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・第2台場の撤去
 第2台場の撤去のときに障害物が出てきました。ここが波止場です。したがってこちらが南のほうです。これは全部撤去しましたのが一応測量はしています。ここに1、2、3と番号をふっていますが、何を表しているかというと、石垣を最初とり、中にある土をどんどんとっていきました。実はここに、まとまって松杭をたくさん打ち込んである箇所が三つあります。三つの大きさは一つは30メートルと12メートルで、右隣の順に30メートルと12メートルで最初のと同じ大きさです。3番目は20メートルと10メートルです。全体がひとまわり小さいものが出てきました。
 これは写真でよく観察してみても、私は現場に行って見る時間がありませんでしたので、工事は全部終わってしまいましたが、後ほどの検討ではたぶんこの三つの島、実はこのお台場をつくった人たちの工事の進め方、その他を監督する、小人目付けという役割があります。一つひとつの台場に目付役、そしてその下に働く役割の人たちがいるわけですが、高松彦三郎という人の日記が国会図書館や広尾の都立中央図書館に写しで残っています。
 日記を読むと、「小さい三つの島はできあがった。さらに四つ目に入」というような表現がありました。この第2台場の中に島は三つしかありませんが、さらに四つ目の小島をつくるという表現は、一体何を指すのかわからないところでした。ではなぜ三つつくったのかというと、これはまた想定しかできませんが、たぶんここに基本的に杭を打って、上に板を乗せてそこに船で運んでくる石や土を、一時借り置きして手順よく埋め立てをしたのではないかという想定です。
 ではどうして三つ一緒に同じ規模でつくらなかったのかはわかりません。片方は小さいし、片方は大きいというのがあります。それをいかにも想像を掻き立てるのは、真ん中になぜつくったのか。周辺は石垣ですから、そういうことから考えると、重い石を築いていくわけですから本当は石垣の工事のほうが難しいです。このようなところに台をつくっても、役に立つかどうかよくわかりません。これは日記を読んでも、四つ目の島というのが何を指すのかわかりませんでした。
 こうしてお台場は突貫工事でつくりました。しかし安政の大地震(安政2年(1855)10月)というのがありました。この図面は何を指すかというと、お台場ごとに黒く塗りつぶしていますが、実は崩れた石垣です。皆さんがいらっしゃるここ臨海副都心はすべて海の中を埋め立てつくった土地ですが、難しい言葉ですが、よく言われる液状化現象で埋立地ですから何百年、何千年経って土が固まって落ち着くというのが実は難しくてよくわかりません。
 一番硬い地盤の洪積層というところは、だいたい35から40メーター以上掘らないと硬い地盤になりません。だから大きい建物は洪積層の地盤まで杭を打って、その上に建てるようになっています。臨海副都心で埋め立てはしましたが、基礎はそういう深いところまで打っています。この船の科学館もそうだと思います。
 ところが道路はそれほど深く掘る必要がないので、表面に道路をつくってしまいます。いくら掘って固めてもせいぜい2メーターと掘りませんから、どうしても道路は不等沈下といって、デコボコになってひび割れが起きたりします。このお台場の石垣は、杭は松丸太を打った上に横木を置いて、その上に石を積んだ形はほとんど全部同じです。
 しかし、おもしろいことにというか、残念なことにというか、それぞれ第1番、第2番、第3番、第5番、第6番は入り口の石垣だけが崩れています。数から言っても1番が一番石垣が崩れています。どう考えても1番は一番深いところにつくったお台場ですから、たぶん地震のショック、いまで計算して震度6.7や7に近かった安政の地震と言われていますので、どうしても直下型に近いものは、石垣の積み方が難しかったのかという想定です。
 この図面は修復をするときの図面ですから、たしかに崩れていたというのは事実としてわかります。黒いところが崩れたところです。第6台場は入り口だけです。そうすると第6台場のつくったところの地盤に、差があるということしかいまのところ言えません。安政2年の大地震、あるいは津波による被害というのは、結構江戸の町でも被害を受けています。
 これはだいぶ現代になり、昭和39年の図面です。ここに利田新田地と書いてありますが、これは第4台場です。ここに利田神社があります。目黒川のすぐ前という位置関係になります。ここは明治になってから気象台の出張所で、潮の高さ、あるいは風が強くなるとか雨が降るなど、いわゆる気象台の測候所のようなところがありました。そのときはこのように、先ほどご覧いただいたような形のお台場がずっと残っていました。
 これが最近の図面で、皆さんのお手元にあるものとほぼ同じです。ここに第4台場があり、この台場の高速道路のすぐ下の端に残っている石垣は、当時つくった石垣が残っています。再開発でいろいろな建物ができた関係もあり、上のほうは全部たぶん取り替えたような形ですが、さっき言った基礎に打った小さい島が、たぶん第4台場にも残っているのではないかと思います。工事の記録などを見せてもらいましたが、必ずしもはっきりしていませんでした。
