日本財団 図書館


 もう一つ大事なことは、その挨拶のあとで何をしたかということで、この3ページの左下のような書類、「御條目」というものを読み聞かせるわけです。読み聞かせるといっても老中がやるわけですから、候文の日本語で立派に言い渡す。そうするとそれを、オランダ通詞、通訳がオランダ語に直して、そしてカピタンさんが、ありがとうございます、守りますという返事をオランダ語でするのでしょうから、それをまた通訳が日本語に直して、老中に申し上げて、儀式が終わりということです。
 この「御條目」に非常に重要なことが書いてあるわけです。この「御條目」は日本に残っておりませんで、これはロンドンのケンペル・コレクションから取ってきているわけですが、五カ条からなっています。今日はこの五カ条を読んでいる暇はありませんが、大雑把にいうと、キリスト教徒を乗せてきたり、それを日本に伝えてはいけない、これを守りなさいということですが、これは当然だと思います。
 それと同時に、南蛮の人たちの海外における動向、日本に来たがっているといった動き、それからまたオランダが、当時はインドネシアの首都、ジャカルタを占領してバタビアという本拠地にしていますが、その周りに三十数カ所の支店を持っていたわけですが、そういう範囲内において接触したキリスト教国の人の動向もキャッチして、そういう情報を、毎年日本に入港するときに、長崎の奉行に通報しなさいということです。そういうことを守ることによって、独占貿易を許可する。
 それから第3カ条目と第5カ条目で、第3カ条目はたった1行で短いですが、中国船を拿捕してはいけないということです。これは日本と通商国だからです。第5カ条目では琉球船を拿捕してはいけない。これは文章に書いてありますが、琉球は日本の手下、つまり支配下になっているのだから、この船は拿捕してはいけないというふうに保護規定をしています。そういうことを言い渡した。
 それを守ることによって、日蘭貿易の継続を許可するということです。こういうシステムでもって海外の情報を取ったということがわかります。だからわかってみると、毎年毎年これを読み聞かせて、情報を提出せよといっていたのです。そしてその扱い方は、先ほど申したように非常に厳重を極めていて、それをスピーディに誰よりも早く取ろうとしたのが幕府のオランダ情報入手の態度で、それを重要視したシステムでした。
 そういう事柄の最も典型的な例を、4枚目の一番上に一つ載せてあります。「一つ載せてあります」と言いましたが、これは先ほど申しましたように、出島で最後に清書して、そして時のオランダ商館長がサインして、そして通訳にあたったオランダ通詞が全員責任を表明して、署名を加えている原本そのものです。これは地球上にこれ一つしかありません。あとはみんな写本、写しでしか残っていない。写しは何百とありますが、オリジナル、原本はこれ一つです。
 これは寛政9年、1798年の場合ですが、こともあろうにオークションに出ました。私はびっくり仰天して、いい意味で手を回して、これを江戸東京博物館に買ってもらいました。江戸東京博物館は、最初は複製を展示していまして、普段は複製を展示していますが、特別展のようなときにはオリジナルを出すことができまして、三、四年前にこれが文化財として指定されることになりました。江戸東京博物館における一番の目玉商品というか宝物がこれです。これ1枚です。もちろん宝物はたくさんありますが、これは江戸東京博物館では非常に大事にしているものです。
 この場合はカピタンのヘースベルト・ヘミーという人がサインしています。普通ですと、去年からいたカピタンさんと、新しく船でやって来たカピタンさんの、新カピタン、古カピタンが2人でサインをするのですが、この年は新しいカピタンさんが乗って来なかったものですから、前の年からいたヘミーというカピタンさんが1人だけサインをしております。通詞は通詞目付の三嶋五郎兵衛が最初で、通詞は8人いますが、最初の4人が大通詞、あとの4人が小通詞です。これが定員です。そういうことがわかると、正式通詞が全員で、海外情報であるニュースの翻訳にあたって、責任を表明していることが、よくおわかりいただけると思います。
 何べんも繰り返しますように、これは地球上で唯一の風説書の原本、「Nieuws」です。長い文でありますが、ヨーロッパにおいて、ちょうどフランス革命のあとなものですから、フランス革命の様子がこういう具合に報じられたのです。今日は時間の関係で全部読み上げているわけにはいきませんが、最初の第1条が、この船はカルパ、つまりジャカルタを何月何日に出てきた、それで今日着いた、第2カ条目は、去年の船は何日にむこうに無事着いたかということで、これは決まり文句のようなものが書いてあります。それか3カ条目と4カ条目が、特別の、その年その年の、ヨーロッパ、アジアにおける生々しいニュースが盛り込まれているというのが風説書、海外ニュースであったわけです。こういうシステムで、江戸時代ずっと二百何年やってきたわけです。
