日本財団 図書館


1989年1月号 文藝春秋
皇位継承者 明仁親王に何を望むか
皇太子はこんな人だと老若男女は思っている
吉岡 忍(よしおか しのぶ)(ノンフィクション作家)
1
 一本の鉛筆のことを思い出す。
 白く塗った丸い軸の上のほうに、小さなモノクロームの写真が印刷してあった。芯の濃さはHBだ。軸に鼻をつけて嗅ぐと、甘ったるい香料の匂いがした。
 写真は小指の爪ほどの大きさで、二枚並んでいた。一方には皇太子明仁、もう一方には美智子妃の顔が印刷してあった。そして、軸には金色の文字でこう刻印してあった――「皇太子殿下ご成婚記念」と。
 一九五九(昭和三十四)年四月十日、皇太子明仁と正田美智子さんが結婚した。盛大な婚儀とパレードの模様は、ラジオとまだ自黒だったテレビを通じて全国に中継された。
 当時の記録によれば、皇居二重橋から出たパレードは桜田門〜半蔵門〜四谷〜明治神宮外苑絵画館前〜青山学院前〜実践女子大前を経て、東宮仮御所に入った。沿道八・九キロは祝賀と見物の群衆で埋め尽くされ、夜には提灯行列が行なわれた。
 このとき私は小学校の五年生になったばかりだった。夏になると皇太子が避暑にやってきた長野県の軽井沢町からは十数キロ離れた、小さな村の学校に通っていた。
 婚儀の様子をラジオで聞いた記憶がある。家には、電気洗濯機や電気釜はあったが、テレビはまだなかった。近所でテレビを持っていたのは、斜め裏にあった床屋だけだ。床屋の待合室には、数人の大人たちが青白い画面を眺めていた。
 この鉛筆を、どうして私が持っていたのか思い出せない。学級の他の生徒も持っていたような気もするから、学校で生徒全員に配られたのだろうか。それとも何かのきっかけで私だけが持っていたのだろうか。どちらにしても、もう三十年も昔のことだ。
 私の通っていた小学校は、町の学校に統合されて廃校になったし、裏の床屋もどこかに引っ越していった。もちろん私ももうその村には住んでいないし、いま行けば、どの家にもカラーテレビの二台や三台はあるだろうし、マイカーもある。かれこれ三十年という歳月は、人々の生活を変えるには十分に長い。
 しかし、ときどき私には、このご成婚記念鉛筆を思い出すことがある。
 それまで鉛筆といえば、六角や丸の軸に濃い緑や沈んだ赤の塗料を塗っただけの、無愛想なものだった。いまのようにカラフルな鉛筆や、てっぺんにオマケの人形などがついた鉛筆はなかった。ところが、ご成婚記念鉛筆の軸は白く塗られ、上のほうにはふたりのモノクローム写真が刷り込んである。印刷にはムラがあって、皇太子の顔はひどく黒かった。美智子妃のほうは、病的なほど白かった。
 しかし、それでもその鉛筆は、はなやかだった。筆入れのなかにおさまると、新しい時代の息吹を伝えているように感じられた。おまけにそれは、甘ったるい匂いまで放っている。塗料に香料が混ぜてあったからだ。
 その後ほぼ三十年のあいだに、日本は「所得倍増政策」から「高度成長期」へと突入し、「消費社会化」への道をたどっていくことになる。そして、いまは「ハイテク」と「国際化」の時代だという。
 太平洋ベルト地帯は重工業拠点となり、地方の農業地帯から都市へと人口は流動し、家やアパートには家庭電化製品があふれはじめた。さらに日本人は、ハイテク化した産業から送り出される種々の製品を享受し、またさらに、それらの製品を販売し、現地で生産するために、世界中を駆けめぐっている。
 大雑把に概観すればこのような三十年間は、いつ、どのようにはじまったのか。一人ひとりの生活世界と実感をさかのぼれば、それはどの時点で、どうはじまったということができるのだろうか。
 ふっと、そう考えたとき、私がとっさに思い浮かべるのは、ある日ふいに、私の筆入れのなかに入ってきたあの鉛筆である。鉛筆に写真を印刷するなんて! 匂いまでつけるなんて!――十歳だった私はそのことに感嘆した。
 皇太子明仁と正田美智子さんの結婚それ自体に関心を持った、という記憶はない。子供には遠い世界の出来事だった。裏の床屋にテレビを見にいきもしなかった。たぶんラジオ中継も最後までは聞かなかった。
 しかし、ご成婚記念鉛筆のことは、いまでもよく覚えている。新しい時代がやってくる気配。いま振り返れば、戦後的繁栄とも言うべき時代の到来を告げる兆候。それを私は、あの一本の鉛筆に実感した。
 皇太子について、私がまず思い浮かべるのは、この鉛筆のことである。
2
 「皇太子、知ってる。偉い人だろ」
 「キツネ目だから嫌だ。それに、髪の毛の分け方が変で、ゾクッとする」
 「それ、浩宮のことだろ」
 「あ、そうか」
 「あれ、普通の人間じゃん。天皇とか皇太子とかいう名前だけだもの、意味ないよね」
 「でも、形としてはいたほうがいい。いなかったら、まとめる人がいないから、日本はダメだろうな」
 「税金、安くしてほしい」
 「税金のこと、国民が安くしろ、と言っているのに、天皇陛下が何もしないのはおかしいよね」
 「天皇のことなんか、わかんない。社会科で習っているのは、まだ武士の世の中」
 「マッカーサーのほうがカッコいい」
 「とうもろこしパイプだ」
 「皇太子も天皇も、もうやだ。テレビ(の番組)がつぶれたりするんだもの。スポーツセンターのチャレンジ・ナンバーワン大会もつぶれちゃった。頭くるよ」
 東京都新宿区戸塚の路上で聞いた小学六年生たちの話だ。下校途中のわいわいがやがやのつづきのような口調だった。
