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 台湾政府の中には客家庁という庁がありますが、いまは葉菊蘭という女傑が客家庁長官です。台湾の客家が大事にした日本人は、北京客家も大事にするのです。ですから北京に乗り込むには台湾と親しくしていくと、中国でも待遇がいいということが言えるのではないかと思います。日本にも客家の集団があって、私は客家の集団の会長と若干親しくさせていただいて、このカードを切って、日本と中国の友好の仕掛けにしようと思っています。交渉とはそういう意味ではなかなかおもしろいものです。
 大平天国の乱の末期には彼らは4万人もが殺戮されてしまっています。そういうことで、少数民族ながら大変苦難な歴史をたどっていますが、いまでも中国の客家を除いては中国を考えられないということが言えます。日本の政府がどれだけ客家の動きをとらえているか。これは大いに気になるところです。
 日本はなぜ不景気になったか。この原因は何だと思いますか。ニューヨークにホテルプラザというのがあります。1985年9月22日、プラザ合意というのが起きました。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツがあまりにも日本が強いので、日本をとっちめようという謀略です。それで日本を呼んだ。ときの総理大臣中曽根、大蔵大臣竹下、日銀総裁は澄田でした。要するに日本は円高にさせられたわけです。それにホイホイと乗ってしまった。
 僕は去年の6月ごろ、ある雑誌に拙文wp連載していました。こんなことを言ったら私も首が危ないかもしれませんが、「中曽根は国賊である」と書きました。最近日銀にいたある大学の教授が、中曽根に文句を言わないで、その下の竹下の悪口を言っています。その上の中曽根こそ国賊だと思います。円高にポイと乗ってしまった。それで是正しようとしてもだめです。是正しようとすると、お前らプラザ合意に違反するつもりかと恫喝する。それで学者も政治家も黙ってしまいました。
 情けない話だと思っていましたら、昨年の12月に保守新党が立ち上がるときに、新聞を見ると、熊谷弘という代表が「これから逆プラザ合意の運動を展開する」という記事が出ていました。これはすごいと思って、憂国の政治家がいよいよ現れたと思った。正月になってどのような行動をするかと思ってじっと新聞を見ていましたが、ちっとも音沙汰がないんです。彼も誰かにちょっとつつかれて黙ってしまったと思いました。仕方がないと思いました。
 2月になって僕は「あなたに僕は感動した。しかしその後音沙汰ないのはどうなっているのか」と議員会館にファックスを入れました。すると、しばらくたって話したいことがあるので、2月13日午前10時に議員会館の部屋に来てくれないかと連絡がありました。それで行きました。「実は先生、連絡をしなくてすまなかった。アメリカに行ってきて、ブッシュと会って話をつけてきた。ブッシュも『日本は弱い日本よりも強い日本のほうがいい』と言っている」と。
 いまの日本自身が滅亡するのではないかという状態よりは、湾岸戦争のときみたく強ければ、資金をバンと簡単に出す。いまはジャーナリストで有名になった岡本行夫という元外務省のアメリカ局の課長が、16歳で司法試験に合格したすごい男H氏に政府の金のあるところを教えて、バンと出して男を上げたわけですが、いまやそんな金はどこにもないわけで、ブッシュも日本はやはり強いほうがいいということです。「俺もお前が言う日本の円安を是認する。しかし急にやったら民主党などが騒ぐから、ジワジワやってくれ。気がついたら円安だったというようにしてくれと、話をつけてきた」と言うのです。
 僕が会った日の午後、小泉さんと会うということで、次の日の新聞を見たら、小泉さんが記者会見をやっていました。「日本はやはり円安のほうがいい」と言っています。その線でいかないと日本は滅んでしまう。同じ攻めをいま中国がアメリカから受けています。元の切り上げです。これは日本のプラザと同じ結果になって、中国も大変な時代にぶつかっていく。
 ここで日本が日本の反省を踏まえて、早急に上げないほうがいい、2段構えでいきなさいぐらい言ったら、胡錦濤は大喜びです。しかも日本の中小企業が中国に行って、国内でやったのでは円高でしょうがないから、向こうでやっているのを持って来る。そういうことで生き延びていく。これが元高でバンと崩壊していきます。2段階のほうが、まだ傷がいくらか浅いということです。
 これを日本政府は誰も言ってあげる人がいません。この間も小生の友人の中国人が言っていましたが、技術的にはドイツ、フランスよりも日本のほうがいいので、2段構えを言ってあげれば北京−上海の鉄道は日本が担当する。これははっきりしています。ただ、いまは小泉さんも北京に行けない。そこの問題があります。ですから胡錦濤を助ける意味で、2段構えにすべきであると日本が主張すれば、彼が日本はいいなという話になって、北京−上海の新幹線も日本にということで妥結するのではないか。妥結したら100年続くと言います。中国の鉄道に日本の鉄道と、ゼネコンや道路公団が行くわけですからいいですね。これはやはり客家です。胡錦濤さんに「うん」と言わせなければだめです。客家の路線でシナリオが書けるが、日本に踊る俳優がいない。
 そういうことで、中国もいま日本が経験したことに直面しようとしているわけです。日本もすぐプラザにホイホイ乗るのではなくて、阿部正弘みたく柔軟にジワジワとすぐ乗らないという格好でいったらよかったのです。日本は国として滅びるのではないかという危機さえ持つわけですが、これを救うのも現状打破、改善のための交渉で、目標を持って進んでいかなければならない。
 私はいま72歳ですが、この年になって目標を持つことはすごく大切だと思っています。私が交渉学に関心を持ったきっかけですが、ライシャワー先生に呼ばれて、一九七三、四年にハーバードに行きました。ハーバードのビジネススクールで交渉学が始まった。オイルショックのときです。アメリカのハーバードはエリート養成だと思ったら、脅し、恫喝を教えていました。これはすごいと思って、帰ったら学会をつくろうと思いました。
 学会をつくってちょうど15年目になります。10周年のときに、私は四つのことをこれからやるとしました。まず第1番目に、ただ学会といっても日本学術会議というものに登録が許された学会でないとだめです。大学に就職したいが、業績は何かと言われたときに、その学術会議に登録された学会の学会誌に何本論文を書いたか。これが決め手になります。だから何とか日本学術会議の登録団体にする。創立10周年経ってもまだ認可されませんでしたが、それが一応認可されて、われわれはいま日本学術会議の登録団体になりました。
 2番目は学会ですから、言葉を統一しないといけない。あなたが交渉というのが、俺のネゴシエーションだというように、言葉が混乱していたのでは仕方ない。辞典かハンドブックというようなものをつくらなければならないので、これをつくることを10周年に言いました。それがずいぶん時間がかかりましたが、9月4日に東洋経済から『交渉ハンドブック』というのが出ました。これが私の監修で、日本交渉学会のメンバーの代表が編集委員を形成して、いろいろ書きました。案外評判がいいです。5回かかりました。
