日本財団 図書館


・備砲について
 お手元の図面でご覧いただくと、ここにこういう線があり、細かいようですが大砲を置いた形式を示しています。大きいものから小さい大砲まで、いくつ置いたかという数字を表しています。お台場をお話しするときに注意しておきたいと思っているのは、お台場を一生懸命つくりましたが、実際に敵が来たときに戦えたのかというのは、幕末になってからだいぶ論議があるところです。
 大砲がなければ戦えません。お台場そのものの陣地はつくりましたが、大砲がなければ敵と戦うことはできませんし、追い払うこともできません。その大砲はどうしたかは後でお話し申し上げますが、ここの図面では品川の第1番のお台場には、砲形が7寸3分、あるいはポンドで言うと80ポンドが10挺備えるという位置まで、計画的に考えられていました。国内で大砲をつくるのはどこかと言うと、後ほど反射炉の話も出てきますが、九州佐賀藩が日本で一番先進的な技術をもっていました。反射炉をつくり、実際の大砲をたくさんつくり始めます。幕府は大砲をつくる技術をもっていないということは、後ほど出てくる話です。
 大砲をつくる技術も難しいようで、佐賀藩で大砲をつくるよう幕府が依頼しますが、完成した大砲を佐賀藩から船で江戸に運ぶ途中、台風や時化に遭遇したりして、大砲を沈めてしまうという事例があります。さらにお台場にせっかく届いた大砲を砲台に乗せて、試しに撃ってみますと大砲の砲身が爆発してしまいます。ここに火薬をつめて火をつけるわけですが、折れて砲台の堤下に落ちてしまったという事故が当時2件ほどあり、それを書いた絵がいまも残っています。
 それはどうしてかと言うと、鉄を溶かす技術です。大砲をつくるには相当精密に鉄を溶かさないと強い鉄になりません。日本ではあまり鋼をつくるようなすばらしい鉄鉱石がまだ発見されていませんでしたので、日本刀をつくるようなやり方(たたら方式)でしか溶かす技術しかありませんでした。ですからよけいな硫黄分を含んでいて、鉄の強度が十分ではないままに、弾を撃つために火をつけるのですが、砲身が十分な強度をもたないという事例です。そういう事故がけっこう多く発生していました。
 品川台場だけでは十分ではないという議論もありますので、江東区の越中島、中央区の明石町、佃島、いまは埋め立てでどんどん変わってしまいますが、上にあるのが石川島のまだくっついていない南側の埋立地の先に、やはり砲台をつくります。これは正方形に近い形ですが、計画をしている時点では多少凹凸があって、大砲の位置によっては敵が攻めてきたときに、死角をつくらずできるだけ互いに応援できるような位置に大砲を備えたいという考えがありました。それを拡大して考えると第1、第2、第3、それから第4、第5、第6、第7と2列に配置して、お互いの砲台をうまくカバーし合う、大砲によってカバーできる位置を考えたという図面です。一つ一つの砲台の形も違うということが言えるかと思います。
 それから品川から南に下って、いまで言う羽田沖近くまでで、羽田沖もいまの飛行場の前は多摩川の河口ですので川の河口には上流から流れてくる砂などで、浅瀬がずっと広がっています。そういったところにも砲台をつくるということになりますが、ここはたまたま立会川のところに、これは土州台場と言っていますが、土佐藩の屋敷があったところに砲台をつくったと言われていますが、記録でははっきりしません。
 東京市が市の歴史編纂をやっている最中に、こういった図面が見つかりました。図面でみるとだいぶお台場の大砲を乗せる台が崩れてしまい、全体がよくわかりません。ただし土州台場と言われる土佐がここに砲台をつくったことが記録ではわかり、すぐ東側が海岸です。ですから全部石垣で築いたのかどうかも定かではありません。要するに海岸線を全部飛び飛びながら砲台をつくって、江戸の町を守ろうという思想で始まったのです。そういった台場がいくつかありました。(広島、和歌山、福井、鳥取、二本松、鹿児島諸藩など)
・台場構造施設について
 具体的に皆さん興味をおもちかと思いますが、お台場がどのような構造になっていたのかということを、先にお話しさせていただきます。これは品川台場の石垣の断面図です。これは先ほど申し上げました、第2台場がちょうど航路の真ん中にぶつかるので、全部取ってしまうという工事が、昭和三十六、七年あたりに始まり、それが略図風に書かれています。要するに基礎は松丸太を打ち、その上に横木を置いて石を覆う。大型間知石を下から積み上げて、上にはね出しの石が乗っています。
