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手紙
宮崎大学医学部 窪田 陽介
 
 最後の実習を終えた日の夜、私は床につきそこで初めて「別れ」をはっきりと自覚したような気がしました。私は未熟でしかも不勉強な人間です。あなたはそんな私と四ヶ月間もの間向き合ってくれました。そして私に人間・生命の持つまさに神秘的な美しさと感動を幾度となく教えてくれました、生涯忘れることのないであろう感動を。
 一人のヒトが生きてゆく中には本当にたくさんの「出会い」と「別れ」が存在するように思います。私はあなたというヒトに出会い、そして別れを迎えました。今まで経験してきた数々の出会い。そしてこれから出会うであろうたくさんの人々。あなたは、これから私が医学を志すものとして、一人の人間として生きてゆく限りいつまでも私の中に確かに存在し続けることでしょう。
 本当に言葉で表すことができないほどの尊敬と感謝の気持ちが尽きません。
 初めて自分の目で直に見るからだの内部の構造は、私が教科書等で学んだうえで頭の中でイメージしていたものと異なる点が多く、そんなときにはっきりと解剖学実習の必要性・重要性を再確認しました。献体してくださる方、ご遺族の方の深い慈愛が今日の医学の土台となって医学を支えていることを我々は深く自覚しなければなりません。そしてそういった方々の期待に応えるべく私はこれからの人生を賭して、医学を志すものとして努力し続けねばなりません。
 実習が始まるより以前の我々、実習を終えた我々。その間に成長というべきものが確かに感じられるような気がします。私はこの実習を通して、今までの自分から「本当の意味での医学生」へ境界線のようなものを越えたように思います。
 しかしその反面私の中には深い後悔が確かに存在しています。私はもっと努力すべきでした。
 今になってそのことを痛いほど感じます。本来ならこのようなことを綴るべきではないのかもしれません。しかしあなたへの最後のメッセージにどうしても嘘をつけませんでした。私はもっともっと努力すべきでした。努力しなければならなかった。医学を学ぶことをずっと、本当に長い間夢見て必死に頑張っていたあの頃のように。私が変らなければなりません。そのきっかけを与えてくれたのもあなたです。またすぐに怠け始めるかもしれません。そんな時、私はあなたのことを思い出すでしょう。
 とても言葉で表現できません。しかしあなたが私と向き合ってくれたこの四ヶ月は私にとって本当にかけがえの無いものでした。心からご冥福をお祈りします。
 有難うございました。
 
日本大学歯学部 熊倉 杏奈
 
 大学に入学して解剖学実習室を見学した一年半ほど前の四月のある日、先輩から解剖学実習の話しを聞いた時、「明日から解剖学実習が始まる」という実習前日・・・。「解剖」に対し、私の頭の中には「恐怖」「不安」「興味」など様々な思いが巡っていた。
 実習初日、お焼香を終え私はご遺体の前で実習が始まるのを待っていた。白いシートにくるまれたご遺体の膨らみを目にした時、私はとてつもない緊張感に襲われていた。先生の「始めて」という言葉でシートを外した瞬間、自分が予想していた外見とのギャップと「不安」「恐怖」からこれ以上ご遺体に近づくことも見ることも、動くことも出来なくなっていた。そしてご遺体から一メートルほど離れたところで必死に自分の現況を理解しようとしたのに、頭がパニックしてしまっていた。数分後、班員が着々と準備を始めているのを見てはっと我に返り「このご遺体のご厚意を踏みつぶさないようしっかり実習に参加して色々なことを学ばせて頂かなくてはいけない・・・」、そう思った途端、解剖学実習に入ることが出来るようになっていた。
 実習が始まってみると、その作業の細かさに驚かされた。「解剖」はハサミやメスを多く使うというイメージがあったが、実際は刃物よりもピンセットを使う機会の方が多いのだ。体中を走っている神経や血管は末梢へ行くにつれ細くなり、糸よりも細くなる。メスやハサミを使って解剖を行っていくことはものすごく大胆な行動であって、少し間違っただけでそれらを切ってしまったり、身体に一つしかないものを見失ってしまったりする。両手にピンセットを持ち、少しずつ脂肪を取り除き、結合組織を神経と区別していき、そうしてやっと神経の走行や血管のつながりを目にすることが出来るのだ。このような細かい作業を根気よく続けていくことにより目的物を確認できる。「こんなに小さなものがあれほど大きな役割を果たしているのか」「この細い神経や血管が一本切れただけでどんなに大きな影響が出るだろう」と、しばしば人体の複雑さ、緻密さ、精巧さを実感した。私の班のご遺体は、胃や腸を開いてみると中が緑色だったり、血管に何かが詰まっていたことなどから、ご遺体の生前の生活などについて思いを巡らせることも多かった。
 実習で得た内容の莫大さ、そして精神的に色々な事を感じることができた事を考えると、解剖学実習は本当に貴重な体験であったと思う。文字や絵、写真からでは得られない自分の手での感触、大きさや重さを体感でき、人体の多くの細胞の存在とその繋がりを知った。そしてご遺体から人間の生と死を肌で感じることができた。今自分の前で呼吸をやめ横たわっている人は、かつては自分と同様に息をし食事をし、眠り働き遊び怒り苦しみ泣き、そして笑っていた一人の生きた人間であったのだ。私はこの四ケ月間で学んだことを自分の中に焼き付け、実習で得たことを基礎とし、患者さんの必要とするものに応えられるような立派な一人前の歯科医師になりたいと思う。
 最後に、献体に対しご理解下さったご遺族の方々、先生方、友人達、両親に深く感謝すると共に、ご献体下さった全ての方々のご冥福をお祈りします。
 
