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「中国福建省博物館体験見学会」実施報告書

 事業名 博物館体験事業の先駆的モデル調査
 団体名 日本海事広報協会 注目度注目度5


(3)泉州海外交通史博物館(泉州市)
・訪問日 2004年6月30日
・博物館対応者
副館長 丁毓玲
副館長 郭育生
・随行者 福建師範大学歴史学教授 謝必震、江大学副教授 李源
 泉州海外交通史博物館は1954年に開設されたが、当時は開元寺内にあり1991年に現在の市内中心部にある東湖公園の東側に移転した。建物は帆船をイメージしたつくりで2階建てだが、船関係は2階スペース全体を使っている。ちなみに1階は泉州宗教石刻陳列館になっている。建物の前庭には池がありジャンク船が浮かんでいるが、この船は開館時に館のシンボルとして建造し係留しているとのこと。
 2階展示スペースは中央の吹き抜けロビーを挟んで一方は川、湖沼などの淡水船の変遷が、またもう一方は海にかかわる船の変遷が紹介されている。一部の実物を除くと模型展示が多く、約160種類の大小の模型が展示されている。淡水船関係では出土独木舟、少数民族船、黄河船、長江船(明、清代)などの模型のほか、現在も利用されているという牛革の船や羊皮の筏(黄河)さらには遊覧船などの模型、資料も展示されている。
 また、海船関係では各時代の漁船、商船、戦(いくさ)船、朝貢船など小型木造船の模型や造船工具、建造過程の紹介のほか、近海平底船、福建船などの模型展示もあった。鄭和の航海を紹介するコーナーのほか、宋代車幹船、快渡船(清代)など興味が引かれる模型もあった。模型という形がはっきりしたもので船の変遷等を紹介しており、また、照明や展示手法に工夫がされており、素人でもおおよその内容をつかむことができる。
 なお、前日にわれわれ一行は博物館丁副館長ほか博物館関係者による夕食会に招かれた。石原団長より「日本は30000kmの海岸線を持っています。本日は日本の海や船にかかわる博物館の学芸員や研究者と海にかかわる関連機関が、当地を訪問しました。これを機会に情報交換や交流を深めたい」との挨拶に、丁副館長より「中国でも船にかかわる専門の博物館は、当館だけで心細く思っていましたが、日本から多くの専門の方々をお迎えでき、非常心強く感じました」との挨拶をいただいた。
 また、郭副館長より今後各館と展示交流について行っていきたいとの要望があった。
 
・質疑応答
質問 常設展示以外で何かイベントのようなものはありますか。
回答 博物館の組織は文化財発掘部、群工部、学術研究部に分かれています。このほかに中国海外交通史研究会という研究会があります。博物館としては雑誌「海外交通史研究」を発刊しています。
1991年から定期的に学術大会を開催しているほか国、省レベルでのシンポジウムも開催しています。
質問 博物館の前の池にジャンク船が浮かべてありますがこれの保存方法について。
回答 自然に任せていますが、夏には乾燥しないように水を掛けたりしています。今後表面的な処理については検討していく予定です。
質問 古船陳列館の発掘船の保存処理方法について。
回答 長い時間をかけて自然に乾燥させています。船に積んであったものについては薬剤の一種(明:みんこう)を使って保存しています。
質問 「サンパン」という船はどういう船をいうのか。
回答 遥か昔、船(水に浮いたもの)は一枚の板だったが、その簡単な船の形から時代とともに3枚の板(サンパン)を構造にもつやや大きい船に変わってきました。このことから現在の小さい船の場合「サンパン」と呼んでいます。サンパンより少し大きいのは「ジャンク(JUNK)」と呼んでいます。この由来としては漢の時代、だいたい2世紀以前には船のことは「舟(シュウ)」といい、泉州市の方言では「ジュウ(ン)」といいました。この言い方が「ジャンク」に変わってきたのではないでしょうか。
質問 鄭和の関係で天文と合わせた海図の歴史的研究をされているのでしょうか。また、経度と緯度の利用は中国ではいつごろからありましたか。
回答 当館で研究している海図には2種類あり、一つは航海海図、もう一つは海軍海図です。鄭和の航海の場合、近海を航海したので地文航法を行った。遠海の場合は星、月、太陽の位置などを利用した天文航法で航海しています。また、星や月が利用できない場合は、指南針(羅針盤)を利用した。羅針盤はすでに宋の時代から使われていた。歴史資料の中に明確に書かれていないが、おそらく明の時代からで、当時ヨーロッパから伝わったものと思われます。
 
