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 いまもってアメリカは沖縄を手放しません。ペリーのときから手放しません。地政学から見て沖縄は東京と北京からは等距離にあり、アジアの中心にありますから、地政学的に沖縄は非常に重要でペリーも占拠しようとしていましたが、石炭がないのであきらめました。しかし日本が鎖国を解かなければ、ペリーは沖縄を占領するつもりだったようです。ですから日本の阿部正弘の交渉はなかなかよかったと、僕は評価しています。
 琉球のほうでは、何か接待しようとしてもペリーはノーでした。ペリーというのはなかなかの役者で、なかなか前面に出てこない。部下に指示して自分は裏に隠れていました。やはり交渉には演劇が必要です。日本の交渉をする人は、演劇など関係ないと思っていますが、そうではありません。ヨーロッパでもアメリカでも交渉者はみんな演劇を勉強します。ここで怒るというと、ポーズをつけてバッと怒ります。だから交渉で休憩時間になると、さっきまで怒っていたのが、「やあやあ」と日本人に抱きついてくる。日本人は「何だ、こいつは」ときょとんとします。やはり演劇、パフォーマンスが必要です。ペリーなどは、盛んに部下にも命じています。私は日本の交渉権も演劇を勉強しなければならないと思います。
 演劇というのは、ただ「あなた英語がじょうずね」と言うだけではだめです。「英語の発音がじょうずね」というのではなく、しぐさまでやらなければならない。日本では演劇をやるのは少ないです。私もこれから交渉専門の大学をつくりたいと思っていますが、その中に演劇学部を入れる必要があると考えています。
 最近ある役者さんと知り合いになりました。今日僕がここに来るとき、車に乗せていってやるということでした。この一番前に座っている大橋さんです。ちょっと立ってください。この方は仮面ライダー2号です。この人は人がよ過ぎるくらいです。だから人脈が豊富で、これが終わってからも新宿で演劇があるのでそれに備えています。彼の先生はタカガキマモルというシナリオライターです。この人の演劇を観に行きました。北方のカニを日本が買わなければ、北方領土にロシア人はいられないのですが、それを密輸で買ってしまうからいるのです。密輸で被害を被った物語で、涙が出てくるようなシナリオです。交渉とシナリオ、演技は一体で、われわれはもっともっと、演劇で鍛えてやる必要があるのではないかと思っています。
 ペリーの江戸湾に入港が1853年8月8日です。その後日本は、「太平の眠りをさます蒸気船たった四杯で夜も寝られず」というように、大騒ぎになりました。ペリーはアメとムチを用いました。ペリーは役者で、日本が言うことを聞かないと大砲をちらつかせ、脅し恫喝をかけながら接待をして、アメとムチでやるわけです。
 ペリーは日本の高官は高い教養を持ち、西洋の科学技術もよく知っていると言っているのです。彼は日本に大人が乗るような機関車のおもちゃを持ってきました。大砲の江川太郎左衛門も、それに乗りたくて何とかやったけれども乗れなかったというのがありますが、それは火事で焼けました。ペリーが持ってきた当時の機関車に乗った人は、矢のように早くて目も止まらないと言っています。いま乗ればたいしたことはないと思いますが、それを生産した場所などはみんなわかっているわけですから、たとえばここの脇にペリーの持って来た機関車のおもちゃを置けば、いまは北の工作船でお客が満杯ですが、それとは別に一つの客寄せとしておもしろいのではないかと思います。
 とにかく日本人はすぐにわかってしまう。ただどうしてもわからないのは電信だったようでした。目に見えないこれが理解困難だったようです。機械的なものは日本人はすぐにわかると言っています。
