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アウシュヴィッツと「死の国の旋律」
 アウシュヴィッツはクラクフ西方約60キロの場所にあります。そこへのバスが通り抜ける丘陵の緑の美しい光景は、その先の大量殺戮の遺跡を予想させません。
 アウシユヴィッツ強制収容所は、1940年4月のヒットラーの命令により設立されました。6月のパリ占領へと続くドイツ軍の連勝の時期です。最初は軍需工場への労働力提供が目的でしたが、やがてユダヤ人、ポーランド人(抵抗運動で逮捕された人など)、ジプシー、ソ連軍捕虜等の大量殺戮と死体処理が主目的になります。
 殺戮の能率を上げるために、ツィクロンBと呼ぶシアン化合物ガスによる殺害が41年9月に始まり、ガス室と焼却炉を結合した死体焼却場が5棟建設されました。
 
アウシュヴィッツの主収容所の死体焼却炉
 
 アウシュヴィッツ強制収容所の組織は、アウシュヴィッツ(ポーランド語ではオシフィエンチム)の町の郊外にある主収容所のほかに、その西方約2キロにある第二収容所(ビルケナウ)と、各地にある10箇所の支所で構成されていました。このうち世界遺産に登録されているのは、主収容所と第二収容所です。
 保存されている建物は、主収容所には死体焼却場のほか、管理事務所、監獄、起居棟等の多くの建物があり、一部で当時の情景を再現し、一部は展示に使われています。
 第二収容所は、ドイツ軍が退却時に証拠隠滅の徹底破壊を行ったので、4棟の死体焼却場は半ば土に埋もれたままの状態で保存され、起居棟も復元されたものです。
 
ドイツ軍によって爆破された状態で
保存されているビルケナウの死体焼却場
 
 これらの遺跡を巡り歩いて、当時の惨劇の状況を思い起こそうとしましたが、惨劇の悲惨さと、物として残された遺物の印象の隔たりの大きさを痛感しました。野菊が咲く草地に立ち、埋もれた焼却炉を眺めたときに特にそう感じました。
 
ビルケナウの居住棟の並ぶ光景
 
 この収容所での犠牲者の数は、国立遺跡博物館の報告(注1)によると110万人以上(150万は超えない)、そのうちユダヤ人は96万以上と推定されています。
 被収容者で生き残った人々の手記や、解放後の人生を映したドキュメンタリー映画もかなりあり、精神医学者ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』(注2)は、日本でも広く読まれています。
 帰国後の11月にNHKで再度放映されたハイビジョンスペッシャル『死の国の旋律−アウシュヴィッツと音楽家たち』も印象深いものでした。被収容者から選抜されたオーケストラの団員であって、今はクラクフに住む二人の女性バイオリニスト、ゾフィア・チョビアク(ポーランド人)とヘレナ・ニビンスカ(ユダヤ人)の現在を映していました。クラクフには今も約4百人の収容所生き残りの人々が住んでいます。
 チョビアクは、収容所生活の記憶の重圧のために、戦後13年目にようやく収容所を訪れます。ニビンスカはまだ訪れることができません。画面のなかで、チョビアクは年齢的にこれが最後の訪問だろうとニビンスカを誘いますが、彼女は断ります。
 最後の第二収容所跡のシーンで、チョビアクは「とてもつらい人生だったが、アウシュヴィッツは私に人間や世界について考える力を与えてくれた」と言います。
 