 第1台場と第5台場があり、第1台場がこの品川埠頭の下、東京港の下を臨海高速鉄道がトンネルで抜けてきて、このように曲がって品川のほうに入る路線となっています。いまはもう完成してトンネルを走っています。この第1台場の石垣のところをトンネルが通過するので、支障となるこの石垣を取ることになり、港区と鉄建と高速鉄道会社から協議を受けて、実はそれを調査し掘ってみました。
 これもいままで想定したものとどのように違ったかというと、私も自分なりの研究の中で、海ですから石垣の根元が波で洗われることや、波除けの杭と表現されていましたが、必ずしもそうではないのか。さっきゴミの話もしました。それがどのくらい沖合まで杭があったかというのは、遺跡を発掘してみてわかったことですが、かなり沖合のほうまで打っているのが見つかったわけです。
 それから守備隊がいる陣屋ですが、第1、第2、第3、第5、第6台場と、全部同じような形式であり、おもしろいことに台場によっては陣屋の方角が南北ではなくて、東西にできている台場がありました。これがそれを証拠づける台場がすでに消えていますので、これは計画図だけの判断かとも思っています。敵が攻めてきますので、上から落ちてくる大砲の弾を除けるには東西よりも南北で幅の狭いほうが理屈の上からいうと、砲弾の当る確立が低いと考えるのは当然かとも思います。しかしそれを証明するものがありませんので、わかりません。
・洋式台場の応用
 それから幕末にいくつかできたお台場です。これは北海道の五稜郭の平面図です。これを設計したのは武田斐三郎で、この人ももともとは蘭学、オランダの兵学書でいろいろ研究をされた人のようです。日本の国ではこういう形の発想は当初からはありません。せいぜい、考え方が表れてきたのは江川太郎左衛門が蘭学書を読んだのが、いまの品川台場の2列で、死角を少なくしてお互いを守るという意味合いのつくり方をしています。たぶん五稜郭一つで防御するという考えはなかったのではないかと思います。
 五稜郭の五は角の数を言っています。あまり有名ではありませんが、実は四稜郭というのが五稜郭からすぐ近くに築城されています。これは四角形です。出っ張ったところに特に大きい砲台を置いているのが、ヨーロッパ形式の新しい砲台のつくり方のようです。
 これ以外に幕末にできているのが、神奈川台場という横浜の台場。勝海舟が設計・監督をやっていますが、今日ご参加の皆さんの中にも横浜に在住の方がいらっしゃるかと思いますが、位置は東神奈川です。ここが大波止場で、これが関内です。ここに横浜が新しい港をつくるわけです。実はこの東神奈川の山のすぐ下に、やはりお台場をつくっています。
 それが神奈川台場です。
 形から言うといままでのお台場と違って、お台場をたくさんつくればつくるほど、自分たちの守るお台場の連携ができるということがありますが、これは勝海舟が研究した結果のお台場のようです。こういう辺を曲げて、近くまで敵が攻めてきたときに十字砲火というか、左右から撃って相手を威嚇したり命中させることを考えているようです。
 特に面白いのはこちらが陸地です。このように土手で囲って、ここを小さい船が出入りできるように、船の溜まり場にも使えるというアイディアで神奈川砲台をつくっています。これは幕府ではなくて、設計は勝海舟ですが四国の大名(愛媛・松山藩)がこういう形で防御しようということでした。(これと似た台場の背面に水域を囲って小船を待機させる案は江戸佃島台場にもあった)
 さらにいま洋風の台場が残っているのは関西では西宮と和田岬砲台です。国内ではこういう形を考えにくいというか、そういう体質がなかったのだと思います。ヨーロッパ形式の星型に近い形で、左右からきてもお互いに砲を交えるというのが最上と考えたのだろうと思います。実際にはこういう形は消え跡形もありませんが、中にある石でつくった円筒形のお台場が、いま史跡指定になって残っています。だんだんと大砲の威力、それと遠くへ飛ばす火力の進歩という中で、台場の形も変わってきましたし、考え方ももっと進んだ考えが表されているのではないかと思います。
 形のついでにもう一つ申し上げます。これは実は大給と書いてありますが、幕末に陸軍奉行になった大給公・松平乗謨(竜岡藩主:大給家は徳川の一族で、慶応4年に「大給」と改めた)が考えたもので、五稜郭と同じような感じだと思いますが築城したのが信州の山の中です。従来、今までお話し申し上げた台場というのは、だいたい海岸線よりにつくった台場が多いです。陸の中に、これは実験的に考えられたお台場ではないかと思われますが、一応陸軍奉行を拝命して、自分なりに自分の領地の中にやってみようと、実験的に築城した台場ではないかと考えられています。未完成で工事が途中で中止になったのではないかと思われます。ここの後方の部分は残っていますので、行けばおわかりになるかと思いますが、小型の砲台というものも研究をされて採用されているということが、おおよそお台場の形から見てわかります。







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