 ただ、そんな小学生がいきなり税金のことを口にすると、ちょっと驚く。家庭で話題になっていることを、そのまましゃべってみたのかもしれない。それともカネや損得にますます敏感になっていく社会風潮に、子供たちもまた無縁ではないということだろうか。
3
 皇太子・美智子妃の結婚を記念して、横浜市緑区に「こどもの国」が開園したのは一九六五(昭和四十)年だ。百万平方メートルという広大な丘陵に、森や広場や湖や牧場がある。映画や演劇のための多目的ホール、視聴覚教室や工作教室を備えた児童センターもある。
 ここを作るきっかけになったのは、ふたりの結婚を祝して一般人から寄せられたお祝い金、一千七百万円である。都市サラリーマンの平均月収が二万六千円の当時、これはかなりの額だった。
 このころ東京オリンピックをめざした道路やビルの建設が進む一方、日産がブルーバード、トヨタがパブリカを発売するなど、モータリゼーションの波がやってくる。都会から子供たちの遊び場が失われていく。
 子供の国に最初から勤務している緒方英雄総務部長が言う。
 「殿下が、子供の遊び場がなくなっていくことを心配されているというので、それではそのお金を子供のための公園を作るのに活かそう、ということになったのです」
 敷地は戦前戦中は、帝国海軍の弾薬庫だった。戦後、アメリカ軍が使用していたのを払い下げてもらった。工事をはじめてみると、三十発もの不発弾が発見され、開園は大幅に遅れた。
 「殿下は工事の途中にも視察にこられ、牧場を作ろう、と提案されたり、小鳥の巣箱をご自分で取りつけたり、とても積極的でした。寄贈していただいたものもかなりあるのですが、『皇太子殿下寄贈』と書かないように言われておるんです。お目立ちになられるのが嫌なようで」
 夫妻は浩宮、礼宮などを連れて、しばしば遊びにきた。警備上からは、貸し切りにするなり、園内を車で回ってもらったほうが楽なのだが、そういうことは一度もないという。子供たちがゲーム用乗物に乗るときも、一般客に混じって順番を待つように言う。
 あるとき礼宮が園内に出ている屋台のヤキソバを食べたい、と言い出した。緒方らは食あたりでも起こされたら大変だ、とおろおろする。皇太子は苦笑した。侍従らはみんなの分を買いに走った。
 「さすがに殿下や侍従はほとんど手をおつけにならなかったんですが、宮様だけお代わりされましてね。食べることをお許しになったんですから、昔の皇室では考えられないことでしょうね」
4
 平日の午後、「こどもの国」にやってきた親子連れに話を聞いた。
 ここが皇太子と美智子妃の結婚を記念して作られた施設であることを知っている入場者は、十五組のうちの二組。ここにくるのが二度目だという家族と、たまたまパンプレットにあった説明に気がついたという母親だけである。
 「皇太子さんですか? イメージが湧かないなあ」と、三十代の夫婦と子供連れの夫のほうが言う。
 「テレビで見ても、あ、出てる、と思うだけで」と、妻。
 「そういえば、白髪が増えた、と言ってたじゃないか」
 「そんなの、もう何年も前の話よ」
 母親三人と子供五人のグループに聞くと、母親たちはとまどった様子だ。
 「関心、ないですし」
 「浩宮のお嫁さんには興味ありますけど」
 「でも、候補になった人は、別の人と結婚したり、外国に逃げ出したりしているんでしょう」
 「わかるわ、それ。皇室での生活なんて、きっと窮屈だものねえ」
5
 九月十九日、天皇は吐血し、重体に陥った。
 政府首脳や各党首は東京にとどまり、緊迫した雰囲気のなかで病態の推移を見守った。テレビも新聞も連日おおがかりな報道を繰り返した。病状を心配した人々は続々と皇居周辺に集まり、そのことを伝える報道がまた、人々の足を皇居へと向かわせた。
 ほぼ一週間、私もまた皇居前の広場に通った。集まってくる人々がどんな思いでやってくるのか。天皇、皇太子、天皇制などについて、どう感じ、考えているかを直接聞いてみたいと思ったからだ。
 百人ほどの人々の話を聞きながら、気がついたことがある。話や意見を聞こうとしてマイクを向けても、めったに拒絶されない、ということだ。老人も高校生も、主婦やビジネスマンも、足をとめ、必ず何かをしゃべりだす。
 タレントや芸能人のスキャンダルやプライバシーに関する過剰報道、事故の犠牲者や家族に向ける無神経なインタビューなど、マスメディアに対する批判が少なくないとき、これ自体が稀有な現象だった。
 そこに私は、人々の参加意識、を感じた。社会的重大事に自分も参加している、という昂揚した気分である。
 それが天皇制に対する参加意識であるのか、それとも、たんに社会的に注目を集めているイベントヘの参加なのか、にわかには判断できないのだったが。
 しかし、天皇についてそれぞれに饒舌な人々も、皇太子やその家族の話題になると、たいてい言葉につまった。話のとっかかりがない。何を話題にすれば、皇太子について語ることになるのか。それがわからない様子がうかがえた。
 都庁の職員だという五十代の男が言う。
 「天皇なら、戦争とか、マッカーサーとの会見とか、戦後の、ありましたよね、行幸ですか。全国各地を見てまわったという、あれ。しかし、皇太子さんはねえ、印象が薄いでしょ。(天皇から)一歩下がった立場ですから、仕方ないんですが。ただ温厚そうな方だという印象しかないですね」
 結婚前後のミッチー・ブームとか、そのあとの「週刊誌天皇制」と呼ばれたほどの皇室人気は、もちろんご存じですね?