 特に来年から法科大学、ロースクールができます。ここに中核になる科目が三つありますが、その中の一つが交渉学です。交渉学を教える先生がいないと、この間新聞で大騒ぎになっていました。そういうわけで『交渉ハンドブック』をつくりました。
 もう一つは小中高にも交渉学を教える。日本ではいじめ問題が起きるとすぐ、異常心理学の先生が来てああでもない、こうでもないと言いますが、アメリカはそうではない。交渉の失敗、ネゴシエーション、交渉失敗としてこれを処理します。サンフランシスコに研究所があります。そういうことで、小中高に交渉を教えなければ仕方ない。
 いまわれわれはNPO日本交渉学会というものをつくっています。要するに日本交渉学界のほうは研究ばかりやっていて教育をしません。交渉の教育をしなければ仕方ないということで、7月1日に申請し、10月の初旬に認可されると思います。特にいま就職が悪いわけです。大学もそうですし、社会人もリストラになってしまう。これは何かというと、自分の売り方が下手なんです。おとなしくてただペコペコしても交渉になりません。「私がお宅の会社に入ったら、現状打破、改善として、このようにします」という自己主張する。そういう交渉を教える、そのコースをまず第1番にする。
 だいたい10の専門エリアの交渉問題を取り上げようと思っている、通信教育です。テキストはできて、あとは認可のゴーサインを待つばかりです。これが10周年記念に言った話です。大学のほうはそういう活動を踏まえて、3年ぐらいに大学院大学をつくろうかと思っています。最近、都内のある大学で、交渉学部をつくらないかということを言われています。それだったら、ついでに、演劇学部もつくってくれという話し合いをしたいと思っています。
 10周年の目標を挙げましたが、三つまでは達成しています。目標がなければそうはいかないわけです。私は昭和6年生まれですが、ますます元気で頑張ろうと思います。私の恩師である学生時代のゼミの先生は、9月24日で100歳です。あの問題はどうなったかと説明すると「そこまでは聞いた。その次はどうなっているんだ」と。「先生、僕も80までは頑張ります」と言うと、「そんなことは言わないで、せめて85ぐらいまでは元気でやれ」と言われていますが、そのつもりでやろうと思います。
 神奈川条約などもすでに勉強していると思いますが、能率協会の拙著を読んで、各章の裏に、どこを読むかというコメントを書いたもので、これがなかなかいいと思っています。最後に、和辻哲郎の『アメリカの国民性』に言及する。両書はすばらしい本です。昭和18年だったと思いますが、和辻哲郎、東大の倫理の教授がアメリカを論じた。ただ鬼畜米英のスローガンというのではなく、倫理学を踏まえて取り上げたものです。
 最初はバーナード・ショーの『運命の人』から引用しています。「イギリス人は生まれつき、世界の主人たるべき不思議な力を持っている。彼はあるものが欲しいとき、それが欲しいということを彼自身にさえ言わない。彼はただ辛抱強く待つ。そのうちに彼の欲しいものの持ち主を征服することが、彼の道徳的、宗教的義務であるという燃えるような確信がどういうわけか彼の心に生じてくる。
 そうなると彼は大胆不敵になる。貴族のように好き勝手な振る舞い、欲しいものは何でもつかむ。小売商人のように勤勉に、堅実に目標を追求する。それが強い宗教的確信や、深い道徳的責任感が出るのである。そこで彼は効果的な道徳という態度を決して失う事がない。自由と国民的独立を振りかざしながら、世界の半分を征服し併合する」。皮肉屋であるバーナード・ショーが、イギリス・アングロサクソンの気質はこういうものだというところから始まっています。
 和辻さんの全集がちょうど20巻くらいありますが、ちょうど真ん中らへんの番号の冊数に載っています。小さい論文ですが、200万部も戦争中に売れました。戦後、これはすごいということで、アメリカ人の社会学者が、この和辻の議論に立って、アメリカのベトナム戦争を批判しました。そのぐらいしっかりした論文です。アメリカを理解するには、和辻哲郎の『アメリカの国民性』というものを一読すると、非常に参考になります。彼は次のように言う。
 アメリカの国民性、アメリカの哲学は何か。二つあります。一つはベーコンの哲学で、これは物事発見の哲学です。アメリカに行ってみると、欧米人にとっては気候が厳しくて、これを克服するのが大変です。それをベーコンの自然感哲学や栄養学などを使って体力をつけてる。それからインディアンを征服する。それからベーコンの助手をやったホッブズの支配の哲学、この二つにアメリカの哲学は寄って立っているという、論理明解に分析したのが和辻哲郎の『アメリカの国民性』です。ですからぜひこれをお勧めしたいと思います。
 日本人はもともと、仏教的で心優しいのではないのかと思います。日本人は戦うのではなく、協力という交渉型のタイプです。しかしなぜ、このように不況になってしまっているのか。これはリーダー欠落です。それが現状打破に向かって進んでいくというのが必要だと思います。
 最後に函館訪問です。ペリーの一人の海兵隊員が死にました。お墓がありそこに英文の詩があります。日本語の翻訳もありますが、その翻訳が下手なので、私が自分の本では自分で訳しました。
「外国の浜辺に眠りながら休息したまえ、
舟乗りよ。
休みたまえ!君の苦難は終わった。
舟乗り仲間らはここに記念碑を残す。
涙をそそぐ人もあるだろう
こんなにも長く逆境に立ち向かい
祖国に命を献げたひとに」
 こういう詩が函館の外人墓地にあります。やはりアメリカも、日本も国に殉じた人を崇敬していく必要があるのではないかと思います。
 これで私の話は終わりたいと思います。何でもいいですから質問していただければ、私も元気が出ますので、よろしくお願いいたします。
 質問 和辻先生のタイトルは何というタイトルでしょうか。
 藤田 『アメリカの国民性』というタイトルです。和辻さんの全集で見ればすぐに出ます。小冊子ですが、当時200万部売れたものです。いまでも感動を呼びます。
 質問 客家の言葉ですが、漢字でどう書くのですか。内容をもう少し詳しく知りたいのですが。
 藤田 非常に立派な質問で感謝です。「はっか」というのは「客の家」と書きます。客家語というのがあります。客家という町もあります。香港の広東という町の上あたりに、客家という場所があり客家語というのがあります。たとえば学者で郭抹若という人がいましたが客家です。字は漢字ですが、言葉として客家語というのがあります。客家というのは教育を熱心にやる少数民族で、いまや中国の核を成している重要な少数民族だと考えていいのではないかと思います。
 昔からわれわれが知っている中国人の孫文や毛沢東などは、みんな客家です。よろしいですか。質問が一応終わったということは、私の講演が100%皆さんにご理解いただいたと自己評価して終わりたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました。(拍手)
 司会 どうもありがとうございました。それではこれをもちまして、本日のセミナーを終わらせていただきます。
 
