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アメリカで文化財保存を学ぶ
福島 綾子
ペンシルバニア大学デザイン大学院文化財保存コース修士課程
 
 私は2002年9月より、アメリカ合衆国フィラデルフィアにあるペンシルバニア大学にて、文化財保存を学んでいる。私が在籍するコースの概要を簡単にご紹介したい。そして本コースの紹介から、アメリカにおいてどのような文化財保存教育がされているかもお伝えすることができると思う。
 
コースの構成と講義内容
 本コースの正式名称はHistoric Preservation Program。日本語では「文化財保存」と訳しているが、このコースで対象となる「文化財」とは、主に「建造物、遺跡、そして遺跡・建造物を構成する材料」を指す。絵画などのいわゆる美術品は本コースでは扱わない。アメリカは国家としての歴史がまだ200年あまり、ヨーロッパからの移民時代を入れても400年あまりという性格上、建造物の保存といえば18〜20世紀の住宅、商業施設、公共施設としての建造物の保存が主となる。ペンシルバニア大学の保存コースでは、アメリカ南西部にあるアメリカ原住民(インディアン)の遺跡保存のプロジェクトも手がけているが、考古遺跡保存を行っている大学の保存コースはアメリカ国内では極めて少ない。本コースは修士課程と1年間のcertificateプログラムからなり、学部や博士課程は設置されていない。修士課程は基本的に2年間で、計4学期の間に19単位(修士論文を含む)を取得する。1学期で約5コマの授業を取ることになっているが、1コマ3時間あまりの授業と課題を週に5コマ分こなすのは、アメリカ人学生でも大変な苦労である。1年目は、「文化財記録法」、「保存理論」、「アメリカ建築技術」、「アメリカ建築史」などの必修科目がある。「文化財記録法」は、建造物の歴史の調査、記録法を学ぶ。学生一人一人に個別の建物が割り当てられ、建物の様々な歴史を歴代の建築物譲渡証書、建築許可証などの文書、古写真、地図などから17世紀などの建国以前にまで遡って調査する。調査している建物を国の文化財指定に答申するという模擬訓練も兼ねていて、学生は指定推薦の書類を書く。この授業とは別に文化財の物理的な記録法の授業もあり、写真撮影の技術、レーザースキャンなどの測量機器を使った記録の理論、様々なコンピュータソフトウェアの使用法なども学ぶ。「保存理論」では、多量の文献講読を要求される。本コースに入学してきた学生で建築を過去に学んだことのない学生も多いので、「アメリカ建築技術」の授業では、初歩的な実測、製図を学ぶ。アメリカ国内で保存事業に携わるにはアメリカ建築史などの知識が必要であるが、外国人学生は必ずしもそうではないので、他の建築コースや都市計画コースなどで開かれている授業を選択することも可能である。保存コースはさらに5つの分野に細分されており、それぞれの学生の興味によって、「保存科学」、「保存計画」、「文化財管理」、「保存設計」、「文化的景観(ランドスケープ)保存」のいずれかを2年次に選択することになっている。これらの専攻、個々の学生の興味によって、必修科目以外の選択科目を自由に選ぶ。「保存科学」専攻ならば、薬品等を使った実験室での作業が必要になり、各学期に特定の建築材料保存の授業がある。2002年度秋学期は「木材」の保存、2003年度春学期は「テラコッタ(素焼きレンガ)」の保存のセミナーが開かれた。「保存計画」と「文化財管理」専攻では、主にアメリカ国内の文化財保存関連の法律や税制、その他保存の公共政策、文化的景観保存、歴史的建造物の実際の半解体調査、保存の経済学、GIS(地理情報システム)などの授業を取ることが薦められている。「保存設計」を専攻するには、建築デザインのバックグランドが要求される。2年次には「スタジオ」という授業がある。他の授業での課題の実施は仮想のものである場合も多いが、このスタジオでは実際の地元フィラデルフィアにある一地区の現実的な保存計画を学生が授業の中で試行錯誤し、深く地元コミュニティと関わり、結論と分厚い報告書を生み出すというものである。1年目の終わりの夏休み期間には、単位にはならないものの、保存関係のインターンシップをすることが義務付けられている。ペンシルバニア大学の保存コースではサマーコースが開かれ、イタリアのローマとアメリカ南西部ニューメキシコの遺跡での保存事業に学生が任意で参加する。ローマでのコースは授業でもあり、単位取得も可能である。そして最後の学期に修士論文を完成させ、科学修士号を取得、晴れて卒業となる。
 