 ここが出っ張っているのは、攻めてきた敵がこの石垣をよじ登って中に入ろうとするときに、はね出しの石で上に上がれないようにするためで、60センチくらい海側に刎ね出しに出した石がずっとつながって周辺に設けられています。これは後ほど第3台場に行ってご覧になるとわかると思います。
 それから海の中につくった構築物ですので、当然波に洗われて弱くなるということで、ここに留張石というか、杭を打って土が流れないように石を入れて、そのうえに平べったい石で亀張り石という石をずっとつなげて、周辺を流れないように工夫しています。
 少し専門的になって興味が少ない方もいらっしゃるかと思いますが。これは港区立の図書館に当時の古い図面が見つかり、いま申し上げたように、ここに杭を打って、太い横木を置いて、その上にこのような大型の見地石を積み上げていくというのが、図面の上に出てきました。おおよそ検討がつくのではないかと思います。同じようにこれは第1、第2、第3の三つの台場のつくり方のようです。基礎杭と横木に大きい石を、下は2段くらい積んで、その上に角度をつけた石を積んでいったようです。ですから大きい石の背後は、すぐ土ではなくて石でとめるように十分固めながらつくっていたということが、こういった図面をご覧いただいておわかりになるかと思います。
 ところが資料というのは、よほど丹念にいろいろな場所で調べてみないとはっきりしません。実はこの図面は船橋の西図書館にあった図面で、これは断面図です。こちらが海側、こちらがお台場の中の方角になります。このように見るとかなり傾斜をつけてつくっています。カタカナでタラフルセと書いてありますが、これは断面だけで判断するとよくわかりませんが、上空から平面図で見ると大砲と大砲の間に土をもった壁をつくります。自分たちの撃った大砲が、先ほども言ったように爆発したりして隣の大砲を撃つ人に破片が飛ばないように、あるいは敵が撃ってきた弾が自分にあたっても、周辺に飛び散ることをとめるような土手を大砲の一門ごとに左右にできていることを表しています。砲台に裏側の土手をつくった中に火薬庫がつくられていくというのが、図面でもはっきり表されています。
 もう少し全体の話をさせていただきます。これも同じように船橋の図面です。私が興味をもったのは、実はタラフルセが2段になって書かれていることです。先ほど見たように、ここは東西南北全部同じような形の断面図になりますが、ここはたぶん計画図だと思いまが、このように2段に構えたお台場というのは、いままで発見されていません。ですからこれも計画の上で、こういうことが可能かどうか検討した図面ではないかと思っています。これが南側になり、ここに一つ大砲を置いて、さらに1段高い場所に大砲を置く。このように二重構えの土手を考えていたのではないかと思います。これは実際にはこのような図面がほかにありませんので、現在残っているお台場で見てもわかりますが、このように一列だけの大砲の陣地のつくり方をしています。
 先ほど土台の話が出たときに、五十盤敷きのように松丸太を打ち込んで、横木を渡しさらに角材を置く形で、いまは電卓その他で計算は簡単になりましたが、当時いわゆる四つ玉や五つ玉のそろばん(算盤)と同じような感じがあるので、多分そろばん敷き土台という名称がついたのではないかと思います。これも発掘したときのもので見ると、あまり釘らしいものを使っていません。木をつなぎ合わせるところも、お互いにこのような切り込みを入れて、うまいつなぎ合わせをやっているという工夫があります。もちろんまったくかすがいを打ってないとは言いませんが、割合につなぎ目の釘や、特に海の中の工事ですので、すぐに錆びてしまうということがあったと思いますが、そのように金具を使うのは割合に少ない工事のやり方ではなかったろうかと思っています。
 図面を見ているうちに気がつきました。第1、第2、第3はみんな同じですが、方角でいうとこれは北側です。これは波止場を書いた絵ですが、ここがお台場の入り口になります。そこに石で積んだ下に、さらに細かに排水溝を2本つくっています。海の中につくったお台場であっても雨が降ることには変わりありません。お台場の中にたくさん降った雨の水をどうするかというと、そのまま放っておけば水浸しになってしまうので、土手の下に溝をつくりそこから深く掘ったところに、埋設の排水溝をつくって台場の外の海の下まで入るように工夫されていました。意外と細かいところまで考えてつくられています。
