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解剖実習感想文
徳島大学医学部 兼松 美幸
 
自然の中にある秘密
常に時代の思索者達を当惑させてきた
それらの探求の中で病の根源に遡って
原因を追い求めること
そこに我々の野心がある
 これはウィリアム・オスラー卿の言葉です。この言葉の通り、私たちは、病の根源に遡る第一歩として、白菊会の協力を得て、系統解剖に望むことができました。
 私たちは、医学部生として入学後、基本的な人体の構造と機能を知るため、生化学、組織学といった、いわゆる基礎医学をまず学びました。この勉強の課程は、系統解剖に入るまでは、本当に文字通り、基礎医学であり、本の上での勉強でした。率直な感想を述べれば、臨床としての医学からは、少々距離が置かれているような、また本当に医学を学んでいるという実感すら希薄なものでした。ミクロな世界を覗いても、マクロな世界を覗いても、そこには文字が連なっているだけで、今振り返ると生命を感じることは少なかった様に思えます。
 しかし、系統解剖に臨むに当たって私たちはそこに命があったことを実感しました。かつて生命を宿し、意志や感情を有し、そして人生を背負った身体に触れた最初の経験でありました。
 皆様は私たち生きとし生ける者達がどれほどそこに生命という力を宿しているか実感されたことはありますか? 今ほんの一秒間の間に、私たちの身体がどれほどの働きを行っているか考えたことはありますか?
 正直私も、医学を学び初めて三年が経とうとしていますが、そういったことを深く考える機会もなかったように思えます。いえ、考えようとしなかったのだと思います。ヒトという生き物がいて、生きていく上で様々な病と格闘するという結果論だけしか考えなかったように思います。でも、実際はそうではありませんでした。生きていくことが、呼吸することが、存在するということがどんなに大変なことであるか、どんなに高等な出来事の連続であるか、私たちはこの目で確かめ、そして実感しました。
 私たちの身体は、どれ一つとして全く同じものではありません。どれを正常とし、どれを異常としていいのか判断できないほど多系であります。与えられた身体の中で、与えられた環境の中で、生き抜くために、適応するために、人間としてそして一個体として考え得る限りの力を込めて分化するという事実を私たちは知りました。
 私は、医学部に入学する前に、別の人生を歩んでいました。別の学部を卒業し、製薬会社に入社して、医薬品製剤の研究を行っていたのです。しかし、ある事がきっかけで自分の人生を、あるいはあらゆるものを捧げても、自分が老いたとき後悔しないような、これでよかったと思えるようなそんな仕事を自分がしているかどうか考えるようになりました。その時思ったのです。この仕事もすばらしいが、私の人生の中で様々な犠牲を払ったとしても、そこに何かが残る仕事をしたいと。その結果、私は医師という職業を選ぶ決意をしました。二十九歳の時でした。今思えば、自分の人生の一回目の分岐点だったように思えます。でも、その時の私には医学部に入学し、医者になることは、自分の人生に対して誇りを持つための手段でしがなかったように思えます。自分の人生に対して自分で責任を持つための、手段でしか。しかし、系統解剖で実際に命を宿した、人生を背負った身体に触れ、自分が学ぼうとしていることの重大さを思い知り、そしてその事実をうけとめ、捧げていただいたご遺体に答えようと努力していくうちに、私の中で医者になることは、手段ではなく、確実に目的に変わりました。人生の目的です。
 なぜなら、自分が分岐点にたったあのとき、自分が存在した証を、自分が歩いた足跡を残そうとして、そういった不確かなものを、別の誰かに実感してもらえるように願ったあの時の自分の思いを、私は自分の前に横たわるご遺体から強く感じたからです。『自分とは違う形ではあるけれども、この方達も、私と同じように、自分の人生の足跡を、命の証を残そうとしたのだ』とそう思いました。大変な決断であり、想像を上回る意志の強さが必要であったことでしょう。しかし、私たちは、たしかにそこに、命があったことを、人生があったことを、そしてその歩みを、感じ、尊び、敬意を服して、別の命に役立てて行くことを、あの時誓いました。
 最後になりましたが、ここで私が系統解剖中にとても心に残ったことをお話ししたいと思います。それは納棺のときでした。ご遺体を棺に納めようと、棺の中を見たとき、そこに一輪の白い菊の花が入っていました。その花は、色あせることなく、花びらを保ち、大きく開いて、まるで永遠にそこに存在するかのように、そっと入っていました。『ああ、この方の人生そのものだ』と思いました。散りてなお、美しくおごそかに、証を残した一輪の菊の花が、この方の人生だと。桜の花が散り始める頃、私たちはやはり散り終えたはずのご遺体を前にしたのですが、その花はまだ散っていなかったと確信したのでした。あの一輪の菊の花は、あの方の生きた足跡のように、今後永遠に私達の医学の道をてらし続けるとともに、基礎医学と臨床医学をつなぐ架け橋として、常に咲き続けることでしょう。
 乱文、まことに恐縮ではありますが、皆様の尊厳あるご意志に敬意を服して、そして、私達に、命の深さと尊さを教えて頂いたご遺体に、またご指導下さった先生方にこの場を借りて御礼申し上げ、最後の言葉とさせて頂きます。
 