 そうしますと、このとおり行われていればいいわけですが、皆さん方はすぐお気づきだと思います。一つの制度というか一つのシステムがずっと同じように続くとどうなるかということは、もうおわかりですね。どうしても形式的に、おざなりになってしまうのです。要するに、雑な言い方をするとマンネリになってしまう。そうなると簡略になる。要するに省略されてしまう。簡単にものになる。
 この寛政9年の場合はこれだけ詳しいようですが、実はこの前後、ほかの年はえらく簡単だったのです。幕末になってくるに従って、どんどん簡略になって、三行半とまではいきませんが非常に、こんなもので世界情勢がわかるかしらと思うくらい簡単になってしまう。だから私に言わせると、これは入港手続きの一つとしてずっと行いはしましたが、しかしあまり役に立たなくなったということです。
 そういうところに、実は大変な事件が日本のすぐそばで起きたわけです。1840年から42年にかけて、日本が仰天するような事件がすぐ近くで起きた。それは中国において、日本は古代から父親とも兄貴とも思ってきた中国文明、これを受けて日本の文化が成り立ってきた、あのお手本にしていた中国が、こともあろうに何隻かの船のために国が負けたという事件が起こる。アヘン戦争です。
 有名な図で、4ページの左下の、東洋文庫がお持ちになっているものですが、アヘン戦争の話が出てくると、どの本にもこの図が載りますから、皆さんもよくご存知だと思います。真ん中にいる、そのときの老中筆頭の水野忠邦とか、左側の、老中の中で海防係担当の土井利位、その右の正装をしている、家老さんの鷹見泉石が大変ショックを受けていることがよくわかります。これは日本にとって非常に大きなショックであったわけです。
 そこでどうなったかというと、いまの形式化した簡単なニュースではとても間に合わないということで、改めてこの戦争はどんな具合に起きて、どんな経過をたどって行われたか、とにかく身近な戦争ですから、その特別なニュースがほしかった。そこで従来のニュースは、先ほどから言っているような風説書で頼りにならないとすると、アヘン戦争の詳しい特別なニュースが必要で、「アパルトニュース」というものを提出してもらいました。
 これを通訳が訳して何といったかというと、「別段風説書」といいました。通常の風説書をとりあえずの至急便で取ると同時に、せいぜい二、三日のうちに詳しい情報を追加して提出させた。
 最初のこのアヘン戦争の「Nieuws」などを私が調べてみると、百何十項目にわたって戦争の経過がずっと書いてあるのです。ちょうどイラクの戦争の状況がテレビで刻々と映されたと同じように伝えられたのです。それが「別段風説書」です。これは1838年ぐらいからの分が、40年ぐらいから入ってきています。
 この戦争が終わっても、世界情勢がだんだんおかしくなっていき、日本を取り巻く環境も、異国船が北にも現れる、東にも南にも現れるというので、不穏な状態になってきますから、これはやはり戦争のニュースだけではなく、そのほかの世界のニュースも続けて出してほしいということをオランダ側に要請して、「別段風説書」はアヘン戦争が終わったあともずっと継続して提出されるようになります。したがって、船が入ったときには通常の風説書を出させて、追いかけるようにして詳しい別段風説書を、この後はずっと幕末に至るまで出させていたというわけです。
 そういう流れの中で、ペリー情報がオランダから伝わったということを、5枚目のところでご説明申し上げたいと思います。したがって、しばらく前まで日本は何も知らないところで、平和が続いていたところにペリーが急に来たものですから、大慌てで、何もできなくて、どうもしませんでしたというような言い方がよく行われましたが、そんなことはありません。
 どんな研究会でも、大学でも、博物館でもそうです、国全体でもそうですが、トップに立つ人というのは非常に責任が重く、悩むものです。孤独です。誰も手伝えない。けれど決断を求められます。批判するのは勝手ですが、その立場に立ってごらんなさい。大変なものです。この不景気な世の中に、大学を運営する学長は大変です。博物館の館長さんもそうだと思います。一国の首相もそうです。それと同じことが、ペリーが来たときにもいえます。