 「ええ、ありましたよねえ。でも、だいぶ昔のことですから、ちょっと覚えてなくて。浩宮が生まれたころまでですよね、あれは。あとは家族のまとまりは、そんなに感じないんじゃないですか」
 二十六歳の主婦も、ほぼ同じことを言った。
 「天皇陛下には戦争の時代を生きてきた、という印象があるけど、皇太子一家にはよそよそしい家族というイメージしかない。民主主義の世の中に生きていながら、かわいそうな人たちっていうことくらいしかないのね。ときどきテレビなんかで見る家族の様子からしかわからないんですけど」
 埼玉県からきた女子高校生のグループ。
 「あの一家はクラーイという感じ」
 「ああいう人がおとうさんだったら、堅苦しくていやだ」
 「家のなかで、あんまりおしゃべりができない感じがする。おとうさん、おかあさんって、甘えられないんじゃない」
 「そうだよ。朝起きたら、ちゃんと挨拶して、夜寝るときも、おやすみなさいって、お辞儀するみたい。形式的だよね、きっと」
6
ふたりの結婚から六〇年代を通じての、とりわけ女性週刊誌を中心とした皇太子家族報道には著しい類型があった。そこでは、皇太子ファミリーは「マイホーム」モデルとして、繰り返し描かれていた。
 若く、温厚な夫。美しく、聡明な妻。かわいい笑顔を浮かべる、すなおな子供たち。そんな皇太子家族をモデルとして受け入れる広範な素地が、社会の側にもあった。このころ工業化政策によって台頭した都市のなかでは、新しい家族像が模索されていた。
 マイホーム主義は、それへの大きな手掛かりだった。高度成長期を背景に、アパートを借り、家を建てて暮らしはじめた若い夫婦たちが、旧来の「家制度」や「滅私奉公」の束縛にとらわれない家族空間と家族関係を築こうとしていた時期だ。
 しかし、マイホーム主義は、言葉としても、また実際としても、ほぼ六〇年代の十年間で終わったのではないだろうか。言葉としてのマイホーム主義は「ニューファミリー」にとってかわられた。
 そして、実体としてのマイホーム主義は、一方で家庭内暴力や離婚の増加によっておびやかされ、他方で、消費社会の網の目にとらわれた膨大なマスという像のなかに溶け込んでいった。その内部の開係がゆがみ、空間が溶解した、ということである。
 皇太子ファミリーの側も、もちろん歳月とともに変化していく。子供たちは成長し、大人になっていく。夫妻もまた、年齢を重ねた。
 正田家の本家は群馬県館林市にある。敗戦近く、中学生だった正田美智子さんは家のすぐ近くの南中学(現在は第二中学校)に疎開していた。正田家の近くにある喫茶店にきていた二十歳の大学生が言った。
 「皇太子はもう五十四、五歳でしょう。サラリーマンだったら、定年ですよね。この年でやっと天皇になれる。働き盛りのときに、なんら力を発揮できなかった。これはかわいそうだって、友だちとも話していたんです。世の中には定年とか引退とか隠居とかあって、後進に道をゆずるのに、天皇家にはそれがない。ある意味では、残酷ですよ。むしろ皇太子はかわいそうだ、と僕は思います」
7
 正田美智子さんが疎開中に通っていた中学校のそばには、小さな公園がある。下校途中の中学生たちがぶらぶらとつっきっていく。
 公園のベンチに座って休んでいた植木職人が言う。皇太子とほぼ同じ年齢だという。
 「あの家は大変格式の高い家なんです。いまだって、われわれのような植木職人は表門から入れてくれないもの。私らが入るときは、裏の門から。そういう家のお嬢さんだから、なるほど皇太子のお妃さんにはふさわしいと思ったよ」
 皇太子がここにいらしたときは、見ましたか?
 「いや、公務で忙しいんでしょう。皇太子は一度もきていません。ぜひ一度、きていただきたいんですけどね」
 彼は気がつかなかったようだが、まだミッチー・ブームのさなかに群馬国体が開催されたとき、夫妻はそろって館林に寄っている。町内のパレードも行なった。
 正田家の近所の喫茶店経営者は、館林はやはり正田家と結びついているので、どうしても美智子妃の印象のほうが強いのだと言った。広大な敷地を塀で囲った家は、正月の三が日、庭園を公開する。町の誰でも入ることができる。
 市内の図書館の棚には、ふたりの結婚式の模様を報じる週刊誌のグラビアや記事をファイルしたスクラップ帳が並んでいた。同様のグラビアを切り抜いて額におさめ、茶の間に飾っている家は、いまもあちこちにある。
 天皇が吐血して数日後、館林市役所には記帳所が設置された。市役所に設けられたのは、全国でも早いほうだ。すぐに記帳したという喫茶店経営者が言った。
 「美智子様に肩身の狭い思いをさせたくない。そう思って私も駆けつけたんです。正田家のある館林の人が、あんまり記帳しなかったなんていうことがあってはいけないと。みんな、そう思ったんじゃないですか。皇太子様ですか? 正直言って、ふだんはあまり意識していません、この町では」
8
 戦後日本の家族像は揺れ動いた。敗戦によって権威的家族制度は崩壊した。しかし、その後のマイホーム主義家族像もわずか十年で色あせた。それから、ニューファミリーという言葉がさかんに使われた。ニューファミリーという言葉が最初にアメリカで使われるようになったのは、六〇年代末から七〇年代初頭にかけての、ベトナム反戦とカウンター・カルチャー運動の時期である。
 このころアメリカを旅行していた私は、フリーウェイの途中に、「ウェルカム・トゥ・アワ・ニューファミリー」などといった、手書きの、大きな看板が出ているのを見て、いったい何のことだろう、と思ったことがある。