山形大学医学部 菊池 彩
 
 解剖の実習が始まって、早いもので三ヶ月が過ぎようとしています。実習の終わりと同時に、献体してくださったおじいさんとのお別れも徐々に、そして確実に近づいております。思い返してみると、本当に短い間ではありましたが、様々な事を考え、学ぶ事が出来たと思います。初めての私の患者さんになってくださいましたおじいさんの存在無くしては生涯得る事の出来なかった、大変貴重な時間となりました。そんな経験を与えてくださったおじいさん、そしてご家族の方々に、心から感謝を申し上げます。
 この実習に臨むにあたって、最後まで誠意を尽くして精一杯学ぶ事を心に決めました。何を当たり前の事を、と思われるかもしれません。しかし、実際にそれを成し遂げる事は困難だと考えたのです。人間には、生きるために「慣れ」の機構が働くということを聞いたことがあります。事実、日々生活していると「慣れ」ることが多々あります。普段ならそれはむしろあるべき姿であると思いますが、実習や医療の現場においては逆らうべき機構だと思うのです。それは私たちがそこで行うのは単なる単独作業ではなく、相手、つまり患者さんとの協同作業であると考えるからです。ところが、実際に実習も半ばを過ぎ、口から出る事と言ったら「疲れた」「帰りたい」。淡々と作業をこなしていくだけになってしまった事もあります。初心を忘れ、自分に甘えてしまったのです。それは一種の「慣れ」そのものでした。本当に情けないことだと思います。そんな時、目の前のおじいさんやご家族の方々がどのような気持ちで献体という勇気ある決断をなさったのかと言う事を必ず考えました。その都度、私の上に良い意味でのプレッシャーが確実にかかっていきました。
 まだまだ未熟である事に改めてこの実習を通して気づきました。勿論それだけではありませんが、この先より多くを学びやがて卒業してからも、実習での経験や気持ちを決して忘れずに精進していきたいと思っております。
 最後に、おじいさん、そして献体下さった方々のご冥福を心からお祈りしております。本当にありがとうございました。
 
