼の形相になった。
 格闘することおよそ二時間。
 流木を全て上げ終わると、吉田の軍手は真っ赤な血で染まっていた。
 ケンツキを強く握り続けたために、手の豆がつぶれたのである。
 作業が終了すると、激しく揺れるデッキに全員がへたり込んだ。
 疲れ切った船員達は、汗とも飛沫とも区別の付かぬボタ濡れ状態で、誰一人ものも言わず、肩で息をするのみであった。
 しばらくしてやっと音ヤンが、ぽそっと口を開いた。
「満ヤン。着替な風邪引くっしょ」
 満ヤンは思い出したように両手をつっかい棒にして体を起こすと、重たい足を引きずるように船室の方に消えていった。長時間、巨木を両足で挟んでバランスを取っていた彼の足は、棒のようになっていた。
「ヨシヤン、後で満ヤンの足揉んだりしょ
 音ヤンからもヨシヤンと呼ばれて、吉田はいつの間にか吉ヤンになっていた。
 帰港中に、吉田は激しく揺れる船内で、うつむせになった満ヤンの足をさすり続けた。
 満ヤンの内股は、所々内出血で赤黒く腫れ上がっていた。
 その満ヤンの足は、一週間ほどするとすっかり元に戻った。
 しかし、吉田の両手のまめは、その後も回収作業の度にはがれて何度も血を吹いた。
 やがて、彼のまめもはがれなくなる頃には、暑い夏も終わりにさしかかっていた。
「中藤君よ。いよいよ台風シーズンのお出ましやな」
「ええ、二つも同時に発生してますね」
 気象台からファクシミリで事務所に送られてくる台風情報に目をやりながら、二人は心配そうに会話を続けた。
 紀伊水道に浮かぶゴミは、そのほとんどが台風時に紀ノ川から流れ込んだものである。
 つまり、この時期がきしゅうにとっては一番忙しく、誰もが台風の動きに目をとがらせていた。
 日一日と台風は迫ってきた。
「石本さん、十号の方は近畿に直撃しそうな感じですね」
「ああ、吉ヤン、覚悟しときやし」
「はい。しかも、今度のは雨台風やてテレビで言うてましたわ」
「そら、ようけゴミが出るわしょ。プラスチックやビニール、電化製品。そいつらが海でどんだけ悪さしよると思うやして」
「確かに、数年前の関西国際空港が開港の日、神戸から出航した高速船がナイロンゴミを吸い込んで、途中でエンジンが停止した騒ぎがありましたね」
 吉田の返答に、「そんなん大したことやあれへんのやしょ」と音ヤンは更に調子を上げた。
「ええか、吉ヤン。わいらが何でゴミを必死に取らなあかんのかしっとけよし。確かに流木や電化製品に乗り上げて、漁船やレジャーボートが大事故につながることを、未然に防ぐというのも大事なことやして。しかし、それだけや無い、もっと奥の深い深刻さがこのゴミにはあるんやして。自然界で分解されんゴミは永遠にのこるやしょ。出た直後の浮いてるゴミも、やがては水を吸って重たくなって海底に沈むんやしょ。誰もとらんかったら、百年後、二百年後はどうなるんやして。溜まるいっぽうやして」
 音ヤンの話は懇々と続いた。
 海域に流れ込んだ、難分解性のプラスチックのゴミは永遠に残留する。
 こういったゴミが生態系に与える影響は深刻な状況となっている。
 打ち砕かれたペレット状のプラスチックを、魚やウミガメが餌と間違って飲み込んだり、ビニール糸に絡まってカモメが飛べなくなったりと、紀伊水道では、我々の気が付かないところで、毎日当たり前のようにゴミの弊害が起こっている。
 さらには、そのゴミから溶け出した化学物質も、自然界には多く残留している。
 これらの問題は、今は、生態系の末端での出来事であっても、やがて人間に差し迫ってくることは間違いない。
 そこまで話が及ぶと、横で聞いていたエグチンが苦笑いで口を挟んだ。
「吉ヤン。音ヤンのこの講義は毎回ネタが同じやしょ、月一は聞かされるんやっしょ」
 すると、すかさず、音ヤンはエグチンの頭を張り手でしばき、「じゃかぁしゃい。ひよっこはすっこんどれ!今、新規採用者の研修しとんのやっしょ」と力づくでエグチンを退け、さらに吉田に対して延々と話を続けた。
 翌日、台風十号は紀伊水道のど真ん中を北上する、最悪のコースをたどることとなった。
 台風の東側には、発達した雨雲がびっしりと張り付いていた。
 明日朝までの予想雨量は、紀伊半島で六百ミリから七百ミリと、ものすごい雨量である。
 今夕から和歌山市内も暴風圏内に突入し、夜中にピークを迎える。
 その夜、吉田はなかなか寝付かれなかった。
 着任してからの三カ月間が、走馬燈のように頭の中を駆けめぐった。
 ときおり木造の独身寮が、強風で地震のようにガタガタと揺れた。
 朝方になってやっとまどろんだ彼は、風がたたく音とは違う規則的な音に目が覚めた。
 寮母さんのノックだった。
 寮母さんは、ドアを少しだけ開けると遠慮がちな声で言った。
「吉田さん、吉田さん。電話やして」
 飛び起きた吉田が顔をのぞかせると、寮母さんは続けた。
「杉山さんから電話やして。まだ、五時前やいうのに、なんかあったんかいな」
 吉田は寝ぼけ眼で軽く頷くと、寮母さんの言葉を聞き終えない内に、電話のある一階へ走り降りた。
 電話の向こうで、やや興奮した杉山の声が響いた。
「吉ヤンか。昨日の台風で紀ノ川が出水して大変なことになったんやっしょ。河川敷の工場からガスボンベが三百本近く流れてしまったらしいんやして。放っといたら大変なことになる。直ぐ来てくれっしょ」
 その話を聞いて、吉田の眠気は一気に吹き飛んだ。
 彼は自分の部屋に戻ると瞬時に着替え、また一階に走り降りて玄関の靴を引っかけた。
 その時、背後で寮母さんの声がした。
「吉田さん。これ持っていきよし」
 寮母さんは、パジャマのまま寝ぼけ眼で、
「握っただけやして、何も入ってないけど」
 と彼の手におにぎりの包みを渡した。







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