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私はこう考える【国連について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


1995/11/11 産経新聞朝刊
【戦後史開封】(453)国連加盟(5)
 
 議場は張り詰めた空気に包まれていた。国連日本政府代表の加瀬俊一(九一)と代表部員は、息をひそめ緊張しながら、ソ連代表・ソボレフの一言一句に耳を傾けている。昭和三十一年十二月十二日の国連安全保障理事会。日本の加盟勧告決議案に対するソボレフの演説は長いばかりで、いっこうに核心部分に触れようとはしない。
 東京では十時間ほど前に、外相の重光葵とソ連外務次官・フェデレンコとの間で、日ソ共同宣言の批准書が無事に交換されている。
 重光晶(七九)ら日ソ国交回復交渉の当事者にしてみれば、「国交を回復してもなお、ソ連が拒否権を行使するとは到底思われない」ということになるが、国連の現場にいる加瀬らには、「ソ連のことだから最後まで何を言うかわからない」との疑心がつきまとっていた。
 記者席からは「大使、大丈夫でしょうか」と書かれたメモが届く。加瀬のすぐ後ろに座る部員の一人も、同じセリフをささやく。
 「よってわが国は日本の加盟に賛成である」
 ソボレフが演説の最後を締めくくった瞬間、加瀬は各国代表の握手攻めにあった。議長のベラウンデ(ペルー)も、フランス代表の演説が続いているというのに、加瀬のもとへ駆け寄り祝福する。ベラウンデが議長席に戻ると、ほどなくして決議案は全会一致で可決された。
 一年前、日本抜きの十六カ国加盟案が可決されたとき「生涯最悪の日」と嘆いた加瀬は、この日を「私にとり生涯最良の日でした」と振り返る。
 総会での加盟受諾演説を行うため、重光葵は十三日夜羽田をたつ。すでに首相の鳩山一郎(故人)は二日に引退を表明しており、十四日には次期総裁を決定する自民党大会を控えていた。
 鳩山の秘書だった石橋義夫(七〇)=現共立女子学園理事長=はこう語る。
 「鳩山は、日本はサンフランシスコ条約で占領政策から独立し、自由主義国との窓は開いたが、真の独立国となるには、ソ連、東側との窓を開き、さらに国連加盟をどうしても実現しなければならない、と考えていた。それができた暁には辞めようと、三十一年の早い段階にはもう決めていた」
 重光ら代表団の壮行会には、通産相・石橋湛山、幹事長・岸信介、総務会長・石井光次郎−という総裁候補もそろって顔を見せる。代表団の中には、加瀬の前任者である澤田廉三らの姿もあった。
 五十一カ国の共同提案による日本の加盟決議案は十八日の総会で、賛成七十七、欠席二(ハンガリー、南アフリカ)の全会一致で可決される。
 代表団に随行した国際協力一課長、山中俊夫(八一)=元駐ノルウェー大使=は、「とうとうここまできたか、という思いだった」と振り返る。
 一方、澤田は手記「随感随筆」の中でこうつづっている。
 「多年の望みかないて正式代表の席に座し、総ての元はヴィシンスキー(ソ連代表)との、心と心の触れ合いに端を発したものであったことを思い起こして、感慨の尽きざるものあった」
 余談になるが、国連加盟が決まると、政府は翌十九日に恩赦を実施し、七万一千七百八十二人に対して減刑などの措置が取られている。また、三十二年三月八日から、国連のマークをあしらった国連加盟記念切手(十円)が五百万枚発売された。
 満場の拍手の中を、義足の右足をつえで補い登壇した重光は、「日本は東西のかけ橋となる」と英語で演説した。重光は前の晩「このことばは難しい、僕には発音できないよ」と言いながら、加瀬と二人、ほとんど徹夜をし演説文を仕上げたのだった。
 重光の秘書だった竹光秀正(八二)は「重光さんという人は演説は下手だった。選挙の時に『あまりしゃべらんで、なるべく短くしたらどうですか』とアドバイスしたこともある。日本語でもそうだから、英語となるともっとたどたどしい」と話す。
 演説を終えた重光は、加瀬の手を握りこうつぶやく。
 「もうこれで思い残すことはないよ。ありがとう」
 翌十九日、国連ビル正面の広場に、八十番目の国旗として日の丸が揚がった。この日、重光はその感慨を歌に詠み、こう表現している。
 「霧は晴れ国連の塔は輝きて 高くかかげし日の丸の旗」
 重光は死去する六日前、この歌を色紙に書き、東京・日本橋にある行きつけの鰻屋「伊勢定」の主人に贈った。色紙はレリーフとなって今も店頭に飾られている。
 重光が歌を詠んだ日の夜のことだった。「父のつえ代わり」と言う重光の長女、小林華子(六三)がホテルで夜中に目を覚まし、そっと隣の部屋をのぞくと、重光はいすに座り背中を向け本を読んでいる。華子は父の背中に寂しさと、何か近寄り難いものを感じ、とうとう部屋には入れなかった。華子はこう振り返る。
 「国連加盟は父の念願であり華々しい舞台だったと思います。でも何となく物悲しい旅行でした。帰りの飛行機の中でも、父の隣にいてわけもわからず涙が出てくる。国連での演説が最後の仕事となりましたが、今思うと、父もそれを感じ、私も父の背中に感じ取って部屋に入れなかったんだと思います」
 二十五日に重光が帰国したときには、すでに石橋内閣が発足し、重光は外相の任を解かれていた。重光が奥湯河原の別荘で倒れ他界するのは、それからわずか一カ月後のことである。
 (文中敬称略)
 
 「国連加盟」は青木伸行が担当しました。次回は「キャッチフレーズ」の予定です。
【メモ】
◆石橋内閣
 自民党は昭和31年12月14日、東京・大手町の産経ホールで行われた党大会で、石橋湛山通産相を第2代総裁に選出した。
 総裁選には石橋氏のほか、岸信介幹事長、石井光次郎総務会長の三氏が立候補。1回目の投票では岸氏が223票を獲得し1位となったが、過半数に満たず、決選投票の結果、石井陣営と「二・三位連合」を組んだ石橋氏が258票を獲得、岸氏をわずか7票差で破った。
 石橋氏は20日の第二十六通常国会で首相に指名された。しかし、各派の主張が対立し組閣作業は難航。ようやく23日に、石橋内閣は発足した。
 
 
 
 
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