 アメリカの開国要求に対して、日本はどう対応したか。阿部正弘の外交教科書は、水戸学の会沢正志斎という人の新論だと思います。これがペリーに対向した阿部正弘のテキストでした。会沢正志斎の『新論』を読んだことがある人はいますか。これは終戦の前までは、日本人は誰でも読んだという本です。これが出たときに吉田松陰が感動し、彼は脱藩までして、会沢正志斎に教えを請うため水戸にまで行きました。彼の弟子の高杉晋作は、この『新論』を読んで飛び上がって毛利の殿様に献本します。勤王、佐幕関係なしに両方ともこの『新論』に感動します。
 いまの言葉で言うと、『新論』は「危機管理」です。北水戸に、イギリスの捕鯨船が十何人が武装して上陸してきました。そのとき漢文の通訳として会沢正志斎が筆談し、大変だということで彼が書いた危機管理、マネジメントの本です。当時マネジメントなど考えられないのですが、どこでどう聞いたというよりも、会沢正志斎が自分で考えたのだと思います。まったくのマネジメントの本です。
 先ほど私が紹介した本の後半のほうに、『新論』が何を主張したか、解説が書いてあります。阿部正弘はソフトな人で、これに精魂使い果たして、ペリーが帰ってから間もなく彼は死んでしまいますが、彼の柔軟さと同時に強さが彼の交渉にありました。もしペリーにペコペコしていたら、ペリーはたいしたことはないと思い、砲艦で脅すだけではなくて実弾までもぶち込んだと思います。しかし一発もぶち込めなかったのです。しかし、正弘の伝説は殆どない。理由は彼はペリーにやられっぱなしだったと評価されたからです。それは誇りに思う。
 しかし開国はした。もし日本が鎖国を解かなければ、最終的には沖縄、琉球を占拠する。占拠する下準備に兵隊を二、三人沖縄に置いてきている状況でした。沖縄、それから小笠原にもとアメリカ人がねらっていたわけですが、これを排除したのは何といっても阿部正弘です。軟弱外交というよりも、静かな中に脅しを感じたのではないでしょうか。だから一発も鉄砲を撃たずに、ペリーは帰っていった。そのすごさをわれわれは検討してみる必要があると思います。
 それを支えたのが会沢正志斎です。先生は最後の水戸学の権威の藤田幽谷です。幽谷の息子の藤田東湖と並び称するのが弟子の会沢正志斎です。藤田東湖の高い値の書を買いました。白髪だが中身は元気だ。いまは4隻の外船がきている。彼は体に障害があったようですが、田舎の草屋に戻ろうかというちょっと弱気の詩です。藤田東湖は少しジャーナリスティックでしたが、阿部正弘は学者としてやった人で、彼の研究が日本を支えたと思います。
 僕が前にハーバードに行ったとき、そこに日本人の女性がいました。看護婦をやっていてアメリカに行ったのですが、こんなことをやっていても仕方ないと、ハーバードへ四十歳で入学し、日本の大田南畝の研究で博士号を取った。ハーバードでしばらく教えていて、そのころに行ったのですが、そのときハーバードに幕末の日本の写真集がありました。芸者、大工さんの写真集を見て、結局これでアメリカは日本を恐れたのだ。芸者といっても毅然としている。職人といっても面構えが違います。ハーバードでその写真集を出しました。日本が植民地化されることをこの面構えが防いだということを、その女性が言っていました。そういうことで日本は交渉を進めていきました。
 日本側もペリーに対してどう対応するか、諸藩に案を出させるわけです。諸藩の案にはどういうことがあるか。交渉では、取り得る手が多くなければならないという原理があります。それはどういう原理かというと「必要多様性の原理」と言います。AとBが戦うとき、Aの取り得る手がBの取り得るものより大きくなければ、AはBに勝てないという理論です。打つ手が弱ってくると、環境変化にすぐにまいってしまうわけですから必要多様性の原理というのはなかなかの理論です。
 たとえば生物の世界でも、化石を見ても対応する力が弱ってくると死滅していくわけです。企業でもそうです。環境のちょっとした変化に資金ショートをきたす。多様性が弱くなっていくと負ける。この多様性が多くなければならない。日本も各諸藩にどういう対応がいいか、正弘がアンケート調査しました。そうするといろいろな多様性が出てきました。これも一つの日本が生きた力ではないかと思います。今日紹介しようと思いましたが、具体的には私の本にあります。
