日本財団 図書館


 たとえばこの積荷目録を見ると、先ほど言いました218年間のものをもし全部集めたとすれば、鎖国日本にどういう品物が入ってきたかが手に取るようにわかるという、非常に重要なものであることがおわかりいただけると思います。3番目の「Monsterrolen、乗船人名簿」をもし全部集めることができたとすると、鎖国日本というけれど、オランダ人しか入れないとはいうものの、本当にオランダ人だけだったか。これを見ると、実はいろいろな国の人が来ているのです。ドイツの人や、いろいろな人がかかえられて、来航しておりました。このようなことがわかります。今日はそういう細かいお話をしている時間がありませんが、1番目の「Nieuws」で代表してお話ししてみようと思います。
 左下の図をご覧いただきますと、本当は1枚目の図と合わせて見るといいと思いますが、このオランダ船が入ってきている状態が描かれています。検使船の船団が、いま出島に向かって来航船を引き入れているわけです。出島の、長崎の港、この港口の一番ネックになっているここですが、図にも見えますが、それより一寸入ったこちら側が男神、こちらが女神その奥に西の番所、こちらに戸町の番所というのがあります。場合によると、このネックのところを船を並べて閉めきって、そしてよからぬ船を焼き討ちにするという作戦をとるわけです。こういう船をつないだ橋を船橋といいます。
 このネックのところを通るときに、入港を許可されたオランダ船は祝砲を撃つ、ドーンと空砲を撃ちます。そういうことがわかってこの図を見ると、モクモクと煙が出ていますから、なかなかリアルに描いている図だということがわかります。そしてそのうしろには検使船団が見えておりまして、一番最初の大きな船、オランダ船のすぐうしろが検使船、それからそのうしろに、連絡にあたる通い船、旗合わせのオランダ通詞の船などいろいろ、たしか11艘ぐらい見えると思います。これ全体が旗合わせの検使船団ということになっています。
 連絡の船はもう先を走っていまして、御注進船といっています。もうだいぶ出島に近づいて走っています。このように、入港を許可されると、手続きの一貫ではありますが、書類のほかに重要なものをさらに二つ取り上げます。それは武器、火薬ですが、それを取り上げて火薬庫に入れる。それからもう一つは船の舵を取り上げてしまう。したがって自力では動けない、それで引船で引いている。いま2列に引船が引いていると思いますが、そのようにして入ってくるというわけです。
 オランダ船は、長崎の港にいる間は動けません。錨を下ろしてそのままです。ただし出島の岸璧には接岸できない。出島の周りは浅瀬で大きな船は入ってこられない。そういう具合に仕組んであるのです。船は所定の位置に留めておいて、船と出島の間は品物も人も小舟で行き来させる。そのほうが管理しやすいわけです。そういう具合に仕組んでいます。
 それで先ほどの「Nieuws」に話を戻しますが、これを出島に持ってまいりますと、いま言いましたように、出島のカピタン部屋、商館長のいる部屋で、すぐ翻訳をさせます。出島のカピタン部屋がここだとすると、いま船から持ってきた書類をここですぐに翻訳して下書きができた段階で、これをまた密封して長崎奉行所に持ってまいりまして奉行にご覧に入れます。奉行がパッと封を開いて見ます。それでいいということになると、また密封して、これを出島に返します。そうするとまた出島ではそれをパッと開いて、今度は清書します。そしてまた密封して、もういっぺん奉行所に届けます。そうすると奉行はまたそれを開いて見て、これでいいということになると、短い添え書きをつけて、また密封して、今度は一気に江戸に送ります。
 そのときに、現在のようにファクスがあるわけでなし、郵便局があるわけではないから、それぞれの宿駅を順々に伝って送っていくわけです。ただしこれは非常に急いで送れということで、「Nieuws」が入っている密封した封筒のうしろ、包み紙のうしろには、ここの宿を何日の何時に通過したかということが順々に書かれていきます。そういうものを宿継ぎ便といいます。それに、いま言いましたように刻限をつける。刻限つきの宿継ぎ便で送っていくというわけです。