 時の老中筆頭は阿部伊勢守正弘、若い青年老中筆頭です。そういう意味ではなかなか元気のある有能な人でしたから、日本はよかったと思います。ペリーがやって来たことは皆さんよくご存知です。嘉永6年、1853年6月3日、ペリーが東インド艦隊司令長官として4隻の船で浦賀に入ってきた。「たった四杯で夜もねむられず」といったあれです。それはわかっていますが、その嘉永6年より3年も前の嘉永3年、5ページ目の上のほうの<1>、<2>と書いてありますが、これは嘉永3年の、いま言った「阿蘭陀別段風説書」、アパルトニュースです。これは長いニュースです。先ほど言ったように何十項目にもわたっていますが、ペリー関係のさわりのところを私がここへちょっと載せておきました。
 <1>の右のほうは長崎で翻訳している訳文です。左のほうは、少し字が不鮮明でわかりにくいと思いますが、司天台訳と書いてあります。これは天文台です。江戸時代、天文台は、もちろん星も観察し、暦も作りますが、同時に外国文献を扱うところでした。だからこの時代になると蘭学が発達していますから、オランダ語のできる人が、長崎にも江戸にもいるということです。
 ただし江戸の訳はやはり不十分なところがある。たとえば内容的な問題ではないけれど、上の<1>の場合は、「古かぴたん よふせふ へんりい れひそん」、それから「新かひたん ふれでれつき こるねへりす ろふせ」と書いてある。ロフセというのが横文字のサイン、オランダ語でパパッと書いてしまったらしくて、長崎の通詞はこのように翻訳していますが、左のほうを見てください。江戸の蘭学者はカタカナで「レヒソン」と書いていますが、もう1人のほうが読めなかった。だから「某」と書いてあるだけです。そういう具合に、わからなかった。
 こういう内容以前の問題はともかくとして、ここでは長崎訳と江戸訳があるということを見てください。それでこれを見ると、「北アメリカ」合衆国は諸国と通商をいたし来たり」、アメリカはいろいろな国と通商をしている、そして「その土民の噂にては」、ここからが大事ですが、「日本へ交易に参り候所存、これある趣に、これあり候」。日本に通商のために来たがっているのだそうですということです。それから一つ間を置いて、「一つ、北「アメリカ」州のうち、ヱギリス領「カナダ」に於て、昨春、騒動これあり候得共」、けれど静かになったといっています。
 このようなものが、左のほうの江戸の訳ではどうなっているかというと、2行目をご覧いただきますと、「合衆国の北亜米利加人は全世界に航海して弘く交易を為すことを勤る内、近日の風聞に据れば日本にも到りて交易を為すの所存ありと云へり」、意味として、内容的には同じことですが、こういう具合にして、異なる訳文のニュースが入ってきた。
 特に細かいことを申し上げると、左のほうの司天台訳のほうの写本はどこの家に伝わったものかというと、実はこの阿部老中の家に伝わったものです。ですから阿部老中のもとに、きちんとこういうニュースが入っていたことがわかります。それで、これはペリー関係のアメリカ情報のほんのわずかなところだけをピックアップしましたが、実はそのオランダ語訳のそのほかのところには、先ほどから言っているように、別段風説書の項目数が非常に多い。
 たとえば、右下の<3>をご覧ください。ここは、見てみるとインドのあたりや東国の海、つまり中国の海のあたりに何がいるかということ、イギリス海軍がこれぐらいいるというリストが紹介されているのです。こんなに軍艦が来ています。先ほどのアヘン戦争でびっくりして、その前のフェートン号事件で恐れおののいて、次はどこかと考えたときにこういうニュースが入ってきたら、どう思いますか。阿部老中は一国の責任者として、どう思うでしょうか。
 4番目に、そのときのアメリカの軍艦のリストも出ています。アメリカ海軍として2行にわたっています。中国あたりにいるアメリカ軍です。それと同じようなことが、オランダ海軍としては<5>に1行書いてあります。数と力関係において、これぐらいのニュースがもう入ってきている。それと先ほど言った、アメリカが日本に来たがっているということを併せて考えたときに、どういう具合に思うでしょうか。これは大きなショックでした。
 それでもこんなニュースが入っても、何も思わなければしょうがないと言われればしょうがないですが、思ったという証拠を挙げます。これは、こういう方面の研究者はまだ誰も使っていない、今日、本邦初公開の資料で、惜しげもなくご披露したいと思いますが、6番目です。これを見て、私はショックを受けました。萩原又作という者が言上しているわけです。上言と書いてあります。これをゆっくり読んでみますと、「この節、入津の阿蘭陀人ども風説探索仕り候趣御内含」と書いてあります。ここは非常に微妙な表現ですね。「御内含まで左に申し上げ候」。内々に申し上げますということです。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION