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日本ナショナルトラスト報 2003年7月号
Japan National Trust Magazine July 2003
 
連載 ゆれるアジアの町並み保存・その(3)
宇高 雄志
マレーシア科学大学研究員、広島大学建築学科助手
 
究極の選択−都市美と自由
 シンガポールは、非常に美しい。滴る緑、咲き乱れる熱帯の花々。アジアで唯一とさえ讃えられる、都市美。交通渋滞のない都市、また整然と整えられたスカイライン。むろんこの美しさは、一朝一夕でできたのではない。何の資源のない淡路島ほどの国土。周辺諸国との恒常的な緊張。1960年代にはスラムとスクオッターがあちこちにあった。多民族社会の宿命か、民族暴動もあった。治安も悪かった。独立時の記者会見で、首相リー・クワンユーが涙を流すシーンは、今も人々の記憶に深く刻まれている。
 しかし彼らはリーダーに恵まれた。リー・クワンユーを中心に、政府は徹底して改革を断行する。政府機関では徹底的な効率主義と能率主義を導入する。都市は徹底的に、世界の最新事例を元に、国際経済拠点として再整備された。国民が安心して、住み、学ぶことのできる都市。資本と能力をもつ人間を、世界中から吸引できる魅力ある国家。緑溢れる清潔な国家、「クリーン&グリーン」キャンペーンはこうやって始まった。そしてわずか30年ほどで、奇跡は現実のものとなった。
 
完全無欠の政府
 こんなシンガポール社会を、ニヒルに捉える人もいないではない。洋の東西を問わず、シンガポール政府の「ソフトな権威主義」的な傾向や、言論の自由を含めた市民生活への制限を批判する識者は少なくない。「クリーン&グリーン」も行き過ぎだとの批判さえみえる。
 そう、管理が完璧であるがゆえ、遊びがないとされる。熱帯なのに、国土には害虫も少ない。ポルノも公にはないことになっている。しばしば雑誌も発禁になる。事実上、政治対抗勢力もない。同時に「自由」さえないらしい。
 しかし、陽気なシンガポール人は、こんな状況をこう笑い飛ばす。「政府はなんでもベストを知ってるんだよ!」。ここには近隣諸国に見られるような貧困もない。汚職もない。事情通は、にやりと笑ってこう述べる。「シンガポールがきらいならば、よその国に行けばよい。だれも止めやしない。我々は「自由」なんだ」と。
 おおくのシンガポーリアンが胸を張る、超近代的都市国家は、わずか30年ほどで実現した。西洋のアーバニストが、世紀をかけて夢想をかさねた理想都市は、図らずもこの熱帯の小島に実現した。いうなれば、シンガポール人は究極の選択をした。都市美と、そして自由。
なぜ保存か−シンガポールの挑戦
 シンガポールの美しさは70年代に磨きがかかる。都市空間はインターナショナルスタイルの競演。シンガポールは、その都市景観から民族様式を意識的に排した。英語教育の強力な推進。これによって、シンガポール人国民意識の高揚が目指された。民族を超えた、国民像の確立。しかし、同時に都市の魅力は目減りしたとされる。外国人観光客がもとめるオリエンタリズムを語る装置=歴史的空間や自然環境が失われたからである。
 
ダイナミックな都心の風景
 
 特に80年代に入って、観光客は激減する。そこで、シンガポール政府は観光政策の立て直しをはかる。アジアらしい、都市空間を演出するために、URA(政府都市再開発局)は町並み保存の物的整備を、STB(シンガポール観光局)それを観光資源として演出する体制が確立した。この2つの部局が中心となって、対策を打ち立て直ちに保存事業が始められる。
 
世界最先端−シンガポールの町並み保存
 シンガポールの歴史的遺産の保存水準は高い。シンガポールの歴史的環境の保全事業は、現在47地区が指定され、その事業スピードと高い保存技術で世界的にも高い評価を受けている。また同じ制度下で規定される保存地区でありながらも、高度に物的な修復の追求を行うものから、商業地開発とリンクさせて新規開発を行うものまで多種多様である。保存地区ごとに多種のガイドラインや制度のメニューを選択することで、事業終了後の保存地区の界隈性や社会像を巧みに誘導する事が可能になっている。
 シンガポール政府は、国土の国有化を目指している。現在、約80%の国土が国有地であるらしい。保存地区においても、権利関係を調節の上、土地の国有化を図り、その後、入札を行う。開発業者は、開発ガイドラインを遵守することが求められる。
 また注目すべきは、その保存プロセスにおいて明確に地区の保存目標を定め、その事業目標にあわせて、弾力的に保存ガイドラインを適用し整備を行っている点である。これらは修復過程における技術指針にも反映され、保存修景段階における曖昧性を排除し、罰則規定をも盛り込むなど効果が高い。保存建物を、いいかげんに扱うことは、断じて許されない。シンガポールの都市景観は、すでにすべてに手が入れられている。保存地区は、ちょうど、その良質の素顔をさらに厚化粧しているようなものだ。
 経済面はどうか?経済と文化のバランスの両立がはかられた。大幅に民活を導入することで、経済的採算性の高い事業を推進している。シンガポールは歴史的都市の保全に新たなパラダイムを見いだした。シンガポールの保存では、事実上保存修景における補助金はない。そのかわりに、通常のシンガポールにおける開発行為にかけられる開発税や、商業ロットに対する駐車場の割り当て、増床などの規制緩和などのメリットがある。また、保存地区の周辺は高層ビルが建ち並ぶ地区が多く、商業ポテンシャルは非常に高い。アジア経済危機以降、その傾向は沈静化しているが、通常の修理によって物件の売買価格は3〜4倍にはね上がるとされ、不動産取引としても十分に成立するらしい。
 こんなシンガポールの経験は、保存事業実施に向けた予算的措置や法体系の整備に取り組む東南アジア周辺諸国にも「シンガポールモデル」として強い影響を与えつつある。またシンガポールにおけるフレキシブルな保存ガイドラインの運用状況は、同国のみならず周辺諸国における面的な歴史的環境の制度的整備においても注目されている。
 いや、町並み保存だけではない。空港整備、公共交通網、交通渋滞のマネージメント、水質管理、港湾運営、そのすべてが一級。効率的で無駄がない。いまやアジア各国だけではなく、世界中の官僚が、先を競ってシンガポールに視察に訪れている。都市整備のノウハウは、アジア一円に広がりつつある。アジアのシンガポール化が、今はじまろうとしている。
 
