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 どういうことを言っているかというと、ちょっと長いのですが、「北アメリカ合衆国は諸国の通商いたしきたり。その土民の噂には日本へは交易に参る所存これある由、右風説の趣、渡来の阿蘭陀ども探索仕らせ候ところ」、ここでよくわかりますね、オランダに探索させた、長崎のオランダ商館のオランダ人たちに探索させたという言い方をしています。ということは、当然、幕府の司令を受けて、長崎奉行経由で、オランダ通詞、通訳官を通じて、オランダ商館、カピタンに、この件はどうですかということを、根掘り葉掘り聞かせたということがこれでわかるのです。
 そうするとどうなったかというと、「物咄にはアメリカ州日本へ商売志願これあり。かの国人蘭人どもへ噂これあり」、話した。どういうことかというと、「折節には日本商売昔と違い減銅」、銅が少なくなった。日本は銅の生産国ですから、「商益も薄き趣、粗々噂におよび候へば、ただ自国商法の害になるべきことを厭い、かたちよく妨言かまへ候ように心得、なお疑念を生し好ましき所存の由、追い追いは右願いの渡来もこれあるべく。アメリカ一州お聞き届けになり候はば」、そのあたりからなかなか重要なことが書いてあります。
 「エゲレスも」、イギリスですね、「同様願うべきかエゲレス国は日本への槎通り一体」、その次に何といっているかというと、「悪しく」、悪いやつだといっているのですが、「悪しく心得、まずアメリカの成行を考え事を計り候や、と蘭人ども」、オランダ人どもがですね、「物咄しいたし候ゆえ、たといいかようしいて願い候とも、唐」、中国と、「阿蘭陀のほかは外国商売さし免は」、お許しは、「これ無きしきたり」、ずっと鎖国を守ってきているわけです。「この上御免はこれあるまじくと通商ども噂におよび候へば、さ候はば究めて末々日本の内、いずれこれの噂には出掛け、自然密売買の手段におよび候も、計りがたきとの趣、切に風説仕り候よしに候」。こういう具合にいっています。
 これの勘所を拾ってみると、イギリスが同じように狙ってくるというのは、日本としては非常に警戒している。何しろそういう前歴がありますから、日本としてはこの段階では非常に頭を悩ませて、嫌っている。「悪いやつだ」とはっきりいっています。けれど嘉永3年のペリーが来る段階の前では、まあ、「許可されないでしょう」というような心持でいたようです。しかし皆さん方がご承知のように、結果的にはそうはいかなかったわけです。
 いま読み上げたのは、入ってきたニュースのとおり、萩原という人が書き出したわけです。これに対する意見、どういう具合に感じたかということが、その次の最後に書いてある3行です。「右は当節入津の阿蘭陀人ども風説探索仕り候」、先ほども言いましたように、調べさせた、探索したわけです。そうしたら、「書面の趣、承りおよび申し候」、いま読んだようなことがわかった。「この段」、いまここに書きましたように、「御内含みまでお聴きに入り奉り候」、一番最後に小さい字で書いてありますが、この人は長崎奉行の手附、長崎奉行所の下っ端役人でした。こういう人を使って、奉行さんはオランダ側に探索させたことがこれでわかる。
 そういう人が、「お内含みまでに」報告したというのは、誰に報告したのか、当然、自分の上役である長崎奉行に報告したということです。長崎奉行に報告すれば、誰に報告することになりますか。これは中央政府である江戸幕府の老中に報告するということです。長崎奉行の上役は老中です。そういう系統がスーッとわかってくるわけです。だから幕府の中枢に、このニュースが入っていたことがわかるわけです。ペリーの動向、アメリカの動向はこういうかたちでわかっていたということです。
 「当時空き中のところ」、これを見ると、ちょうど奉行さんがお留守だったのですね。だから奉行どころではなく、おそらくダイレクトに江戸に報告がいったのだと思います。「家中取締まりまかりあり、市中そのほかこの節至って静謐に御座候」、「平穏に御座候」といっていますが、こういう具合に、3年前にアメリカの動向はすでに入っていて、それに対して幕府は何の反応も示さなかったのではなく、いまいったように、どぎつく反応を示していたということがわかると思います。