 たまたまそのうちのひとつをのぞいてみると、それは共同生活体のことだった。二、三十人の男女に混じって、数人の子供までいた。林のなかに掘っ立て小屋やモービルハウスを集め、そこで共同生活をする。従来の夫婦と子供単位の内側を向いたファミリーではなく、外に向かって拡大したニューファミリー。
 一緒に炊事をし、とりとめもなく議論し、金がなくなると誰かが町にいって、必要なだけを稼いでくる。彼ら若い男女を動かしていたのは、互いに孤立しながら競争して生きていかなければならないアメリカ社会への嫌悪と、素朴なユートピアの夢だった。
 むろん、そんな実験的生活はこんにちでは跡形もない。ちょっと町にいって稼いでくる、というようなことができなくなったアメリカ社会の経済的停滞、共同体を支えるアイディアの枯渇など、それはそれで問題はあったにちがいない。
 だが、それはさしあたって、彼らの問題であって、日本人の問題ではない。ニューファミリーという問題を日本に引きつけて考えるとき、私が愕然としたのは、それがいっきょにコマーシャル言語として流通したという事実のほうだ。
 家族構成やそれぞれの消費パターンの分析に使われたり、消費者をおだてあげたりする手法に使われるばかりで、この言葉が家族像の理念を再編し、形成するキーワードとして使われたことは、ただの一度もなかった。
 そして、いまとなっては、ニューファミリーも古い、となった。マイホーム主義からニューファミリーヘ、さらに次の何かへ。次々と表層だけを変えていくこの独特の在り方が、敗戦このかたの日本人と天皇制の関係にも反映しているはずである。
9
 十月初旬、東京・晴海で日本エレクトロニクスショーが行なわれた。八〇年代の経済大国日本を作りだしたひとつの大きな要因は、エレクトロニクス技術だった。「ハイテク」と「国際化」というふたつの潮流は、どちらもエレクトロニクス技術の成果を源にしている。
 広い会場に一歩入ると、映像が乱舞している。メーカーごとのブースのあちこちに陳列された巨大な画面のなかでは、オリエント急行が走り、大きなタ日が落ちていき、着物姿の女が舞い、F1が疾走する。今回はハイビジョンと衛星放送と電子スチールカメラとテレビ電話が話題を呼んだ。
 三十二歳の技術者が言う。
 「皇太子さんは、もう少し二枚目であってほしい。美智子さんはきれいだったけど、オバサンになっちゃったね。天皇制はあったほうがいいし、大切に守っていきたいけど、相手がもっといい男、いい女ならねえ、こっちも少しはその気になるんだけど」
 見学にきていた十九歳の電気工学科の学生。
 「昔のことはよくわからないですけど、いまの皇太子は、自分たちよりちょっと上くらいの人っていう感じ。天皇陛下よりずっと身近な感じはするんです」
 同じく十九歳の機械工学科の学生がとなりで言った。
 「うーん、どうかな。イギリスに留学したとか、コンサートでバイオリンを弾いたとかで騒いで、おかしいですね。学習院で運動会があったからって、そんなことニュースでも何でもないのに、テレビでやってるでしょ。皇太子だって、浩宮だって、僕たちとそんなに変わらないんじゃないですか」
 七十二歳の小企業経営者。
 「皇太子は奥さんが民間からきているから、いま寝ている天皇のように周囲の軍部にだまされる危険は少ないと思う。昔は世の中のことを知らない娘がひょいっとくるだけだったから、そこはちがうよ。民主化するためには、民間から奥さんをもらえばいいんだ。そうすれば変わってくるよ」
 三十七歳の技術者。
 「皇太子については心配していないです。順応性もあるし、自分で判断できる人だと思うから。いまの天皇は、いろいろあった時代に生きたけど、皇太子は安定した時代に生きてきて、自分らと同じ感じだと思うからね」
 五十一歳の営業マン。
 「皇太子ねえ? 困ったなあ。天皇なら、亡くなったときにどんな株があがるかとかって考えちゃう。あんまり縁起のいい話じゃないよね、これ。天皇のことを戦争とつなげて責任云々と考えることはないしね。おれはおふくろから、実際には天皇には責任がなかったって聞いてるし。皇太子さんねえ、普通の人じゃないの」
 一人ひとりは別のことを言いながら、ここには共通した雰囲気がある。皇太子とその家族は一般人と同じだ、私ともたいしてちがわない、という感じ方である。それは世俗内化した天皇制像と言えるのかもしれない。
 その先端に、皇太子とその家族がいる。ただそれは、かつての「マイホーム」モデルとしての吸引力を失った姿のままではあるのだが。
 ちなみに、ハイテクや国際化が喧伝される現代の日本社会の様相と、天皇制や皇太子像とを結びつけて語る技術者や見学者は、ほとんどいなかった。自分たちとそれほどちがわない、と言う一方で、いや、たぶんそれだからこそ、天皇制に対して無関心になる、ということがあるのだろう。
10
 皇太子や美智子妃に直接会い、言葉をかわした人々は、どう感じているのだろうか。
 長野県の軽井沢町は、皇太子がほとんど毎夏訪れる避暑地である。ここには軽井沢に別荘を持つ人々のプライベー卜クラブがある。その軽井沢会のテニスコートに、皇太子が姿を見せるようになったのは、一九五五(昭和三十)年頃だ。
 この軽井沢会には正田家も入っていた。やがて妃となる美智子さんは、会館にきてはピアノを弾いたりした。皇太子がプレイするときは、子供たちと一緒に見物にでかけることもあった。一九五七(昭和三十二)年の夏、皇太子と美智子さんはこのコートでペアを組み、親しくなった。そして、翌年十一月、婚約発表。結婚はそれから五ヵ月後だった。
 婚約中のとき、皇太子は友人に連れられて、テニスコートの近くにあった喫茶店にぶらりと入ったことがある。皇室の一員が町の喫茶店に入ったことは、人々を驚かせた。
 その店はいまはもう閉じ、売店だけが残っている。店の女主人は、自分がまだ小さいときの話なので覚えていない、という。
