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・世界の動向と幕府の対応
 時間が迫ってきましたので、レジュメのほうで補足させていただきます。レジュメの1番ですが、時代的背景と申しても、だいたい1800年以降、19世紀の初め頃になると、諸外国がそれぞれの国に向かって、貿易なりあるいは自分の領土拡張のために貿易をやろうというかたちを取りながら、領土拡張の意識を捨てきれなかったということが言えるのではないかと思います。
 日本はそういう意味で、貿易というと、前回片桐先生のお話にも出てきたと思いますが、オランダと中国とも仲良くしていたわけで、それ以外のよその国とはまだ貿易をやっていません。オランダはそういう面でいうと、とても紳士的で、オランダも実は貿易をやるために日本にいい印象を与えようと、いろいろな策を取っていたと思います。幕府も決してほかの国と貿易をやらないというのではありませんが、一応徳川家の祖法というか、家康が考えたような国のやり方というか、貿易産業をさほど評価していないというわけではありませんが、積極的に何でもやるというほど手を入れなかった、慎重派であったという感じもしています。豊臣秀吉のように、隣国の朝鮮を攻めて、自分の国の力を示そうというのとは少し違った将軍ではなかったのではないと思われます。
 一方、家康も外国と付き合うことも決して悪いと思っていたわけではないと思いますが、まず貿易をやることに、当時京都におられる天子様、天皇の考えは、外国との付き合いを必ずしも好んでいなかったというのが、極端に表れる幕末の話になっています。本来日本のように資源の少ない国であればこそ、諸外国と手を取り合って貿易をやりながら、お互いに少ない資源を大事にして、相手の国も儲け、自分の国も儲けようという形が望ましいわけですが、まだ日本では幕府存続のために、大きい船をつくることを禁止してまで、幕府を維持しようという考えが根強くあったと思います。ですから幕末になって外国からどんどん船が来てからも、やっと大きい船をつくることを認めました(嘉永6年(1853)9月)。その時点になって船をつくる技術は十分ではありませんから、諸外国から大きい軍艦を買うという事態になってしまったのです。
 ヨーロッパ関係の学問、オランダから新しいニュース、「別段風説書」という情報を幕府はもらっていますが、これは関係の深い老中くらいまでは、多分ニュースとして流れていたはずですが、それ以外、徳川御三家の尾張、紀伊、水戸などの有力な大名にも、ある程度情報は流れていたとは思いますが、なかなか幕府自体の対応が取れていないということではなかったかと思います。
 すばらしいヨーロッパの医者の技術、医学の関心事は、日本でも中国と長い付き合いの中で漢方医学その他でも、やはりヨーロッパ系統の医学のほうが進んでいることは日本人としてもよく理解したのではないかと思います。したがって、医学を中心としたヨーロッパ関係の学問にも、非常に関心をもってみんな長崎に勉強に行きました。ところが事情が変わって、幕末になってとてもそれでは追いつかないということがだんだんわかってきました。医学から今度は軍事学というか、武器、防衛のための学問、あるいは攻撃するための武器の製造ということに関心が移っていきました。医学をやっている人たちも蘭学から、そういったものをだんだんと学んできたということがいえると思います。
 先ほど申し上げた品川台場についても、蘭学から読み取ってこういう防衛線をつくるということでしたが、いかんせん幕府の財政状況から言っても、とてもそれほどのものをつくる余裕がないということで、当初韮山の代官の江川太郎左衛門が11個のお台場をつくるという提案を出していましたが、結局7基まで減らされ、さらに財政が逼迫すると、第4と第7台場の工事を中止してしまったという状況もあります。
 最終的には全国から献金をもらって台場の経費に充てようということになりました。御用金、要するに幕府に献金してくださいということをお願いするというか、逆に命令に近いものです。幕府の代官に声をかけて、各地方ごとに献金を募ります。お台場の決算でいくと、だいたい76万両かかったとなっていますが、献金のほうで見てみると95万両くらいの献金が出て、それで何とか賄うことができたのではないかと思われますが、実は江戸城で火災が起きてしまい、西の丸の修復も急がなければならないということで、まだまだ金が足りない。