ショッピングセンターの普通の暮らし
 
チャイナタウン
 シンガポール・チャイナタウン。複数の保存地区からなる大きな保存地区。街路には、保存修景され、パステルカラーで塗り込められたショップハウスが軒を連ねる。非常に整然とした町並み。しかし、近隣国で見かける「本物」のチャイナタウンと比べ、生活感がない。活気がない。例えば、チャイナタウン観光の中心地パゴダストリート。街路は、土産物屋で埋め尽くされる。店先にはバリのどこかで見かけた木彫りの置物。定番「まあらいおん」のプリントTシャツ。
 
保存地区内のチャイナタウンヘリテージセンター
 
 政府の積極的なイニシアティブと民間活力の導入で、建物は残ったが、しかし、生活は残らなかった。敏感な観光客は、チャイナタウンには寄りつかない。皮肉なことに、普通のチャイニーズらしい暮らしは、住宅団地の中のショッピングセンターのなかのほうが健在だ。
 最近になって、シンガポールの保存政策にも、遠慮がちにではあるが批判も出始めた。生活が、生きた文化はどこにいったのかと。STB(シンガポール観光局)は、シンガポールらしい、秘策を編み出した。保存地区に、以前出店していた、伝統的なビジネスを再誘致すると。ワンタン麺屋さん、靴屋さんなどに声をかけているという。ここでも、実質的な皮算用があって、いくばくかの金がつまれるらしい。どこまでも実質的なのである。
 
もどることのないあの時
 このチャイナタウンに興味深い博物館が開館した。チャイナタウン・ヘリテージセンター。これも、STB(シンガポール観光局)とシンガポール・ヘリテージボードが事業主体。展示の目玉は、ひと昔前、1960年代のショップハウスの暮らしの再現。
 
ヘリテージセンターの看板をながめる老婆
 
 往時の暮らしが、徹底的に、精密に、忠実に、再現されている。圧巻だ。セピア色の世界に往時の生活がよみがえる。狭い狭い2畳ほどの部屋が並ぶ2階部屋。フチのかけたどんぶり、眼鏡、オピウムの入った瓶、洗濯物、子供のおもちゃ、壁に掛けられた帽子・・・。便所にはリアルに便まで再現されている。スピーカーからは、甲高い夫婦の福建語の会話と、油揚げの音が聞こえる。まるで、そこに誰かが、そこに暮らしているみたいだ。非常に歴史的で伝統的な。しかし耐え難いほどの、狭い、くらい、貧しい生活。
 年輩の華人の女性が、そんな展示に見入っている。愛らしい福建語アクセントの英語。チャイナタウン生まれの彼女の、子供の頃の生活はこんなのだったという。「チャイナタウン保存地区にはよく来るの?」と聞いてみる。「まあ、あんまり来ないね。もうだれも友達いないから」。
 彼女も、もちろん、国民の9割が住む、高層の公営住宅の暮らし。国家開発とともに国民が勝ちとった、普通のシンガポーリアンの暮らし。しかし、多くのアジア都市では、得ることができなかった、清潔で緑あふれる、良質な郊外生活。
 近代的な都市国家の開発と変化の早さを嘆くのは、もちろん、タクシー運転手だけではない。みんな、どこかに不安を抱えて、今日も走り続けている。能力主義と厳しい競争。完全無欠な超近代都市。ひとときも、たちどまることは許されない。シンガポールは、その、絶え間ない開発のすえ、いったい何処に向かっているのか。
 シンガポールの保存地区は、時の不可逆性を悟り、過去と決別する場なのかもしれない。「展示=保存」された「過去=ヘリテージ」に、いまを生きるシンガポーリアンが、もどり、住まう場は、もうない。世界のどこよりも新しい都市をつくること。アジアの新しいアーバニズムを描くこと。ヘリテージをつうじて、シンガポールの未来を語ること。今後もシンガポールの動きには、ひとときも目がはなせない。(会員)
 
―― 筆書は、現在マレーシアに滞在し研究活動を行っています。本文へのご意見ご批評は、電子メールにてお送りください。
utaka@hiroshima-u.ac.jp







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