 「亡くなったおばあちゃんがお相手しまして、はい。私は何も知らないんです。その後、ご夫妻がいらっしゃるのはいつも夏、私ら店をやっているものには、いちばん忙しい季節す。こられると、やたらお巡りさんが通るので、わかるんですが、でも忙しいから見にいきません。テニスをしたり、お話しするのは、軽井沢会の、別荘の方々だけですから、私たちとはちょっと遠い方なんです」
 皇太子夫妻がテニスコートに現れると、観光客が集まってくる。プレイのいちいちに歓声があがっても、ふたりはにこにこと笑い、静かにつづけるという。一段落して、金網の破れた穴から握手を求める手が伸びてくることがある。たいてい美智子妃が握手をしたり、話しかけたりする。つづいて皇太子も求めに応じる光景が見られる。
 軽井沢会が所有する会館の関口朝司が言う。
 「東京などでは見ることのできない、くつろいだお姿がここでは見られるんです。他の会員の方々も静養にきているわけで、お互いに大変リラックスされています。ここでのお姿を見ていると、皇太子ご夫妻も普通の人と変わらないんだなあ、ということがよくわかります」
 テニスコートの前にはキリスト教会がある。宣教師は、軽井沢生活三十六年というフィリス・チェンバレン、六十三歳。結婚する前から、ふたりのことは見知っていた。美智子妃の亡くなった母が病床にあったとき、見舞いの手紙をだしたこともある。あとで夫妻とパーティで会ったとき、お礼を言われたという。
 「私にとって神とは、天にまします方です。天皇ではありません。それで、とても気になることがあります。天皇はこういうとき、『ありがとう』と言っても、『ありがとうございました』とは言わないでしょう。敬語を使わない」
 そうですね。
 「天皇はそのように育てられたのですから、責めようとは思いません。でも皇太子だったらできるでしょう。いまは、とても丁寧に言っているのですから。将来天皇になったときも、いまのままのお話しの仕方でいてほしいと思います」
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 一九六五(昭和四十)年、第一回の世界大学合唱祭がニューヨークで開催された。アジア代表となったのは、関西大学のグリークラブである。羽田空港から出発の日、一行は東宮御所に招かれ、皇太子夫妻の前で演奏することになった。
 テニスコートの出会い、婚約、結婚、浩宮出産とセンセーショナルな話題になってから数年後、プリンスとプリンセスの動向はあいかわらずテレビや週刊誌をはなやかに飾っていた。一家が、マイホーム主義家族像のモデルになぞらえられた時期だ。
 グリークラブの一員だった川崎丈夫は、いま四十五歳、東洋紡東京総務部課長である。
 「学生ですから、どうしてもプリンセスのほうに目がいく。美智子さんはふくよかな、抜けるような美しさを持っておられた。後光が射しているといっても、過言じゃないような。茫然としたのを覚えています」
 皇太子についてはどうでした?
 「三曲歌いおわったとき、おふたりが拍手されました。そして、立ち上がって、私たちのほうへ近づいてこられたのです。これが天皇陛下でしたら、ありえないことでしょう。皇太子は温和で、親しみやすい感じを受けました。『がんばっていらっしゃい』とお言葉をいただいたときも、言葉を噛みしめるように話される。説得力もありました」
 だいぶ感激したんですね。
 「ええ。庶民から見ると、雲の上の人のように感じていたのに、実際に接してみると、殿下もひとりの人間にすぎないということがわかる。けれども、われわれとちがうところは、気品があるということでしょうね」
 それから川崎は、サラリーマンとしてのいまは忙しく、ときどき弱音を吐いたり、血走った目をする、きっと皇太子もハードスケジュールをこなしているにちがいないのに、そんな気配を見せないのは立派だ、と付言した。
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 一九七八(昭和五十三)年、皇太子夫妻はブラジルを旅行した。そのとき持ち帰ったのがケリーという珍しい魚だった。アマゾンに生息する、メダカほどの小さな魚で体は青く光る。学名は、インパクティスケリー。日本ではもちろん、ブラジルでもめったに見られない魚だった。
 皇太子は魚類の研究家としても知られている。とりわけハゼの研究では、日本でも有数の専門家だと評され、御所の各部屋に置いた水槽には何種類ものハゼを飼育している。インパクティスケリーの孵化は、興味ある研究課題でもあったのだろう。
 これの孵化を依頼されたのが、東京都東大和市に住む熱帯魚研究家、東博司である。東は夫妻がブラジルから帰国した二日後に東宮御所に行き、皇太子から直接、この魚を受け取ることになった。御所からは自宅まで車を差し向ける、という話があったが、彼は恐縮し、自分から電車で行くと謝絶している。
 東宮御所に着いて通されたのは二十畳ほどの応接間である。間仕切りがあって、その手前に七、八人が座れるテーブルがある。ドアを開けると、皇太子が微笑を浮かべながら、テーブルの前に立っていた。椅子に座ると、テーブルの向こう、彼の一メートル先に皇太子が座った。
 皇太子の側には、御所研究所の三人の技官がついた。東の側には、当時の日本動物園水族館協会の副会長が付き添った。みんなの前に紅茶とケーキが運ばれた。
 「護衛もつかず、アットホームな雰囲気でした。結局、一時間ほど話し込んでしまったんです。ええ、魚の話ばかりですが。技官のほうがたくさん質問しましたが、殿下もいくつか質問されました。かなり専門的で、とくに飼育方法については熱心でした」