 先ほども言ったように、ペリーの対日外交はなだめすかしながら、断固とした態度です。この断固とした態度が必要です。特にリーダーがグラグラすると、部下が不安になってしまって、困難、アノミーと言いますが、リーダーというのは自分自身が動揺していくのを姿として表してはいけない。じっと堪えて動揺しない。ペリーも断固とした態度で日本に対しました。
 最後の南中国における動静−客家(はっか)ということが書いてあります。われわれはこれから中国を考えるにあたって、客家ということを勉強しておく必要が絶対にあります。この本でも紹介していますが、客家という集団、少数民族です。客家について何か聞いたことがありますか。たとえば僕はいま中国は客家王朝であると見ています。小平も客家、いまの胡錦濤も客家出身です。客家出身者が中国を押さえているわけです。
 ちょうどペリーのときに客家の反乱が起きます。大平天国の乱で1851年に始まった最大の農民反乱です。この中心人物は洪秀全です。洪秀全の名前は聞いたことがあっても客家ということは聞かないと思います。彼は客家です。昭和18年、日本の外務省が中国を支配するのに中国は国内が乱れに乱れ、いろいろな軍閥が喧嘩し、日本の外務省が調査しました。その結論は一言でした。もし中国で客家に一人の英雄が出たならば、中国は大同団結していくであろうという結論でした。そのとおりになってきました。毛沢東も客家ですが、彼は逃げるときはいつも客家の部落を訪ねています。蒋介石も客家だったと思います。孫文も客家で、洪秀全も客家です。
 これはどういうことかというと、一つには客家は中国のユダヤ人と言われています。ユダヤの2000年昔に12の種族があったが、そのうち残ったのは二つの種族で、10の種族が行方不明になっている。これが中国に入ったということです。特に開封という町に石碑が立っていると言う方もおりますが、もともと客家もユダヤ系だったかもしれません。要するに中央の西安などにいたのが、政治的に亡命する。亡命するには北に行ったのでは食い物がないので南に行く。南の平野部に行ったのでは先住民がいますから、山に入るわけです。そして少数民族が団結して生活する。要するに勉強し、そろばんができれば誰かが使ってくれるということで、教育が熱心です。
 私の学生に神戸の客家のお嬢さんがおりました。そのお嬢さんは「私は客家が嫌い」と言います。なぜかと聞くと、小学校に上がるときに、みんなきれいなランドセルを買ってもらっていた。私はおばあさんが使った布でできたずた袋を持たされて、そこに教科書を入れて小学校に通ったので、嫌で嫌でたまらなかったということです。それが高校を出て大学に行くとき、お前はアメリカの大学に行けということで、アメリカの大学に行きました。帰ってきてから国際基督教の大学院に来て、私のところで勉強していった女性ですが、客家というのはこういう感じです。
 客家というのは、すぐに妥結しないのです。交渉というのはすぐに妥結しないのが当然です。こちらに時間を取りまして、こちらに妥結の結果を見ますと、だいたいこういう感じです。全体の100%のうち90%の時間が過ぎても、妥結は10%ぐらいです。これを90:10の原理と言っています。客家の場合、これが長いのです。話し酒を飲み、こいつと商売をやってもいいなと思ったら、あまりグタグタ細かいこと文句言わずに妥結する。そういう傾向があります。
 日本もそういう意味では客家的な面があって、日本人にも相当客家が入っています。四十七士の?タケダ何とかも客家です。その他最近有名な岸信介自身も客家だということを自分で言っているようです。客家というのは義理堅く勤勉で、いまやユダヤよりも資本を持っていて、日本が中国と手を結ぶには客家と手を結ぶ必要があると思います。







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