新潟大学医学部 小出 美萌
 
 十月から約二ヶ月間、解剖学実習をやってきたが今思うと本当にあっという間だった。
 初めてご遺体と対面した時のことは今でもよく覚えている。緊張しながらシートをめくったあの瞬間は、何ともいえない気持ちだった。最初は面と向かって見ることもできずにいたが、だんだんと「こんなに細かく全体にわたって実際に人体をみる機会はめったにない。だから、献体して下さった方のためにもしっかり勉強しなくてはいけない」と思うようになった。
 実際に解剖を進めていった中で、いろいろなことを知り、また考えさせられたりした。まず、「みる」ということがこんなに大切なことだったのかと痛感した。ここでいう「みる」が意味するのは単に目でみるという単純な作業ではない。「みる」というのは自分で考えながら、それと照らし合わせていくことによってなせることなのだと思った。それには、やはり事前に得ておくべき知識が必要だと思う。全く何も知らない状態でただ眺めても、何も見えてこない。この点で、反省すべき点はたくさんあった。偉大な解剖学の先人、平沢興先生(新潟大教授、学士院賞)が留学先のスイスでモナコフ先生からいわれたという言葉、「君は標本を見ているつもりかもしれぬが、本当は見ておらぬのだ。見たつもりと本当に見るということは違うし、わかったつもりと本当にわかるということは違うのだ・・・」を思い出した。
 また、感動を覚えたことも多々あった。特に印象的だったのが初めて胸部内臓をみた時と腹部内臓を取り出した時だ。ヒトの体ってこうなっているのか、よくこんなに無駄のないつくりをしているなあと思わず感心してしまった。腹部内臓を取り出した時は、内臓の重さを実際に自分の手で感じそして観察することで、教科書からは得られないような生きた情報を得ることができたのではないかと思う。まさに百聞は一見に如かずを実感した瞬間だった。
 それから、今まで解剖学以外の分野、生理学や生化学などで得た知識がこの実習によってより理解が進んだこともあった。特に、ヒトの体のでき方を学ぶ発生学については、発生段階で胃や腸が回転するところなどは教科書だけでは、まったく鵜呑みにするだけのような状態だった。続いて実習室にあるとてもユニークな手製の模型を使ってみても、結局まだ充分に理解できたとはいえないことがわかった。実物に直面してついに、初めて納得してうなずかされることが多かった。
 実習が終わってテストを迎えた時にも思ったことがあった。それは、本からの知識だけではヒトの体を理解することは無理だということだ。実習できちんと観察したところはテスト勉強もしやすく、逆にきちんと観察できなかったところは理解するのに困ったところがあった。実際に見れば見ただけ身になるものが増えていくのだなあと感じた。
 今回、解剖学実習をしてあらためて人体に対する興味が深まった。しかし、限られた時間の中で全部を理解することはできず、やり残してしまったところもあった。一つ一つのことをちゃんと頭で考えながらうまく消化していけたら、もっと有意義な実習になったのではないかと思う。また、実習の二ヶ月間は思ったよりも大変で辛い時もあったが、終わった時の達成感は心地よかった。このような実習ができるのも献体して下さった方々、そのご遺族の方々のおかげで、感謝の気持ちとその方々の気持ちに恥じないような一生懸命な姿勢を忘れてはいけないと思う。この実習で得たことを決して無駄にせずにこれからの学習に活かしていきたい。
 