 だから、もしどこかで異様に時間、日数がかかったりすると、あとで大目玉を食ってしまいます。それでもたとえば大きな川、大井川などは雨が降って水かさがかさんだときには渡れません。ここで川止めになってしまいます。しょうがないわけです。それで、いくらかでも雨がやんで、渡れるという段階になると、どっと渡りたがるわけですが、それでは誰が先に渡るかということです。参勤交替のお殿様が先に渡るのか、それともお金持ちの商人が渡っていくのか、非常に問題のところでしょう。
 尾張の殿様、紀州の殿様は脇に置いて、この重要書類があった場合には、何といってもこの書類を持っているお役人が最初にビュッと渡ってしまいます。そういう具合にして、江戸の将軍のもとに届けられるという扱いです。だから別の言い方をすると、いかに幕府がこの「阿蘭陀風説書」を大事にして、必要と思って扱っていたか、この扱い方でわかります。まさに江戸時代のエクスプレスだと思います。
 こういう具合にして情報を取って、江戸城の数人の老中が、皆さん方はご存知ですね、火のない火鉢を真ん中にして秘密協議をするということですが、そういう重要書類なのです。何もなければそれでいいのですが、何かあったときには、それを検討して長崎奉行に指示を与える。これがまた至急便で送られる。そういう具合にして、幕府は長崎からのオランダ情報を重要視していたことがわかります。
 そういうシステムをつくっていたにも関わらず、このシステムを欺いた不届きな船がありました。これが文化5年、1808年の船です。オランダの国旗を掲げてやって来て、検閲を受けて、だいたいいいだろうと思って出て行って接近したオランダ人2人を拉致して、そしてオランダの国旗をスルスルと引き下ろし、次に何を掲げたかというと、イギリスのユニオンジャックを揚げた、つまりイギリス軍艦だったのです。
 これがまたすごく大きくて、長崎のいろいろな人が当時書いていますが、小山のようだったという具合に驚いていますが、そういう大きな船でした。それで時の奉行さんが焼き討ちをしようと考えましたが、そのとき、守りの兵が十分でなかった。長崎の港は黒田藩と佐賀、鍋島藩が交替で当番でしたが、運の悪いことに、この年は鍋島の当番でした。遅れたもので、時期はずれで、もうこないだろうと思って守備兵を減らしていたところに来たものですから、たまったものではなかったわけです。
 長崎奉行は九州諸藩に急遽出兵をかけましたが、間に合わない。そのうちに、拉致された2人を何とか返してもらわないといけないものですから、先方の要求をのんで、牛や豚や生鮮食料品を与えて、順々に返してもらって、いよいよ焼き討ちをしようと思ったら、スルスルと帰って行ってしまった。
 これは教科書にも載っていますが、フェートン号事件といって有名です。それで時の松平康英奉行は責任を取って、国の威信、国威を辱めたということが一つ、もう一つは責任の重さに比べて、自家直属の、自分が軍隊を持たないことが残念であるといって、その晩切腹したわけです。したがって、そのあと入港手続きが非常に厳しくなります。
 その様子が2枚目の上のほうに掲げてあります。それ以降は日本とオランダの間で秘密協定を結んで、来年来る船が掲げるべき旗のデザインを秘密約束した。ここに描いてありますが、上の右の図が、1806年、翌年の秘密信号です。カラーでないから少しわかりにくいですが、昼なら横縞で、白、青、白の旗を掲げてこい、それがもし夜だったら、3本マストの前のほうの上に三つランタンを掲げろというふうに書いてあります。こういう旗のデザイン、入港手続きを1年ごとに変えた。だから第三国の船にわかるはずがない。このように手続きを難しくしたわけです。これはオランダのハーグの古文書館にあるものです。
 年番、当番通詞の割印も押してありますから、これはオリジナル、原本そのもので、オランダに永久保存になっています。