 どんな口調だったんでしょう。
 「私たちは一応、客人ですから、一言一言、丁寧な口調はわかるとしても、部下のはずの技官に向かっても、同じような話し方をされる。ぞんざいな口をきいてもいいのに、それがない。殿下のお人柄かと思ったんですが」
 東は持ち帰ったケリーを特殊な水槽に入れたが、三日三晩緊張して眠れなかったという。五カ月後、三尾の孵化に成功した。
 このことが機縁となって、彼はその後何度か御所によばれ、熱帯魚の話をしたり、調査に出かけたアマゾン流域のスライドを見せることになった。東がテレビに出演したのを見た礼宮が、もっと詳しく知りたいといって招かれたときも、皇太子が同席して三時間もしゃべってきたという。
 どの場合でも、美智子妃は同席しなかったが、東は一度、妃の応接間に案内されたことがある。ハープの置いてある部屋だ。そこの水槽にだけは、黒っぽい地味なハゼではなく、赤や黄色のあでやかなハゼが泳いでいた。
 「そのときは、妃殿下に気を遣っていらっしゃるんだなあって思いました」
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 皇太子やその家族に直接会った人たちが、その経験や記憶を語るときの口調は、きわめて丁重である。そして、誰もがいちように、皇太子の丁寧な口調、やさしく温和な雰囲気、気さくな人柄を強調した。
 このことは、皇太子に会ったり、言葉をかわしたことのない人々が、いくぶんぞんざいな口調と、無関心な様子で、皇太子とその家族も一般人と同じだ、自分ともたいして変わらない、ということと重なりあっている。
 どちらも、皇太子を特異な存在として見るのではなく、より身近で、親近感の持てる人物として考えようとしているからだ。
 これは天皇の病状悪化以来、皇居前に記帳に訪れた人々が天皇に対して抱いている思いや印象と引き比べるとき、いっそうはっきりする。
 四十三年前の広島で被爆した高齢の女性も、人が集まっていて、ただ面白そうだからきた、という高校生も、天皇が自分と同じ人間だ、というようなことは口にしなかった。中国から引き揚げてくる途中で家族を失った老人も、若い自衛官も、天皇を一般人になぞらえることは少なかった。
 もちろん老齢の人物が病気と闘っていることへの同情は感じられたが、それでもその人物は、神とは言わないまでも、通常の人間を超えた何者かなのだ、という響きが感じられた。
 それは、天皇は、われわれ以上に苦労された人、マッカーサーに身を挺してでも国民を救おうとした方、という響きである。遊び気分の高校生たちも、天皇を自分のおじいちゃんみたいに感じる、とは言わなかった。日本のおじいちゃんみたい、と言った女子中学生がいるにはいたが、それはもちろん、自分の祖父とはちがう存在だ。
 天皇と皇太子とのイメージや印象のちがいは、戦後の天皇制と戦前・戦中のそれとの相違に対応しているのかもしれない。戦前・戦中・戦後を生きた天皇には、どうしても戦後天皇になりきれない歴史がある。
 だが、皇太子はちがう、皇太子こそは戦後の日本人が持つはじめての戦後天皇なのだ――事実として、これはあたりまえのことだが、人々の口調には、その当然のことを実感しながら安堵するような調子がこもっている。
 皇太子明仁こそ、はじめて「象徴」になりきることができるのだ、と。
 自分や一般人との類似性のなかに皇太子を考える、という把握の仕方にとって、象徴としての天皇という概念はあんがい都合がよいのかもしれない。象徴には、絶対権力や世俗的権威などとちがって、その機能が具体的に明示されたり、主張されることがないからである。
 象徴は、どのようにも理解することができる。皇太子ファミリーをマイホーム主義のモデルになぞらえることが可能だったように、自分とも一般庶民とも類似だということもできる。
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 しかし、皇太子とその家族を身近で、親近感の持てる人たちだと考える人々も、周囲の警備陣や、旅行などの際の計画立案者の事大主義は滑稽だと感じているようだった。
 一九五八(昭和三十三)年六月、皇太子は独身最後の旅行をした。北海道をほぼ一周する十八日間の旅行だった。途中皇太子は釧路から百キロ近く北東に入った川上郡標茶町の荻野小学校と、野付郡別海町のパイロットファームを訪れた。
 あたりには根釧原野で知られる、広大な風景が広がる。標茶町には敗戦後まもなく、満洲から引き揚げたり、内地からやってきた人々が入植した。水は深井戸を掘らなければ出てこなかったし、土地は大樹に覆われていた。家畜が熊に襲われることもあった。
 当時、標茶町の小学校には二十五人の生徒がいた。いま町内に残っているのは、わずか六人。PTA会長だったのは、今年六十七歳になる山本健三だ。彼は敗戦を満洲で迎え、シベリアに三年間抑留された。妻は先に日本にもどったが、その途中、子供を亡くした。
 山本は、あのとき町当局が校庭に砂利をまこうとした、と言った。皇太子の乗った車がスリップして動かなくなったら大変だ、という心配からだ。
 「そんなことをするなら、きてもらわなくていい、と俺は言ったの。砂利を入れたら、あとで子供が遊べなくなる、危険だと。心配するな、そん時ァ、みんなで押してやるって」
 山本らの真剣な反対にあって、それは中止になった。
 町民は貧しかった。主食は、そば団子、唐黍(とうきび)、かぼちゃ、芋、それにせいぜい麦だ。米の配給はあったが、買う金がなかった。
 だから、と当時小学生だったひとりが言う。