 それで結局小判の改鋳をやります。要するに金の含有量をどんどん減らして、悪いお金を通用するには評価が低くなりますが、改鋳によって浮いた金を収入とするというようなことを何回も始めます。ですから小判の価値がだんだん下がってきて、一方で物価がだんだん上がってくるという事態がやってきます。
・明治以降の品川台場
 明治以降の品川台場ですが、明治の新政府になってから日本を守る軍隊は陸軍と海軍ですが、海軍のほうが先にオランダの協力を得て、長崎に海軍の操練所をつくり、オランダの協力を得て海軍が先にスタートしています。海軍と陸軍ではそれぞれ採用する国が違うということがあり、第二次世界大戦でも、なかなか陸軍と海軍が協力的ではないという歴史家の批評などもあるようです。海軍はイギリス方式をとる、陸軍はヨーロッパでもドイツ系といった関係の方式をとるということで、少し考え方が違っていたようです。
 そうは言っても、明治政府は諸外国に劣らないように、一生懸命国を建て直そうとしていきます。明治に入ってからも「お雇い外国人」という言葉がありますが、先進国から指導する教師をどんどんと入れて、だいたい3年から長い人で5年くらい日本に滞在していますが、そういう教師の指導を受けながら近代化へ向けてスタートしていきます。
 このお台場はどうしたかというと、全部同じように海軍なり陸軍の支配下ではなくて、やはり海にある施設ということで、一部海軍、一部陸軍というところに移管されます。後にそれを所管する東京市、最終的には東京都になりますが、東京市に譲り、あるいは民間に払い下げをするという事態になっていきます。
 さっきお台場の大砲の話になりましたが、お台場をつくっても大砲がなければとても戦いになりません。大砲技術の先進藩は、国内で言えば佐賀藩、あるいは鹿児島・薩摩藩です。それから一部山口県萩藩のほうでもやりましたし、茨城・水戸藩もやりました。実は皆さんの頭の中に、いま日本が鉄鋼業も具合が悪くなっているという話があります。関係の方がいらっしゃっては申し訳ありませんが、要するに鉄鉱石を溶かす技術、反射炉から高炉、熱が高くて鉄鉱石から鉄を取る技術をもつ大島高任という南部藩の研究者がいました。水戸藩の反射炉築造にも協力しましたが、釜石から出る鉄鉱石が優秀だということで、釜石に反射炉を5カ所で10基をつくりました。
 そういうことから、近代化のほうに少しずつ踏み出したということが言えると思います。全体に言えば、国力をつけるための研究というのが、総合的なものでなければなかなか諸外国に太刀打ちできないのではないか。まず相手が殴ってきたら殴り返すぐらいのこと、少なくてもそういう意地を見せることが、品川台場であったのかという感じがします。
 常に自分の国のことだけを考えないで、世界の動きということを意識していかないと、自分の国だけが平和であればそれでいいやというのも一つの考え方であろうかと思いますが、危機管理、国家の危機管理という意識が幕府にもっと強くあってほしかったと思います。
 それはせっかくオランダが仲良くやりましょうと言ってきたり、あるいはペリーが間もなく日本に行きますという情報が流れても、対応できないままにペリーがやってきて結局は修好条約を締結します。その時点でも、京都におられた天皇が反対していて、すったもんだ国内問題が起きて、なかなか幕府が考えているとおりにはいかない事態になってしまった。
 そういうことが時代の流れにありましたが、一つはお台場をつくっている最中でも東京湾にいる漁民の人たちも、日常生活でお台場をつくるのに泥を流したり、音が出たりということによって漁獲量が減ると、権力のある強い幕府の意思があるにもかかわらず、自分たちの生活を守るために、きちんと代官に文句を言いに行った度胸があったということは、生活の強さではないかということを一面として見ることができます。
 同じように大正から昭和に入っても、東京沿岸にある海苔・しび、あるいはそういった魚介類の収穫で生活している漁民の人たちも、漁業権と権利の放棄についても反対というか意識を非常に強くもって、計画を行っている東京府、東京市に対して陳情、請願をやっています。
 昭和39年に東京オリンピックをやることについても、東京都内の大改造は東京港においても影響し、急いで港湾整備する必要が生じたのです。漁業関係者を説得して漁業権を東京都が買い上げるということになり、その原因は、その時点で非常に東京の港に貨物が集中してきたこと、「船混み」という現象が発生し、船が貨物を積んできても東京港で下ろすことができない。1カ月も船を止めたままでどうしてくれるんだということになり、早く港の整備を一生懸命やらないといけないわけですが、それをやることは当然大田・品川のほうに、ずっと海苔を養殖している人たちの生活にも関連してくるということが起きてきます。