鹿児島大学医学部 河野麻優子
 
 十一月の末から始まった解剖実習を終え、この三ヶ月有余を改めて自分なりに振り返ってみようと思う。実際に解剖実習が始まってみて、想像をはるかに超えた緊張を経験し、まず自らの肉体的、精神的な弱さに直面せざるを得なかったのは言うまでもない。医学の道を志した時点で、解剖実習という大きな関門を乗り越える決意をしていたつもりであり、傲慢にも可能だろうとも考えていたのだが、そのような淡い自信はすぐさま消え去り、自分の無力さと闘うこととなった。献体してくださった篤志家やそのご遺族のご厚意と医学に対する期待に応えなければならないという使命感と、自分にはそれだけの機会を与えてもらえる資格があるのかという自己に対する不信感とが混在し、医学を学ぶ者の責任のようなものについて非常に考えさせられた期間であったと思う。解剖実習は決して人体の構造や機能を理解するためだけに行うのではなく、解剖実習を通じて医療に携わるものとしての自覚や責任を改めて考え養うための布石でもあると私は強く感じている。
 しかし、医学に対する興味、ここでは特に人体の構造や制御機能に対する興味関心も強く、先に述べた葛藤の中でも薄れることはなかった。このような学問的好奇心と医学を学ぶ者としての責任や、献体してくださった篤志家のご厚意と期待に応えたいという意志、そしてもちろん共に実習を行った仲間に支えられて実習を進めることができたのだと思う。実際に自分たちの手で悩みながら剖出、同定していくことで、先生方の教えや医学書の内容を言葉での知識だけでなく経験に基づく知識として得ることができた。また人体の構造は絶対ではなく、様々な部位で個人差がみられたことも印象的であったし、解剖学は暗記するものではなく、構造の意義を考え理解するものであると再認識するすばらしい機会を得られたと思う。そしてこの場で得た知識は鮮烈な印象とともに記憶されたものなので、簡単に薄れていくことはないだろう。
 一般には解剖学というのは、「人体の構造を理解する学問」としての科学的な面しか認識されていないように感じる。しかし同時に医学を学び続けていく者に、改めて「生命への畏敬」を刻み、自らが選択した道の精神的、社会的意義をも自覚させ、その後の医学生としての、そして医師としての心に据える芯となるものを形成する学問であることを私は学ぶことができた。この経験を自分の身にしっかりと反映させていくことは、私に求められている最低限のことであり、それから先は個人の意思次第だと考えており、自分に恥じることのないようにしたいと思う。
 最後に、死して尚社会に貢献しようという篤志を以って献体を決意してくださった方々、その意思を尊重してくださったご遺族の方々に、そしてあまりに未熟な我々の指導にご尽力くださった先生方に心より感謝の意を伝えるとともに、故人の遺志に応えられるよう尽力することを誓いたいと思う。
 
大分大学医学部 小島 聡子
 
 解剖実習を終えて、一番印象に残っているのは、実習初日の出来事です。初めてご遺体のお顔を拝見して、何ということもなく涙が出てきそうになったのを憶えています。この方のおかげで私たちは実習ができるのだなと思い、感激したのかもしれません。
 その日は実家に電話をして、解剖実習の感動を伝えると、「ご遺体さんの志があって出来る解剖実習なんだから、その志を無駄にしないようにしっかりと勉強しなさいよ。医者になってからもその感謝は忘れなさんな。そういう方の協力があって一人前になっていくんだから。一所懸命しなさい」といわれたのを、今でもはっきり憶えています。実習最終日、一カ月余りを毎日一緒に過ごしたご遺体を棺にお入れする時は本当にありがとうございましたという気持ちでいっぱいになりました。
 ご遺体の志に恥じないような実習をしてきたつもりではありますが、実習を通して学んだことを基に、これからも一つ一つ進んでいきたいと思っています。







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