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ヤミ族以前の蘭嶼・・・米沢容一
 蘭嶼で見られる考古遺物の中で、現在のヤミ族が製作してヤミ族が使用したと考えられる遺物、ヤミ族が製作したとは考えられないに関わらずヤミ族の使用している遺物、ヤミ族が製作していないと考えられるものでありヤミ族の使用していないと考えられる遺物を見ることができる。これらの遺物の中でヤミ族が製作していないと考えられるものは伝来品であるのか、伝世品であるのかのどちらかであろうと考えられる。これらの遺物の中には、ヤミ族以前の遺物が存在している可能性が考えられる。以下に個々の遺物に関して概観することとする。
 
事例の紹介と分析
土器
 
 
 (1)はjikanyuan(ジカニュヤン)からの表面採集資料である(米澤容一:1984)。硬質の甕形土器の口縁部の小破片であり、明らかにヤミ族の軟質な土器とは一線を画している。胴部と口縁部は屈曲を持って画されており、胴部には叩き目が施されている。
 (2)はlabalatz(ラバラック)からの表面採集資料である(陳仲玉ほか:1989)。口縁部以下に四段の連続の人形文が施されており、施文具は回転押型具であると考えられる紅陶系の土器の小破片である。器形は椀形としている。
 (3)は jimalaysin(ジマライシィン)からの表面採集資料である(陳ほか:1989。)器形および部位は不明である。全面を、狭く細長い単位で方格文が施されている。
 (4)はrugimoaubabala(ラジモアウババラ)からの表面採集資料である(陳ほか:1989)。器形は不明である。部位は胴部と考えられる。全面の叩き目が著しく重複しており、摩滅が激しいが、縄蓆文の痕跡を確認することができるとされている。
 (5)はjibayin(ジバイン)からの表面採集資料である(陳ほか:1989)。器形は不明であるとして報告されているが、甕形土器の可能性が考えられる。部位は口縁部直下の胴部上半部分もしくは肩部と考えられる。器面は風化等によって摩滅している。叩き目の痕跡が残されているのみである。
 
 
陶磁器
 (7)はjikanyuan(シカニユアン)からの表面採集資料である(米澤:1984)。ヤミ族の所産によるとは考えられない硬質の土器と同じ遺跡からの出土遺物である。他に出土した土器は、軟質のヤミ族の土器と類似したものである。また、rukavgiran(ルカヴギラン)遺跡から甕棺とともに出土していることを、Beauclairが報告している(Inez De Beauclair: 1972)。
石皿
 (9)はjiranweina(ジランウェイナ)からの表面採集資料である(米澤:1984)。裏面は蜂巣石となっており、複数の用途に使用された石器であると考えられる。形状から見て砥石である可能性を考慮したが、裏面が蜂巣石になっていることと、磨面が緩やかに曲面を示していることから石皿と考えた。
石錘
 (10)はrokawaran(ロカワラン)からの表面採集資料である(米澤:1984)。完形品である。石錘と考えられる。
 (11)はjiranweina(ジランウェイナ)からの表面採集資料である(陳ほか:1989)。完形品である。石錘と考えられる。
石槍
 (12)はjiranweinaからの表面採集資料である(陳ほか:1989)。ほとんど完形であり、蘭嶼では産出しない板石質の石材によって製作されている。
双獣頭垂飾
 (13)は戦前から存在の知られていた装飾品である(鹿野忠雄:1946・宋文薫:1980)。伝世していたものと考えられ、出土した遺跡は明確ではない。
状耳飾り
 (16)と(17)は戦前から存在は知られている装飾品である(鹿野:1946)。(16)はイモルル村で、(17)はイラタイ村で伝世していたものと考えられ、出土した遺跡は明確ではない。また、状耳飾りを製作する際に発生する円盤状石製品も、ヤミ族は分銅として利用している。
 