 「皇太子さんから菊の紋の入ったどら焼きをもらったね。おいしかったー。甘いものなんか食べたことがなかったから」
 別海町は、農林省のパイロットファーム構想のもとに、一九五七(昭和三十二)年から開墾がはじまった。大規模酪農をめざした構想だったが、資材の高騰や天候の不順などでなかなか計画どおりにはいかず、離農者が続出したこともある。
 皇太子を迎える準備はあわただしかった。畜舎を作り、サイロを建てた。ビートを刈り取り、雑草を取る。立ち寄り先の家から小学校までの道路や校庭を整備する。ブロック塀も塗り直した。最後には牛三頭を借りてきて、柵のなかに放った。こうした指示は、北海道庁からきたという。
 そんな騒動があってから三十年、皇太子は昨年秋、夫妻でふたたび別海町を訪問した。
 年配の入植者のひとりが言う。
 「前もって、ああ言われたら、こう言え、と役場のほうから指示があったんです。ここの手作りのチーズはどうとか、作業時間はこうとか、だね。全部覚えなくちゃならないんだ。詳しく印刷したものがくるんだ。あっはっは。全然役に立たなかったな。誰だって、常識で失礼なことは言わないんだから」
 根釧原野は見通しがいい。警備の警察官が随所に立っていると、遠くからでも見える。不審な者が近寄ってきても、すぐに発見できる便利さがある。
 しかし、厳重に警戒されることは、皇太子がもっとも嫌うことだという。警察官たちは皇太子を乗せた黒塗りの車が接近した、という無線連絡を受けると、まだ車の影が見えないうちに草むらに隠れることにしている。
 「楽っちゃ楽な警備だけどさ。遠くから見ていると、なんか滑稽っていうか、その恰好がおかしいですよ」と、町のひとりが言った。
 去年の来訪のとき、夫妻は別海町のこぢんまりしたホテルで一時間の休憩をした。あらかじめ特産の北海シマエビを出すことにしていたが、ホテル側は侍従から、たぶん殿下はエビの剥き方がわからないだろうから、もし聞かれたら教えてほしい、と言われていた。予測していた通り、食卓についた皇太子は質問した。
 三十八歳だというフロント係が言った。
 「われわれのスタッフが皮を剥いてみせたんです。だけど、それを差し上げるわけにはいかないから、別の皿にふっと置いたんです。そしたら殿下は、それをひょいとつまんで食べてしまった。気さくな方ですねえ。まわりはぴりぴりしてましたけど、ご本人はいたって穏やかでね。美智子さんににこにこしていました」
 ふたつの町の人たちは、受け入れ準備の指示などについては不満を口にすることがあったが、皇太子の来訪そのものは歓迎していた。パイロットファームの初期入植者の佐々木茂成が言う。
 「準備できれいにしても、見えるものは見えるんです。最初のとき、うちは何もきれいにできなかった。それがかえってよかったんじゃないか。皇太子さんは開拓の、血みどろの姿を見たんじゃないかと。酪農は、健康維持のための大事な仕事です。それも森林につぐ自然の保全をやりながらの。皇太子さんがくることで、その大事さが全国的に広まってくれるとありがたいんです」
15
 皇太子の温厚さ、気さくな感じ。美智子妃のやさしさ。ふたりは一般庶民とかけはなれているのではなく、自分ともそんなにちがわない――このような世俗内化した天皇制像が語られる一方で、それはちがう、と断言する人もいる。
 一九七五(昭和五十)年七月、沖縄の本土復帰記念の最大行事、国際海洋博覧会が開催された。皇太子はこのときの名誉総裁だった。沖縄には本土からも大量の機動隊が派遣され、警備にあたった。
 開会式の二日前、夫妻は沖縄戦の悲劇を伝えるひめゆりの塔に参拝した。ここでは戦争中、負傷兵看護にあたっていた女子学生四十九人が集団自決した。
 「私が先導差し上げて、説明をしていたんです。まだ三分の一くらいしか終わっていないとき、壕のなかから火炎ビンが投げられたわけ」
 皇太子夫妻を案内したひめゆり同窓会の源ゆき子が言う。今年八十四歳、だいぶ耳が遠くなっているが、体は丈夫そうだ。源は女子学生の教師だった。
 「妃殿下の持っていたお花が飛んだんです。皇太子さんは妃殿下をかばって、すぐ門にとめてあった車のところへ行ったんです。私は何だかわからないものだから、びっくりして木につかまったまま立っていたら、どなたか車まで連れていってくれたんですよ。車に乗っていらした妃殿下がお降りになりまして、『お怪我はなかったですか』と。ひめゆりの塔でこんなことが起きたから、私はほんとに恐縮しておりました」
 壕のなかから火炎ビンを投げたのは、このころ沖縄の新左翼グループで作っていた沖縄解放同盟のメンバー、知念功だった。彼はいま、三十八歳になる。
 知念らは沖縄海洋博が農業破壊、石油コンビナート化、観光経済化をもたらし、結局は沖縄が本土資本に従属させられることになると予測していた。米軍基地返還の願いも踏みにじられ、いっそう強化されるだろう。
 集会やデモを通じて、彼らは海洋博反対を訴え、皇太子来訪に反対してきた。ひめゆりの塔参拝も、おそらく、その場所を観光地化し、美化し、戦争責任をあいまいにした聖地にしてしまうにちがいない。
 「戦争も終わった、戦後問題も決着がついた、戦争責任を問う声も忘れたい。天皇制や政府の側の意図はそこにあったと思うんです。何もしなければ、沖縄の人はそれを受け入れたと思われてしまう。相手を傷つけるつもりはまったくなかったんですが、とにかく何かをしなければと思っていました」
 皇太子夫妻参拝の一週間前に、彼は仲間とふたりで壕にもぐった。着替え、飲料水、ジュース、缶詰、乾パン、チョコレート、ビスケット。食料は十分持ったつもりだったが、最初の二、三日で食べ過ぎて、最後のほうは心細かったという。