 したがって行政が何かやる場合でも、そういうことを現代で言えば、環境アセスとよく言われるように、事前調査が十分でないままに、何しろドタバタで片付けなければ仕事が進まないという風潮が、当時もあったのだろうと思います。
 皆さん、今日はレインボーブリッジを渡って来られたと思いますが、レインボーブリッジをつくるときも、第3台場と第6台場の近くに橋をかけるということで、橋の脚をつくるときもアセスを実施しなければいけないということで、十分な調査を3年かかってやっています。お台場の石垣がずれたり、崩れたりということを観測する観測所も、10年間継続で観測するという協定で、レインボーブリッジの橋脚の工事をやることについても十分注意を払っていたのです。
 話があちこち飛びますが、そうはいってもすでに幕府だけが江戸を守る、むしろ日本を守るという意識をもたないと、貿易まで進んでいかないのではないかと思います。江戸の市民もずいぶん心配しているわけです。ところが外国人が黒船で来るということは、ニュースを流さなかったので江戸の市民は知りません。幕府のお偉いさんだけが、そういうニュースをもっていますが、それで対策をとったかというと十分でない。船をつくる、大砲をつくるということさえ、幕府自身ができないでいました。
 それで大砲は佐賀藩のほうにつくってくれと頼むくらいで、江戸を守るためにお台場をつくった。戦争にならなかったからよかったのですが、これでもしドンパチの戦争が始まったら、本当に江戸を守ることができたかと言うと、武力の力が全然違いますから言いようがない。たとえば大砲で撃たれたら、4000メートル、5000メートル大砲に対抗するわが大砲が、36ポンドといくら大きい大砲であっても、弾は破裂しません。鉄の弾を撃つだけですから、ぶつかったところがへこむくらいです。木だったら折れるくらいの話で爆発はありません。それはまったく武力の相違がわからないままにやっているという面もあったかもしれませんが、相手がどの位の武力を保有しているかを知るということがまず大事ではなかったかと思います。
 そういう面で言うと、危機管理を行う政治をやる為政者、実際に実行する立場にいる人たちが、もっと真剣に考えるべきではなかったかと思います。幸い外国と戦争をせずに明治政府が成立して近代国家をつくり始めましたが、その意味では外国の知恵者、学者の協力を得て、外国人の力を借りて世界に伍していけるような下地をつくることができたのは幸いだったと思っています。ですから何を見ても武力ばかりではなくて、科学においても、医学においてもそうですし、文化についてもあらゆる国から秀れた先生を呼んで、早く勉強に取り組んだ成果であっただろうと思います。
 しかしこの品川台場をつくったことで、日本を救えたかというと何とも言いようがありませんが、本当に日本を攻めて取ってしまうという国があったとすると、意外とわけなくやられてしまったかもしれません。
 時間がきたようです。質問の時間を10分くらいということです。話があちこちに飛んで申し訳ありませんでした。ただ皆さん今日お帰りになる際に、時間に余裕がある方は、第3台場のほうまで歩かれてご覧いただくか、あるいはゆりかもめが通っているレインボーブリッジの側道を徒歩で歩けますので、芝浦のほうに歩いていただいてもよく上から見ることができると思います。
 話が雑駁で申し訳ありませんでしたが、まず地元の歴史の中で何が大事だったかを強調したかったものですから、話があちこちになりました。お台場のほうがいいのか、品川台場のほうがいいのか。どうもお台場と言ったほうがあたりがいいのかと。ゆりかもめの駅でもお台場といったり、お台場海浜公園と言ったり、ただお台場と言ったりいろいろとあるようですが、意味はそういうことです。もし企業が手を挙げて俺に任せろと言ったら、「御」の字はつかなかったのだろうと思います。幕府の仕事として、江戸市民を守るんだという意識があったのでしょうか。幕府は一生懸命力を尽くしたということです。
 評価はいろいろあります。一生懸命やった勝海舟などは、明治になってから言葉は悪いですが、台場築造は江戸の市民を安心させるためにつくったんだということです。たぶん戦いになれば負けるだろうということはわかっていたけれども、つくるということで江戸市民を安心させる。それも一つの政治のやり方かもしれません。
 話はここで終わりにさせていただきます。質問があればお受けいたします。







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