潮待ちイメージ模型 潮待ちからくり劇場
潮待ちからくり劇場(新登場)
鞆の浦は古くから港町として栄えた。それは鞆の浦が瀬戸内海の中央部に位置し、「潮待ち」に最も適していたからである。北前船など動力のまだなかった海運時代、すでに潮の流れと風によって船は動いた。ことに瀬戸内の鞆の場合干満の差が約4mもあり、潮待ちは必ずといってよいほど必要であった。
鞆の津(浦)の隆盛は「潮待ち」が一番大きな要因であった。今回それを子どもでも分かりやすく理解してもらうため、日本財団や(社)中国海事広報協会の支援を得て、この潮待ちイメージ模型を製作した。
各地に残る商いの足跡
福井県河野村の北前船主の館
右近家
明治時代の建造
(1)古文書(河野)
河野村教育委員会蔵
明治21年7月23日。右近家文書。
備後の特産品畳表を鞆の商人から買った記録。[解読]
(2)古文書(河野)
河野村教育委員会蔵[解読]
右近家文書
(3)古文書(河野)
河野村教育委員会蔵[解読]
明治21年(1888)右近家文書
熊木屋 客船書(出雲崎)
出雲崎町教育委員会(新潟県)寄託品
文化11年(1814)
出雲崎の廻船問屋熊木屋の客船(顧客)が入港した時に書き留めたもので積荷の種類とその数量なども記され興味深い。備後の特産品の松永塩千俵以上もが売られている。