・訪問日 2004年6月30日
 バスは高速道路を下り、田市の中心街を抜け海岸部に向かった。媽祖廟のある州島へ渡るためのフェリーターミナルへ向かうためである。航海安全の女神として崇められている媽祖については、その廟が日本の長崎などにもあるほか、来年には横浜にも創建されるとのこと。媽祖廟は世界20数カ国に5000以上もあり、そのうち台湾には1000以上あるといわれている。この廟の総本山は福建省田市の州島にあり今回の訪問地の一つであった。しかし、バスがターミナルに着くと台風7号の影響により島を結ぶ高速艇、フェリーが欠航中とのこと。残念ながら、訪問地を変更して媽祖誕生の地といわれる場所に向かった。
 ひなびた村の中をバスがゆっくりと進んで行く。狭い道の両側には筵が敷かれその上には穀物が干されており、遊んでいた子どもたちは一斉に通り過ぎるバスを興味深く見つめている。海岸に行きあたり、駐車場があった。目の前には湾を挟んで州島が望め、媽祖廟や巨大な媽祖の白い像が視認できる。誕生の地といわれる場所はここから歩いて1分。
 かつては普通の民家が点在していたが、媽祖の誕生地ということが分かったとのことで、民家を移転させ2002年に建物を建設した。土塀の間の細い道を集落の奥に入っていくと廟門に突き当たった。途中、日焼けした老人が立っていて手にしたものを差し出した。見るとブレスレットのようなもので、土産物を売っているようだった。
 媽祖誕生の地の象徴として廟、林(媽祖の出自である林氏)、井戸がある。廟内には媽祖本人像のほか両親、兄弟などを祭った像もある。家系資料のほか媽祖が育った家の間取りが再建されており、父母宮室、客室、兄嫁臥室房、媽祖機房、諸蔵房など、部屋ごとに見学できるが、あくまでも観光用のイメージとしてのつくりのようだ。
 井戸は廟から3分ほど戻った小学校の裏。今でも生活用水として利用されており訪問時には地元の女性がその井戸から汲んだ水を入れた甕を天秤棒で運ぶ姿を見ることができた。学校に隣接していることもあり、小学生が裏口から出てきて笑顔でわれわれを迎えてくれた。また、付近では農婦の作業風景も見ることができた。州島を断念せざるを得なかったわりに、気分がよかったのは、意外にも村の人たちの暮らしぶりを垣間見る機会に恵まれたからかもしれない。
 また、フェリーターミナル付近の海岸はちょうど干潮時で、木造船が船底まで剥き出しになっており、乗組員が船底や甲板上で船の整備を行っていた。日本ではあまり見ることのできない光景に、バスを止めて海岸まで降りての見学となった。
 なお、往路バスの中では随行してくださった江大学李副教授により媽祖及び柔遠駅などについて資料「天妃信仰と中国・琉球の友好往来」を使って解説があった。
 
 媽祖について(この項事前調査者JETRO赤星氏の報告書より)
 媽祖は7人兄弟の末っ子として960年に生まれた。本名を林黙娘といい、州島民の病気の治療を行っていたが、天気の予測ができたために、漁民を不意の台風などの危険から守ることができた。28歳のときに世を去ったが、のちにその徳を称え媽祖廟を建て、海の守護神として崇め、さらに皇帝の加護もあり、媽祖信仰は広く普及した。州島の媽祖が昇天したとされる場所に小さいながら、世界で最初の媽祖を奉った廟がある。
 なお、州島の媽祖廟は文革時代に一度破壊されたが1987年に大規模なものが再建された。また、その隣には更にスケールアップした新たな媽祖廟(観光資料ではこちらが「媽祖文化圏」と呼ばれている)が2002年に完成し、さながら媽祖テーマパークといった様相を呈している。日本では一般に古い史跡等ほど高く評価するが、中国では必ずしもそうでないようだ。
 