遺物とその系統
ヤミ族に見られる土器製作の二系統
 ヤミ族以外の土器を把握するためには、ヤミ族の土器を理解しておく必要がある。ヤミ族の土器の器形は、碗形土器と甕形土器の二種に大別することができる。碗形土器と甕形土器は、製作技法が全く相違している。碗形土器は型取りによる技法であり、その後に成整形を施している。甕形土器は輪積みの後にパドルによる叩き整形を施している。この技法に見られる相違は、碗形土器が器形の模倣による結果であると考える(米澤:1984b)。ヤミ族の土器は焼成火度が低く、極めて軟質である。また、文様という観点から見ると、装飾性に乏しい土器である。目立つ装飾は、碗形土器と甕形土器に共通する胴部や体部に付けられている突起を見ることができる。突起の有無は、土器の使用目的による対象物の相違によるものである。例えば、甕形土器は水甕として使用されるほか、煮沸具として使用され、碗形土器((8))は甕形土器で煮炊きされた魚や肉の汁を入れる器として使用している。この中で突起のあるものは、山羊や豚の肉や男の魚を調理したり、汁を入れるのに使用されている。これに対し、突起のないものは女の魚を調理したり、汁を入れるのに使用される。突起のない甕形土器はこの他に芋を煮たり、水甕に使用されている。この突起による違いは土器ばかりではなく、調理したものを盛り付ける木製品にまで及んでいる。突起以外に見られる装飾的な特色は、碗形土器にのみ見ることができる高台と沈線文である。高台は文様の有無に関わらず存在しているものである。このことから考えると、高台は碗形土器に見られる基本的な特徴を示しているものと考えられる。沈線文は内面の口縁部から体部に、幅が広く浅い沈線が複数段にわたって輪状に全周して施されているものである。これは貿易陶磁器の碗に見られる轆轤の回転による痕跡を、そのまま文様として模倣されたものが残ったものであると考えられる(米澤:1984b)。沈線文が施されているものと、施されていないものにも対象物の違いを見ることができる。突起のある碗形土器の場合、沈線文が施されているのが普通である。しかし、沈線文が施されているからといって突起があるとは限らない。沈線文のあるものは突起のあるものと同様に山羊や豚の肉や男の魚の汁を入れるものである。ただし、経験的には男の魚の汁である場合が多かったように感じる。これに対し、沈線文の施されていないものは例外無く女の魚の汁を入れるものである。また、これらの土器のそれぞれの対象物専用となっており、山羊・豚・男の魚・女の魚・芋・水とそれぞれ用意されている。他の対象物に転用することは無いということである。
 以上がヤミ族の土器の特徴であり、このことを理解していない限りヤミ族以外の土器を把握することはできない。
土器とその系統
 今回紹介した土器を見ると、jikanyuan出土の甕形土器とlabalatz出土の碗形土器以外は器形は明確ではないが、総てヤミ族の土器とは全く相違する文様が施されている。特にrugimoaubabala出土の胴部破片は摩滅が著しいものの縄蓆文と考えられるような痕跡が認められると報告されている。また、jikanyuan出土の甕形土器は極めて硬質であり、火度の高い焼成によって作られているものと考えられる。台湾本島各地には、叩き目を施した土器が多くの文化に伴って出土しており、それらの遺物と比較検討する必要があるものと考える。labalatz出土の回転押型文と考えられる連続人形文は、台湾本島南端部の金属器文化である亀山文化((6))の中に、同様の意匠を見ることができる。しかし、技法が全く相違しており、亀山文化では竹管や半裁竹管工具を使い分け、刺突技法によって施された文様であると考えられる。蘭嶼と亀山文化の人形文を直接結び付けることはできないが、今後の調査によって理解できるものと考える。
 陶磁器はjikanyuan遺跡から出土しているほか、rukavgiran遺跡から甕棺とともに出土していることをBeauclairが報告している。土器の部分でも示したことであるが、この陶磁器が蘭嶼にどのような経緯でもたらされたものであるのかは不明であるが、この形状をヤミ族が模倣し、彼らの碗形土器(8)に発展したものと考えることができる。したがってこれらの陶磁器類はヤミ族以前のものではないと考えられ、陶磁器の年代を把握することによって、少なくともその時代からヤミ族は蘭嶼に生活していたことを考えることができる。
石器とその系統
 石皿という名称が、この石器の名称として適切であるか否かは判然としないが、日本の考古学における名称をそのまま踏襲することとした。用途から考えた場合は擂り臼と考えることができるものである。ヤミ族に粉食の存在は確認できておらず、ヤミ族以外の集団が残したものであると考えることができる。台湾各地の遺跡を見ても類似した遺物は出土しておらず、どのような経緯で蘭嶼にもたらされたものであるのかは不明である。