 先ほど少し見たように、お台場の周辺に木柵みたいなものをご覧いただけたかと思います。この図面が特に注目されるのは、外国から来た交渉団の人たちに付随してきた画家がスケッチしたものが残っていて、エルギン卿遣日使節録に載っている絵です。「江戸の砦」といってお台場という言葉になっていませんが、ここに投げ網で魚を獲る風景があります。
 これはお台場です。お台場の周りには縦にたぶん木柵があります。その中側によくわかりませんが、何かつまっているような感じです。これは木柵でお台場を囲ったのではないかと思います。「陸軍歴史」平面図でも書いてあるお台場とないお台場がありますが、たぶん全部木柵があったのではないかと思います。これは最近発掘した第1台場の遺跡のほうにも、木の杭が残っているのが発見されていて、たしかに木柵をつくったということがわかります。
 木柵の役割ですが、海の中につくった石垣を守るため波から守るというのは亀張りの石の話がさっき出ましたように、波を弱くするための木柵ではないかということです。それ以外に江戸の町の上流から流れてくるゴミが、汚すというか石垣につまったりして非常に具合が悪いということで、たぶんゴミをよけるための木柵ではなかったかという研究もされています。めずらしい図面でもあるわけです。
・埋立設計と予算概要
 皆さんのお手元に入っていると思いますが、お台場の設計および予算概要です。予算概要ですから、そのとおりになったかどうかは疑問ではあります。形状です。先ほどお見せしましたようにお台場の形は6方5割、実際には大まかに言うと6辺で、実際には5割の角度で整理しています。ここに第3台場がありますが、第3台場は先ほど申し上げましたように、南側が直角形になっています。ほかの台場は直角部分を切って、平らな線となっている関係もあって、だいたい6方5割になっています。第3だけが5方5割という設計のようです。
 途中でやめてしまった第7が5方3割ですが、これも印刷の間違いではないかと。このような形が描けるのか。図を描いてみてもなかなかよくわかりません。5方3割という言い方があります。あと第8、第9はみんな5方3割です。
 水中埋め立ての深さですが、1日に満潮干潮が繰り返していますので、満潮水面からどのくらい下まで杭を打つかという標準を表しています。これでお気付きのように第1台場は1丈1尺9寸と、かなり深いところです。あとはだいたい9尺、第5台場が7尺です。砂が上流から非常にたくさん流れてきて堆積したのではないかと想定されます。
 それから立坪です。平面図ではわかりにくいのですが、どのくらいの量を埋め立てに使ったかという数字がここにあります。一番大きいのが2万6000立坪ですから第1台場が一番大きかったと言えると思います。
 予算ですが、幕府直轄ではありません。入札でやっています。計画どおりの金額にはなかなか合いません。ここには落札の金額が書いてあります。日積りというのはおおよその工期、期間です。いつから始まっていつまでに完了しますというための、おおよその目標の日数が書いてあります。短いものだと80日で、突貫工事でやってもずいぶん難しい日程ではないかと思います。これはあくまでも落札金額に対する日程で、後ほどもお話に出ると思いますが、だいぶ工期が延びます。結局思ったより長く日程がかかるということです。海の中でやる工事ですから、いくら調査してみても、現在のようなボーリングのような技術はありませんし、周辺の漁業をやっている人たちの話を聞いたりといろいろやっているようですが、とてもこの日数では収まらないということが、だんだんとわかってきます。
 それからここに書いてあるのは品川町史それから東京市の公園課、それから法務省の芝の出張所、東京府の測量がやっています。なかなかぴったりした数字にはなりません。品川町史と公園課がまあまあです。やはりどうしても測量する技術と、測量しているポイントの置き方によっては、面積がずいぶん変わってくるものだということがわかると思います。
 概要に書いてあるのは請負人です。入札をしましたので平内大隅という大工の棟梁が、第1、第2、第3台場と一番難しいところを担当しました。それから勘定御用達の岡田次助が第4、第5で、そして第6台場がまた平内です。そして第7台場が先ほどの岡田です。御殿山の下のほうは、それぞれ地元の年寄などが落札してやったわけです。大まかにいうとこのような段取りがあって、着工を始めたということです。







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