テレジンと「過去・現在・未来」
 アウシュヴィッツ訪問から数日後に、チェコの首都プラハの北約60キロにあるテレジン強制収容所の跡を訪ねました。
 テレジンは、オーストリア領であった18世紀末期に、プロシャ軍の侵攻を防ぐために建設された要塞都市です。大要塞と、約六百メートル離れた小要塞からなり、収容所に適した構造なので、1941年11月から改装工事が始まりました。
 テレジン強制収容所の特色は、移送中継収容所の性格を備えていたことと、元から兵舎等の設備が整っていたので、国際赤十字団などの視察を利用したナチスのカムフラージュ宣伝に利用されたことです。
 ここには老人・子供・芸術家が多く収容されましたが、ここでも約7千人のユダヤ人の処刑が行われました。収容された合計1万5千にのぼる子供も、アウシュヴィッツ等に送られ、大部分が死亡しました。
 テレジンには、小要塞の外側の処刑場や集合墓をはじめ、多くの印象深い場所がありますが、最も心に残るのはここに収容された子供たちが描いた多数の絵と、彼らが作成した絵入り週刊新聞です。(注3)その一部や収容された芸術家の作品が、大要塞と小要塞の資料館で展示されています。
 ドイツ軍による焼却をまぬがれた約四千枚の絵は、以前の暮らしの思い出、収容所のなかの生活の様子、草花等を描いています。そのなかで特に私を引き付けたのは、両親の間の小ベッドで眠る幼児(1929と記す)、収容所の二段ベッドに座る少女(1942と記す)、乳母車を押す若い女性(1957と記す)を並べて描いた絵でした。最初は私と同じ生年であることが注意を引いたのですが、そのうちに作者の気持ちがじんと伝わってきました。
 描いたとき13歳であったこの絵の作者は、収容所以前の生活を想起するだけでなく、未来も思い描いていました。それに気がつくと、数日前から私の胸中にあったわだかまりが次第に消えてゆきました。
 わだかまりとは、クラクフのユダヤ人居住区の落ち着いた雰囲気と、それと対照的な、物としてのアウシュヴィッツの孤立したような感じの間の隔たりでした。
 物としてのアウシュヴィッツは、それだけでは短い歴史の一こまの遺物に過ぎませんが、以前の生活の様々な形跡を残し、悲劇を生き延びた人々と次の世代が暮らすカジミエーシュによって、その存在の意味が補完されることが分ってきました。
 『夜と霧』の最後でフランクルは、「ふるさとにもどった人びとのすべての経験は、あれほど苦悩したあとでは、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によって完成するのだ」(池田香代子訳)と述べています。
 負の遺産も、生き残った人びとの経験が伝えられることで完成するのだと思います。
 
むすび
 日本では、負の遺産についての関心が最近少しずつ高まってきました。2002年3月に開館した「東京大空襲・戦災資料センター」(江東区北砂一丁目)はその一例です。昨年10月に昭和女子大学光葉博物館で開かれた特別展「『モノ』が語りかけるハンセン病問題」も、私たちに反省をうながす鋭い問題提起でした。翌11月に熊本県黒川温泉で、ハンセン病元患者の宿泊拒否事件が起こったように、全体的に見ると、まだ負の遺産を無視する流れが強いことは否定できません。
 例えば、世界遺産はすでに観光産業の目玉商品になっていますが、その一般向け案内書には、アウシュヴィッツや奴隷貿易港ゴレ島(セネガル)等の負の遺産を全く無視するものがあります。クラクフ歴史地区を載せても、そこから僅か一時間の距離のアウシュヴィッツに触れていません。
 日本国内でも、江戸・東京の歴史的遺産がブームで、その案内の雑誌の特集や単行本がかなり刊行されていますが、「東京大空襲・戦災資料センター」のような負の遺産を取り上げているものは、ほとんど見当たりません。歴史的遺産の保存が、市場主義の方向に流されていく危険がとても大きいと思います。
(会員)
 

注1 Auschwitz-Birkenau State Museum. Auschwitz-Nazi Death Camp. 2002
注2 ヴィクトール・E・フランクル、『夜と霧』、霜山徳爾訳1961、池田香代子訳2002、みすず書房
注3 絵については、野村路子、『テレジンの小さな画家たち』、偕成社、1993. 絵入り週刊新聞は、林幸子編著、『テレジンの子どもたちから』、新評論、2000







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