 その次、最後の6枚目を大急ぎで見たいと思います。これはいよいよ嘉永5年、ペリーがやって来る前の年のペリー情報です。これは嘉永5年の、やはり別段風説書で、司天台訳、これも阿部老中の家にある写本です。阿部老中のところにダイレクトに入っていたニュースと見ていいと思います。
 これを見ると、やはり長いニュースですが、勘所だけピックアップしてまいりましたのが上の段の、司天台訳のニュースです。これをみんな読んでいると時間がありませんが、勘所を申し上げますと、日本と交易を取り結びたいというのです。取り結びたいというのだから、条約を結びたい気持ちでやって来ることがここでわかります。「交易を取り結ばんため」と書いていますが、「ご当国へ参り申すべき」といっています。
 それからもう少しいくと、「この使節は北亜米利加の人民の交易のため」、その次何といったかというと、「日本の一、二の港へ出入りするを許されん事を願」、一つか二つの港を開港してほしいという気持ちで来るということがこれでわかります。それは何のためかというと、その次にはっきり書いていますが、対中国貿易の中間として、石炭の置き場所を確保したいということです。
 そしてどういう船ですでに準備しているかというのは、そこに、一つ、何々ということで書いてあります。発音が悪くてもこの際どうでもいいということですが、“シュスケハンナ”、“サラトガ”、“プリモウト”、“シントスマリス”、“ハンダリア”といった名前の船が5艘もきているということです。蒸気船、フレガットでブリック船だとか、コルヘット船だとか、船の形もここで確認しています。
 さらには、そのあと四つの船が書いてあります。“ミスシッピ”、“プリンセトウン”、“ペルリ”、“シュップリ”とありますが、こういうものが追いかけているということです。だから嘉永3年の2隻などという段階ではなく、こういう船で来るのではないかということが生々しく報じられています。ただし、いま言いましたように、これは実際は前年の情報です。
 そして最後にこう書いてあります。「但し四月下旬より前には開帆仕りまじく」、つまり中国からこちらのほうには回って来ないだろうということですが、こういう具合に少しほっとしているのでしょうか。そのような段階です。でも、何べんも言いますように、一国を背負っている責任者、若き老中筆頭の阿部としては、それは大変なプレッシャーだったと思います。したがいまして、彼はここで従来のシステムを破って、どういう挙に現れたかというと、主要なる、これはと思う大名に、これをこっそり伝えたのです。それが真ん中の<2>です。これは薩摩の殿様に伝わった書類です。
 「当子年阿蘭陀別段風説書の内」、だから抜粋してアメリカ関係の点だけをピックアップして知らせてあるのです。3カ条目でしょうか、「ここにまた一説これあり候」というので、北アメリカうんぬんといって、上に伝わったようなことが、ここにそっくり書き写されています。だから有力大名に伝えられた、内報されたということです。
 どうしてこういうことを伝えたのかということが大問題ですが、6カ条目でしょうか、これにもやはり「日本の港の内二、三」、上では「一、二」と書いてありまして、一つずつ増えています。増やしてあげなくてもよさそうなものだと思いますが、それはともかく、そういう具合に相手の動きを的確に伝えています。そして最後のあたりで「ペルレイ」と人名もきちんと出していて、船の名前も列挙していますから、はっきりしています。
 それでいま言いましたように、阿部老中はどういうために伝えたかというのは、2段目の真ん中あたりからうしろのほうに、阿部自身の意見がついています。客観的な情報をピックアップして伝えるとともに、意見を伝えている。「右の通り」というところからは、阿部自身の老中の意見です。何といっているかというと、「右の通り風説にこれあり候、とりとめ候儀も相聞こえず候えども」、ややこしい言い方をしていますが、難しい問題は、お役人さんはややこしい表現をしますね。「兼ねて風説書きの儀につきては、申し聞かれ候趣もこれあり候間、心得として」、だから心得として知らせますといっているわけです。