平成15年9月7日(日) 於:フローティングパビリオン“羊蹄丸”
 
講師プロフィール
藤田 忠(ふじた ただし)
昭和6年(1931)5月 青森県に生まれる
昭和33年(1958)3月 一橋大学商学部卒
昭和39年(1964)3月 一橋大学大学院博士課程修得
昭和39年(1964)4月 神奈川大学専任講師後に助教授
昭和43年(1968)4月 国際基督教大学助教授後に教授
昭和48年(1973)
ハーバード大学・ハーバード燕京(イェンチン)研究所客員研究員
〜49年(1974)
ハーバード・ビジネス・スクールで「交渉学」が始まり、専攻を交渉学にする
「日本交渉学会」を設立
昭和50年(1975) アテネオ・デ・マニラ大学(フィリピン)客員教授
〜51年(1975)
昭和53年(1977)4月 東京国際大学商学部教授
〜平成15年3月
平成15年(2003)4月 NPO「日本交渉学会」設立
 
現在
日本交渉学会 会長
国際基督教大学 社会科学研究所顧問教授
同済大学(中国・上海)顧問教授
東京国際大学大学院講師
ハーバード大学・ハーバード燕京VSA(米国)日本支部長
 
著書
『交渉力の時代』(PHP研究所)
『交渉力研究I、II』(プレジデント社)
『幕末の交渉学』(   〃   )
『脅しの理論』(光文社)
『ペリーの対日交渉記』(日本能率研究協会マネジメントセンター)など多数







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