 一般的にヤミ族の石錘は扁平な汀礫の中心から偏った部分に小孔を穿ったものであり、今回報告するような扁平な汀礫の端部を二か所打ち欠いただけの単純なものではない。この種の石錘は台湾の東海岸やバタン島で出土していることが報告されている。
 石槍は蘭嶼から産出しない材質のものであり、石材が持ち込まれて製作されたものであるのか、製品として蘭嶼に持ち込まれたものであるのかは明確ではない。類似した資料は台湾各地から出土しているが、台湾からもたらされたものであるのか否かは今後の研究課題である。
装飾品とその系統
 双獣頭装飾品は近年ベトナム各地のサーフィン文化の遺跡から出土しており、その系統を考える必要がある。単独としてはフィリピンのタボン洞穴から出土している。これらの各遺跡から出土している装飾品と、蘭嶼で伝世していた装飾品との相違は、ベトナムやフィリピンから出土しているものが状になっているのに対し、蘭嶼のものは環状になっていることである。従ってベトナムやフィリピンのものは耳飾りであり、蘭嶼のものは垂飾品と考えることができる。しかし、と環の違いを除けば双方に大きさや細部の特徴に至るまでなんらの相違を見ることはできない。サーフィン文化からもたらされたものと考えることができる。サーフィン文化に環状のものが見つかっていないのは、未だ発見されていない種類の遺物であるのか、製品として注文された結果であるのかは不明である。また、これが直接サーフィン文化からもたらされたものであるのか、あるいは中継地などを経て間接的にもたらされたものであるのかは判然としていない。
 状耳飾りに見ることのできる突起の形状が、卑南文化の状耳飾りの突起とは相違しており、卑南文化の状耳飾りが伝わったと考えることはできない。同様に、双獣頭装飾品を出土しているフィリピンのタボン洞穴から出土している状耳飾りと比較してみても、突起の形状が著しく相違しており、タボン洞穴と直接結び付けることはできない。状耳飾りは時代に相違はあるものの、東アジア・東南アジア各地に広く分布しており、これらとの比較を行うことが必要である。また、双獣頭装飾品との関連を考慮しておくことが必要であると考える。これらの状耳飾りを製作することによって発生する円盤状石製品がヤミ族によって、分銅として利用されている。さらにこれらに使用される石材は全く蘭嶼に産出しないものであり、石材が交易によってもたらされた可能性が考えられる。ただし、円盤状石製品自体に価値が発生し、これもまた交易の対象となっていた場合には産地からもたらされたものである可能性は残っている。今後の発掘調査の結果を待って判断すべき問題であると考える。
 蘭嶼にヤミ族以前の文化が存在していた可能性は、極めて濃厚になってきている。それを具体的に証明するためには、科学的な発掘調査を行う必要があるものと考える。今後、蘭嶼内における遺跡の分布調査を継続し、ヤミ族とそれ以前の遺跡を把握するための発掘調査を行う遺跡に焦点を絞り込む必要がある。
・・・〈(株)四門文化財研究室室長〉
参考文献
鹿野忠雄「紅頭嶼の石器とヤミ族」『人類学雑誌』57-2 1942年
鹿野忠雄「東南亜細亜民族学先史学研究」第一巻 矢島書房 1946年
国分直一「紅頭嶼の石器及び土俗資料」「水産講習所研究報告 人文科学編』2 1957年
Inez de Beauclair Jar Burials from the Lobusbussan Site Orchid(Botel Tobago)Island,Oakl and University 1972
宍文薫「台湾蘭嶼発見の石製小像」『国分直一博士古稀記念論集日本民族文化とその周辺』考古篇 新日本教育図書 1980年
米沢容一「台湾・蘭嶼の考古学的踏査」『えとのす』23 新日本教育図書 1984年
米沢容一「蘭嶼ヤミ族の碗形土器」『えとのす』25 新日本教育図書 1984年
米沢容一「チチブチブ ノ イナポとヤミ族」『えとのす』26 新日本教育図書 1986年
米沢容一「台湾・蘭嶼の考古学的踏査2」『えとのす』30 新日本教育図書 1986年
米沢容一「台湾・蘭嶼出土の石皿・凹石・敲石」『えとのす』31 新日本教育図書 1986年
李光周「墾丁国家公園考古調査報告」 内政部墾丁国家公園管理處 1985年
陳仲玉・楊叔玲・高韻華「蘭嶼考古学初歩調査」内政部営建署委託 中華民国自然生体保育協会 1989年







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