 それでは知らされたほうに、どうしてほしいといっているのかという気持ちですが、「右の趣密々」、秘密に、「心得として」というのですから、知っておくようにといっているのですが、「申し達し候」、そういう気持ちで知らせる、「世上へ流布致し候ては」、世間一般に知らせては「人気にもかかわる」、つまり日本の人民、国民がワーワー騒ぐ、やたら無駄に騒ぐのはいけないという言い方をして待ったをかけています。そういいながらも、さらにそのうしろで、「お備え向きの儀は、ずいぶん油断なく」、一生懸命しなさいということをいっています。情報は漏らすな、しかし準備は密かにしっかりしなさいと指示しているわけです。言葉を全部読み上げる時間はございませんが、要点はそのようなことになります。
 そして翌年、6月3日にいよいよやって来ました。そうすると、思っているとおりにいかないわけです。そのあとどうなったかということは、皆さん方はご承知だと思います。日本はやがて押されて、国書は受け取ることになりましたし、本当は長崎に回ってほしいというのですが、聞く耳などは持たない、ドーンと空砲一発撃ったら、すごい音ですから、みんな震え上がってしまって、結局受け取ることになった。やがては後に条約を結ぶことになりました。さらに1年あとの嘉永7年3月に神奈川条約を結びました。
 そのページの左下の<3>、<4>、<5>はどういう書類か。現在、横浜の神奈川県立博物館で「黒船」という、とても立派な展覧会をやっていますが、まだやっていますか、そろそろ終わりでしょうか、そこに出ているたくさんの黒船、ペリー関係の資料は画期的で、私もさっそく見に行って、学芸員さんに説明をしてもらって、ゆっくりと見てきましたが、あのたくさんある高度の展示物ですが、その中で、ここに引用したこれが目玉商品です。何といってもこれが、神奈川の展覧会の見どころです。
 これはどういうものかというと、短いところですから少しだけご披露しますと、これは「当秋阿蘭陀船より差し出し候別段風説書和解二冊、差し進め候間、心得として」、またここでも心得として、次は字が小さくて見えませんが、要するに見ておくようにということでこれを送りましたということです。というのは別段風説書の内容を送ったということです。
 4番目は、「当秋阿蘭陀船より差し出し候別段風説書和解二冊、心得として御渡し成しくだされ、今日、羽州大久保駅旅中において」、旅の途中ですね、「相達し、拝見いたし、御意を得たてまつり候」、受け取って拝見しましたということで、これは受取状です。誰がというのは、津軽のお殿様です。江戸に向かっている参勤交代の途中です。考えてみてください、参勤交代というのはどこに行く旅行でしょうか。江戸に向かっている旅行です。もう少し待っていたら、こんなことをしなくても手渡すことができるのに、こちらに向かっていることがわかっているのに送っているということは、これはいかに急いでいるかということがわかるわけです。
 そして受け取りの下書きを書いたものだから、急いでいたのか、字を一つ落として、あとで書き足していますね。だからいかに、送っているほうも急いでいるし、受け取ったほうも慌てているかということが、これでよくわかります。
 ただし5番目は、それを両方包んでおいたものです。おそらく風説書の内容そのものももう1枚あったはずだと思いますが、そういうものを全部ひっくるめて、5番目で包紙にして、いま保存してあるというものです。この日付を見ると、嘉永5年ではなく、翌年の6年の日付になっていますので、やはりこの段階でも阿部の老中はオランダ情報、別段風説書というものによって、対外関係のことを非常に一生懸命に考えて、指示をしている、対策を講じているということがよくわかるわけです。そういいますのも、ペリーが来て直後に、日本としては、後には箱館も開港しますから、政治の責任者としては北のほうの関係の対応を、十分よく考え、視野に入れていることがここでよくわかります。
 こういう調子で、結局どうしたかというと、日本は軍備の差がこんなにある、一番最初に申し上げましたように喧嘩にならないわけです。そういうときにどうするか、無駄な抵抗をして国を滅ぼすという道はとらなかった。のろいなどといわれるけれど、日本は平和外交に徹して国を救ったのです。そこを読み取らなければいけない。このようなわけで、ちょうど時間になりました。あとはどうなったかというのは、後の講師の先生方の、6回のお話に続いていくのだろうと思います。今日の私に与えられた題については以上で、「知っていました」というお話でした。(拍手)







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