 媽祖伝説について(この項日本海事広報協会発行「海上の友」紙、「海の昔ばなし」:神戸商船大学名誉教授杉浦昭典氏執筆より)
 中国の航海の守護神である媽祖(まそ)は宋代に実在した巫女であるといい、宋では霊恵尼、元・明では天妃、清では天后と呼んで崇拝され、媽祖廟または天后宮に祭られており、媽祖は俗称である。
 伝説によれば、福州に住む少女が父と2人の兄が海へ出て働いているとき、母のもとで機織に励むうち、疲れたのか居眠りをして夢を見た。大嵐の中で父と兄たちが別々に乗った船3隻の沈みそうな有様に驚き、父の船を口でくわえ、兄たちの船を両手でつかんだところ、母の声に気付いて返事をし、口を開けてしまった。数日後、兄2人は無事だったが、父は遭難したと分かった、という話である。
 
・訪問日 2004年7月1日
・解説者 福建師範大学教授 謝必震
 かつて琉球から北京に向かう使者は福州を経由した。その際に亡くなった使者たちが葬られた墓は福州市内や近郊に散らばっている。
 福建師範大学の謝教授によると、琉球と中国との友好往来関係を結んだあと、福州は琉球人の重要な活動場所となった。福州に設けられていた「柔遠駅」は、琉球からの留学生や商人が長期滞在した。また、船が難破した漂流民たちも救助されたあと、規則により各地方政府によって福建省の館駅に送られて、福建地方政府を通して帰国の手配を行った。
 このように数多くの琉球人が福州に居住していると、病死することもよくあり、亡くなった琉球人を葬った琉球墓は相対的に福州に集中していたが、まとまった墓地はなく、各地の中国人の墓の間に散らばっていたのが実情であった。
 訪問した琉球人墓は1981年に福州市と那覇市が友好都市となったのを機に琉球人の墓として整備された。福州市文化局が市の財政で管理しており、訪問した際も係りの方が待機され、線香を手渡してくださった。
 墓は亀甲墓で当初は5基あったが、のちに3基集められ現在は8基ある。個人墓で墓そのものは砂やもち米、石灰でつくられており、年月が経っても風化しないとのことである。歴代の那覇市長も必ずお参りに訪れるとのことである。参加者の中にも沖縄や九州の博物館関係者もおり、持参した資料や写真をもとに熱心に調査していた。
 
(この項JETRO赤星氏報告書より)
 1372年、中国は琉球と正式に外交関係を樹立、1392年には当時の福建人の中から「善く船を操る者」36姓を琉球に移住させ、琉球国の海外事業の発展を促した。当時、中国と琉球との間では活発な貿易が行われ、琉球人は船で福州市を訪れ、陸路北京まで行き、風向きの変わる季節に再び福州市から琉球へ戻ったとのことである。
 多くの琉球人が福州市を横切る江の南側に居住し、当該地区には中国で亡くなった琉球人の墓が多数存在した。現在、そのうちの一つが福州市により保存、管理されており、別の場所にあったものもここに移転され、一括して保護されている。
 お墓は馬蹄形型の中国南部では比較的よく見られる形をしており、敷地内には沖縄の関係者が訪問した際の記念植樹などがあり、大切に管理、保存されている印象を受けた。
 
・訪問日 2004年7月1日
・解説者 福建師範大学教授 謝必震
 琉球館は交通の激しい通りから民家の立ち並ぶ路地を入っていった突き当たりにある。清の時代にここには広大な荷揚場であり「柔遠駅」といわれた。朝貢使節団のメンバーや貿易商人、あるいは琉球留学生たちはここに迎え入れられ、歓待をうけ、長期滞在のための宿泊施設でもあった。
 その「柔遠駅」のあった場所の一部に「琉球館」が建てられ、1992年から琉球と中国とのかかわりの歴史的資料が展示されている。1階には福州市と那覇市との友好関係の資料が、2階には福州市の海外交流の歴史的資料の展示があり、かつて福州市から琉球への使者が運んでいったもの(薬剤、鼈甲など)、琉球から福州へ持ち帰ったもの(硫黄、刀石、昆布など)などの歴史的経緯や琉球へ移住した36姓一覧などの紹介もある。沖縄県の小学生が描いた絵の展示もあり、頻繁に沖縄との交流があることが偲ばれた。







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更新日: 2022年11月26日

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