岡山大学医学部 公家 里依
 
 私は今年の4月に編入してきたので、他の皆に比べて知識も心構えも充分でないところもあったかもしれませんが、解剖実習を通して様々なことを学ばさせていただき、大変貴重な体験をさせていただいたと思っています。献体してくださった方、その遺族の方々、本当にありがとうございました。
 今までは文学部で勉強をしていたので医学部での実習はあらゆることが新しく、戸惑いも多かったのですが、実習を通して、自分が新たに医学部に編入して医者を目指そうとした志望動機を見つめ直すことも何度もありました。また、解剖の教科書に向かうだけではどうしても得られない事実に則した知識、感覚を得ることもできました。医者として働いていくためには、患者さんを目の前にして自分にとって衝撃的な事実に直面したとしても動揺をあらわにすることができない、それで仕事が進まなくなってしまっては困るわけですが、逆に何も感じなくなってしまっても困ります。そのバランスはとても難しいことであるように感じました。一生懸命になって解剖を行っている間、自分がどういう状況でその解剖をさせていただいているのかという意識が薄れ、ふと立ち止まって改めて献体してくださった方に感謝をするという繰り返しでした。
 私は、解剖実習を通して人体の知識でなく自分の医者を目指す動機、医者としてどうあるべきか、様々なことを見つめ直すことができました。大変貴重な体験だったと思います。最後にもう一度、献体してくださった方、その遺族の方々、本当にありがとうございました。これからも初心を忘れず医学を学んでいきたいと思います。
 
愛知医科大学医学部 久保 涼子
 
 本日ここに、財団法人不老会第二十九回献体者顕彰式並びに第十九回御名札納め式にあたり、医学歯学を専攻する学生を代表して、謹んで感謝の言葉を申し上げます。
 解剖学学習を目前に控えていたころ、私たちは緊張と不安で一杯でした。
 ご遺体で実習を行うと言うことに何か恐ろしさを感じていたのです。
 まだ未熟な学生である私たちにそのような実習が許されて良いものかと考えたりもしました。
 そして実習が始まり、連日、実習に備えての予習やレポート等に励みました。
 体力面、精神面で大変な時もありましたが、この実習で出来る限り多くのことを学び取りたい私たち全員が、その一念で実習に臨んでいたように思います。
 そこで私が得たものは想像以上のものでした。
 人間の身体は実に精密に出来ていてそして個人差に富むことを痛感いたしました。
 全てが教科書通りであるということなど一つもありませんでした。
 「人体構造は個人差に富む」という事実を身をもって知ったことは、私たちにとって大きな収穫でした。
 このことは、解剖学実習を通して人の身体に触れてみて初めて得ることの出来る貴重な体験だと思います。
 実習中、私たちは知識面にばかり関心があったわけでは決してありません。
 私たち学生に献体して下さる方々の思いとはどのようなものであるのか、常々考え続け、そして今もなお考えています。
 長い人生の、その最期を献体という形で終える、そう決断する過程での心の変化とはどのようなものであったのか、またご遺族の方々にとりましても大切な御身体を、そっくりそのまま、私たち学生の勉学に捧げて下さるとは、一体どういうことであるのかといった様々な問いがずっと頭の中を巡っています。
 献体してくださったご本人やご家族のお気持ちを知ることは出来ないかと思っていた頃、本学の医学情報センターで不老会についての番組を収めたビデオテープがあるのを発見し、見る機会がありました。
 献体登録をなさっている、お二人の方を特集していました。
 その中の一場面が強く心に残っています。それは、登録者の方が献体登録の動機を問われている場面です。
 そこでその方は「良い医者を育てるには遺体が必要だって言うんで・・・」とぽつりと仰っていました。その言葉を聴いた時、なんだか胸が熱くなりました。
 少し大袈裟に聞こえるかもしれません。
 しかしその頃、私は勉強の大変さに少し行き詰まっていました。
 そんな時、その言葉を聴いて、医者を育てる事に協力しようとして下さっている方がいらっしゃる、亡くなってもなお、社会に貢献しようとなさる志の高い方がおいでになられる。
 そのご意志を無駄にしてはならない、とても勇気づけられたのでした。
 解剖学実習は、物事を新たに異なる視点から考え、又今まで学んだ事柄を有機的に結びつける事を可能にしてくれました。
 ご遺体を通して、医学を学ぶ私たちに実り多い経験を与えて下さいました方々のご冥福を心よりお祈り申し上げますとともにご献体にご同意下さいましたご遺族の皆様方に厚く御礼を申し上げて、学生を代表しての感謝の言葉とさせていただきます。







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