 壕のなかは真っ暗だった。広さはおよそ百坪くらい。携帯ラジオでニュースを聞きながら、その瞬間を待った。警備による事前の調査で壕のなかに集音マイクを入れられ、気配を察せられることをもっとも恐れた。
 バクチクも用意してあったが、これは湿気てしまい、使いものにならなかった。火炎ビンを投げたとき、
 「皇太子のイメージはなかったです。ただ天皇の子供であると。天皇の犯したことについて、彼には制度的責任がある。個人がどうの、ということではないんです、これは」
 知念が指摘したのは、天皇や皇太子を制度や歴史から切り離して、たんなる個人として見ることは間違いだ、ということだった。代が変わっても、その制度と歴史的事実の当事者は責任を免れない、ということ。
 これは、世俗内化した天皇制像になじんだ日本人が、もっとも苦手とする指摘であるだろう。だが、それだからといって無視していいというものではない。天皇の病状の悪化以来、少なくない数の外国のメディアが指摘しているのも、このことだからだ。
 知念は公務執行妨害、威力業務妨害、礼拝所不敬の罪で二年半の懲役判決を受け、服役した。
16
 それから十三年が過ぎた。
 このころはまだ言われていなかった「ハイテク」と「国際化」の合言葉が、いまの日本を覆っている。
 妊婦を対象にした都内のスイミング・スクールで、もうじき母親になるという二十六歳の主婦が言う。
 「これからの日本は国際化を迎えるわけですから、子供には私ができなかった英語を勉強させたいし、日本語を習いたいと外国人に思ってもらえるように、日本も内容的に豊かにならなければと思うんです。それに、国際的な部分で、貴族なんかと接するには、それだけのものを持った人が必要だから、天皇家もあっていいかな、と思います」
 子供をイギリスに留学させようと、ブリティッシュ・カウンシルに資料を見にきた三十七歳の母親。
 「日本の学校では、ほんとうの自立心や国際的なことが身につかないような気がするんです。私は、イギリスの品位とか伝統とか、階級制度がしっかりしているところなんかが好きなんです。皇太子様の家族も、日本人の模範だという気がするんですが、あのチャールズ(英皇太子)さんの、リラックスしたなかにユーモアがあるのとちがいますね。そのへんをもう少し、ね」
 国際化もハイテクも、あいまいな符牒だ。「国家」と「資本」と「国民」があって、ひとつの国は成立する。三者がひとつところに結束しているうちはいい。だが、国家は動かすことはできないが、資本と国民はあちこちに移動する。
 こんにちの日本では、資本はますます多国籍化する。企業は次々と現地法人を設立し、販売網を広げ、生産を開始する。資本はいよいよもともとの国籍を離れ、活発に活動するだろう。
 それにともなって、日本人も外に出ていく。すぐに数十万人の日本人が外国で暮らし、毎年数百万人の観光客が海外に出かけていく。国際化とハイテクが符牒でありつづける限り、この勢いは、これからも強まっていくことは間違いない。
 資本の多国籍化にはずみがつき、資本それ自体の利潤原理がむきだしになればなるほど、資本の動きに随伴する国民は、国民たる根拠を崩されることになる。帰属と忠誠を誓う対象が国家でなくなった人間は、言葉の定義からいっても、もはや国民ではない。
 私の国籍は資本だ、と叫ぶ日本人が必ず登場する。それは、もっと端的には、私の生き甲斐は儲けだ、ということだ。
 それがハイテクと国際化の究極の未来だ。
17
 私にはやっと、あの鉛筆の意味がわかるような気がする。白い丸軸に皇太子と美智子妃の小さな写真を印刷した、ご成婚記念鉛筆。筆入れのなかで、甘ったるい匂いを放った、あのはなやかな鉛筆。
 三十年前、新しい時代の気配、戦後的繁栄の時代の到来を感じさせたあれは、まっすぐにそこにつながっていたのだと。
 それまでの無愛想な鉛筆に彩色をほどこし、印刷技術を加え、塗料に香料を混ぜるのは、いま振り返れば、技術ともいえない素朴な技術だった。だが、それと同様のことを、あらゆる分野で、三十年間、勤勉に繰り返せば、どういうことが起きるかを想像するだけでよい。
 ハイテクと国際化までは、まっすぐな道程だった。そして、この道は、究極へと向かって、まだつづいている。
 しかし、国家にだけは移動の自由がない。資本と国民が多国籍化していく一方で、国家だけが取り残される。国家と国民の統合の象徴としての天皇も、ここから出ていくわけにはいかない。
 このとき国家の側はどうするのだろうか。多国籍化した資本を国家に回収するのは、もはやほとんど不可能だ。資本の利潤原理は変えられない。だから、国民の、せめてその精神の囲い込みが必死に行なわれるときがくる。
 私は、ふたたび皇居前にもどってきた。
 天皇の病態を気づかってやってきた人々のなかに、ある国立大学の若い助手がいた。小学生から中学生にかけての時期、化学会社に勤務していた父親の赴任で、ドイツに滞在したという。
 「人種差別とか偏見の対象にされている、という感じは強く持ったんです。そのとき、自分というのは何だろう、と考えました。日本人なんだというプライド、心の拠り所を、日本の歴史とか伝統のなかに求めようと」
 そのひとつが。
 「ええ。天皇陛下だと思ったんです。かなり大きな拠り所だと思いました」
 資本と国民が日本の外に出ていく加速度が強まる一方に、外から回帰してくる人々がいる。この往復が繰り返される不安と動揺のなかに、これからの天皇制がある。
(文中敬称略)
◇吉岡忍(よしおか しのぶ)
1948年生まれ。
早稲田大学政治経済学部中退。
ノンフィクション作家。
 
 
 
 
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