コース教員によるフィラデルフィア
市内見学会の様子
 
 また本コースでは、単に教育機関として授業を行っているだけでなく、研究機関として実際の文化財保存プロジェクトを常に複数実施している。現在はエジプトのカイロにある中世城壁の保存修復、先ほども述べたローマとニューメキシコでの遺跡保存事業、ニューオーリンズでの事業、地元フィラデルフィアでの建造物保存事業などが進行中である。教員のほか、学生、大学に所属する保存専門の職員(卒業生である場合が多い)が参加している。また、かなりの頻度で本コース、もしくは外部機関主催の保存関係の講演会、展示会、見学会などが開かれ、外からの刺激に事欠くことは無い。
 
コースの教員と学生
 ペンシルバニア大学の保存コースの専任(フルタイム)の教員はわずか2名。それ以外の教員は、皆他の場所での仕事を本業とする講師である。なかにはニューメキシコなどのアメリカ国内のはるか遠いところ、果てはイギリスなどの海外から授業をしに来ている講師もいる。講師の所属先は公的政府機関であったり、保存関係の事業を行う会社であったりと様々で、実際に現場で活躍している講師の授業は、生き生きとして説得力のあるものである。
 本コースにはどのような学生が集まるかというと、それぞれ全く異なったバックグランドであり、入学以前は文化財保存に全く接したことの無い人も多い。私の学年は計28名で、建築を専攻していた学生が一番多いがそれでも数人であり、それ以外は考古学、文学、美術史、工学など様々である。他大学の学部で文化財保存をすでに専攻していた人も少ないながらいる。また、ほとんどの学生が入学前に数年間社会人経験をし、大学院に戻ってきた形であるのも興味深い。入学前にすでに文化財保存の仕事や活動に携わっていた人もいれば、大学院での保存勉強と実社会での保存の仕事を同時進行で行っている人も複数いる。本コースの学生による自治会のようなものもあり、学生自らが保存の分野で仕事をしている人を招いて講演会を開いたり、他のコースとの交流や大学院事務局との調整などを行っている。
 
学生達の将来
Preservationistとして
 本コースのみならず、他のアメリカの大学・大学院の文化財保存コースは、アメリカ国内における文化財保存に焦点を当てている。だが、アメリカの保存教育がアメリカ以外での文化財保存に役立たないかというとそうではない。モノの価値をどう見出し、意義付け、調査し、保存しようとするかということを「考える」能力は、世界のどこでも共通である。その「考える力」をここで学んでいると私は感じる。
 また私は本コースで学んでいて、文化財保存という分野は様々な分野の集合体であるということを強く感じる。紹介したように、コースの授業内容は化学、建築、工学、法律、歴史、都市計画、経済などの多分野にまたがり幅広い。そして私がこれらからさらに感じるのは、保存専門家(Preservationist)とは、ジェネラリストである、ということである。ジェネラリストというと、広く浅い知識はあるが中途半端で実際には取り立てて専門性のない人のように聞こえるが、Preservationistの強み・価値はその幅広い知識にこそある。上に挙げた一分野だけの知識では保存事業を企画、運営することはできない。古い建造物が当たり前のように保存活用されているアメリカでは、Preservationistが活躍できる機会が多く、需要もある。大学・大学院にある保存コースの教員達に教育目標は何かと尋ねると、「保存の分野のリーダーを育成すること」という答えが返ってくる。幅広い知識を持ったジェネラリストとしてのPreservationistを育て、社会に送り出す自信が感じられる。修士課程を卒業すると同時に保存分野でのフルタイムの専門職を得られる学生は少数派かもしれない。しかしこれは保存の仕事には経験が強く求められるので仕方の無いことと言える。だが、大学・大学院卒業後数年間の実務経験を経て、多くの卒業生達が公的・私的機関でPreservationistとして活躍している。保存活動を支え、保存が日常生活に溶け込んだアメリカの社会基盤の存在だけではなく、アメリカの大学における保存教育そのものは保存専門家のたまごである私たち学生に自信を与えてくれる。この自信は、膨大な量の課題をこなすことによって更に裏打ちされる。そして実際に、多くの卒業生達は保存のリーダーと呼ぶにふさわしい活躍をアメリカ国内外でしている。そんな卒業生達の存在がまた私たち後輩の目標となり、自信を与えてくれる。(会員)
 
ペンシルバニア大学文化財コースのホームページ:http://www.upenn.edu/gsfa/his_pres/index.htm







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