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1996/12/18 読売新聞朝刊
[国連加盟40年](1)当事者意識なお薄く(連載)
 
 一九五六年十二月十八日、国連総会で、日本が八十番目の加盟国となることが全会一致で認められた。翌日、国連本部の前庭に日章旗が高々と掲げられた。それから四十年。日本は国連予算の約一五%を分担する、米国に次ぐ第二位の資金拠出国となり、来年一月からは、加盟国中最多となる通算八回目の安全保障理事会非常任理事国を務める。しかし、その“大国”ぶりと、国民意識の間には乖離(かいり)も見られる。わが国の国連外交の現実と課題を五回にわたって報告する。
 「日本の偉い人が国連事務総長に会えば、『いま国連は日本に何を期待していますか』と必ず聞く。いまだに国連を、協力させていただくものと思っている」
 九四年まで国連大使を務めた波多野敬雄フォーリン・プレスセンター理事長の口癖だ。
 「日本に何を期待しますか」という問いかけには、日本が有力メンバーであることを忘れ、国連の行動が他人事のような響きがある。国連に対する日本の自覚の薄さを象徴している。
 「ビッグ・パワー・リアリティー(大国であるという現実)とスモール・パワー・メンタリティー(小国に過ぎないという心理)の落差」
 波多野氏はこう日本の国連観を指摘する。
◆根強い“国連信仰”
 国連が「すべてを決定してくれる、ありがたい存在」という“国連信仰”は、加盟当時から根強かった。七一―七三年に国連大使を務めた中川融・日本国際問題研究所副会長は述懐する。
「加盟するまでは、軍備を放棄した日本の安全を守ってくれるのは国連だと国民全体があこがれを持っていた。加盟してからは、及ばずながら出来るだけの貢献をしたいという気持ちが強かった」
 五〇年六月に起きた朝鮮戦争で、国連安保理はソ連欠席の中、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)軍の侵略を平和への脅威と位置づけ、国連軍出動を決議した。すばやい対応に、日本では国連への信頼感が高まったことも背景にあった。
 敗戦で占領された日本の国際社会復帰への熱い思いも、もう一つの時代背景だった。「日ソ国交回復が当時あれだけの支持を得た理由は、一つは抑留者問題だが、もう一つはソ連の拒否権で加盟できない国連があったからだ」(中川氏)
 五一年、サンフランシスコ平和条約調印で国際社会に復帰した日本は、翌年国連加盟を申請したが、安保理でソ連の拒否権に遭う。日本の国連加盟を総会に勧告する決議が、ソ連の賛成を得て安保理で採択されたのは、申請から四年半後、五六年十月十九日の日ソ国交樹立から約二か月たった十二月十二日。東京で、日ソ共同宣言の批准書が交換されて数時間後のことだった。
◆人材も次々と輩出
 加盟時の日本の経済規模は、国連予算の一・九七%を分担する中級国レベル。それが高度経済成長で、東西ドイツが同時加盟した七三年には安保理常任理事国の英仏を追い越し、いまでは米国に次いでいる。
 国連の活動への取り組みも、加盟当時から熱心だった軍縮協議に加え、飢餓や難民で苦しむアフリカへの人道的支援や、インドシナ難民対策で少なからぬ役割を果たし、緒方貞子・国連難民高等弁務官や明石康・国連事務次長らの人材も輩出している。
 その一方で国連は、冷戦終結後の紛争解決に期待が寄せられながら、ソマリアでの国連平和維持活動(PKO)の挫折とボスニアPKOの苦境などで限界を露呈、批判も高まっている。
◆進路問われる日本
 小和田恒国連大使は、国連での日本の行動についてこう分析する。
「国連に失望して神棚から引きずりおろし、国連バッシングに参加する方向と、日本の国力に応じて、国連をいかに活用するかを考えていく方向の二つが現れ始めている」
 懸案だったPKOへの自衛隊参加も、湾岸戦争をきっかけに成立した国連平和維持活動協力法によって可能となり、自衛隊は違憲としてきた社会党も政策を転換した。しかし、旧来の行動を伴わない言葉だけの「国連中心主義」から脱皮することについては、安保理常任理事国入りも含めて「国際の平和と安全の維持に積極的に参加すべきだ」という考えと、「日本はおとなしくしていればいい」という立場の違いがなお存在している。
 日本は四十年目にして、その進路を問われている。
(政治部 山岡 邦彦)
 
 
 
 
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