 左のほうの図は、九州大学の図書館が持っている、九州文化史研究所にあるものを私が見つけたのですが、「白地に赤く」といいますが、これは「赤字に白い丸」の旗で、この年はこの旗を掲げてこい、夜の場合には左のようなランタンを、この場合には七つ吊るせという具合に指示してあります。そういうふうに、旗のデザインもしくはランタンの数を1年ごとに変えて、それを励行したということです。私はこういう秘密信号機を、現在まで五種類見つけておりますが、珍しい、面白い資料です。
 そういう具合にして、江戸幕府はオランダの情報を非常に重要視して、何とかこれを確保して活用するということに努力したということが、これでよくおわかりいただけると思います。また、その扱いは非常に厳重を極めたということも、おわかりいただけたと思います。
 そして3枚目の図、資料はどういうことを示しているかというと、いま申したようにオランダは、いわゆる218年間の鎖国の時代、欧米諸国の間では唯一対日貿易を継続させてもらっている国でした。別の言い方をすると独占貿易ということです。したがって、非常に儲かった、利潤が高かったわけです。だから日本から追放されたポルトガル船などの南蛮船も日本に来たかった。どうもいまでも世界の国は日本に来たがる。日本とつき合うと儲かるのです。そこでどうしたかというと、いまのようにして、来てもいい、入港していい船といけない船を長崎の港で厳重に区別した。これが先ほど言いましたように、まさに水際作戦がうまくいくかいかないかの瀬戸際だと思います。
 ここでちょっとこだわりますが、外国船と異国船という言葉はよく混乱します。外国船の中に、この場合、貿易船として中国船とオランダ船があった。それに対して、日本が拒否して入れないポルトガル船などを異国船といったのです。だから細かいことを言うようですが、これは非常に重要なことです。外国船の中には商売船、貿易船と異国船があった。この異国船を何とかしてシャットアウトしようということが、この長崎の港における最大の水際作戦だったわけです。そして、来ていい貿易船を通じて世界のニュースを入手するシステムを作り上げていたということです。そしてそれを幕府が非常に重要視したということが、これでおわかりいただけたと思います。
 そういう具合に独占貿易をして、とてもいいということであったなら、そこで将軍がオランダ側に命令したことは、そんなにいいのなら、お礼をしなさいということです。そこで、貿易が終わってから、3枚目を見ていただきますと、長崎の出島からトコトコと歩いて、九州は長崎街道、小倉まで行って、そして船で下関に渡りまして、下関で荷物を整え直す。瀬戸内は船旅をして、そして室か兵庫で上がり、そして大坂を経由して、京都を通って、東海道を下ってくる、そして江戸まで来るという長い旅行をした。そしてお礼をしたわけです。
 お礼というのは、来て、どうもありがとうとお辞儀をしただけではだめです。お辞儀をすることと、立派な品物をあげるということの二つが組み合わされないとお礼、挨拶にならない。そこで江戸城に上がって、立派な珍しい品、だいたい織物、反物が多かったのですが、それに加えてお酒などいろいろありましたが、主として反物類が献上物として贈られた。そのときに、老中以下にもプレゼントを差し上げた。これは献上とはいわずに進物といいました。われわれの現在、そろそろ進物のシーズンだと思いますが、お互いに将軍ではありませんから献上とはいわないわけで、進物です。そういう長い旅行をして、そして江戸で将軍にご挨拶をする。それでしばらくオランダ宿におりまして、帰ってもいいという許可が下りると、もういっぺん江戸城に行って、さよならの挨拶、暇乞いをします。そのときにはもう将軍様はお会いにならずに老中が会って、許可をするわけです。
 そのときに何をしたかというと、いくつかの重要事項がありました。一つは、もらい放しはだめなわけで、返礼の下され物、時服というものが与えられます。将軍家から30両、将軍世子、西の丸のほうからは20両、老中以下もそれぞれの役柄に従って与える。だからカピタンさんはわんさともらいます。それをどうしたかという話は今日の主題ではないので脇に置きます。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION