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歌人の島
 蘭嶼を訪れ、ヤミ族の伝統文化の一端にでも触れることができれば、この島が多くの研究者を魅了してきたことが実感できるはずである。それほど、ひとつひとつの文化が複雑な体系を持ち、饒舌であり、また、我々の親しんできた文化とは異質な要素を持っているのである。
 伝統集落に一歩足を踏み入れれば、まず、その住まいに驚かされることになるだろう。迷路のように石段と通路と庭が交錯し、どうやって先に進んだらいいのか、立ち往生してしまうこともある。随所に掘り込まれた敷地にたてられているのが主屋だ。こうした地下式住居でできた集落景観は世界でも他に類例のないものだ。
 集落の近くの砂浜にでれば、そこで、ヤミ族の造形力の高さを示す小型の木造船を目にすることになるだろう。両端が優美にはねあがり、船の舷側前方には眼が描かれている。浅いレリーフを施し、赤、黒、白で彩色された彫刻船もみつかるはずだ。オーストロネシア系諸族は、アウトリガー(転覆防止用の舷外浮材)のついた船で太平洋を征服したといわれるが、蘭嶼の船は、それ以前の形態である。しかし、造船技術は高く、刳舟ではなく、複数の板をはぎ合せた構造船である。魚類の豊富な蘭嶼は、この船を用いて様々な漁法を発展させた。なかでも、毎年、二月頃から約二ヵ月間おこなわれる松明漁は重要なものだった。これは、船団を組織して、六人から一〇人乗りのチヌリクランと呼ばれる船をつくり、オニガヤを束ねてつくった松明をかざして、黒潮を回游してくる大量のトビウオを掬いとるというものである。トビウオは天日で干し、家の奥の炉で燻蒸されて、保存される。
 
チヌリクランの進水式で、悪霊を追い払う儀礼
 集落のはずれにひそんでいた村びとは、儀礼の時になると、奇声を発し、威嚇しながら船に近づいてくる。(イララライ村 1985年)
 
他村からやってくる祝賀客の到着を待つミヴァライ・ア・タオ(夫婦)
女性の帽子はラガットと呼ばれる儀礼用の木の帽子。(イモロッド村1987年)
 
 トビウオに限らず、ヤミ族の魚に関する文化は多彩である。魚をいくつかのカテゴリーに分類することはよく行われるが、ヤミ族は、これに関しても複雑な体系を持ち、性、年齢、出産の前後などによって、その魚が食べられるかどうかを判断する。ヤミ族と一緒に食事をすれば、その区別の厳格さに驚かされることになるだろう。
 村では様々な時期に、儀礼・祭祀が行われる。それを目にする機会があれば、ヤミ族が身につける装飾品のデザインに、まず、目を奪われるに違いない。こうした装飾品は、ヤミ族にとっては、一つ一つが悪霊を祓い、好運を招く霊力を持った呪具なのである。複雑な歴史と物語りが秘められていることも少なくない。伝統的なアニミズムの文化と世界観を維持し発展させてきたヤミ族にとって、そうした装身具だけではなく、身につける衣服もすべて信仰の対象であり、はじめて身につけるときには祭祀や祈願を必要とするものであった。
 しばらく村に滞在してヤミ族の老人たちと知己になれば、いずれヤミ族の歌を聞かされることになるだろう。海のうねりにも似た、どこか物悲しい調べである。かつて、ヤミ族のシャプン・ミトリッドとその一行がバタン島を訪れたとき、ヤミ族の歌声に島の女達が聞き惚れたという伝説が残っている。歌といっても、メロディーは数種類しかなく、一つの歌詞を複数のメロディーで歌うこともできる。日本の和歌と同様に、歌詞が重要なのである。伝承されている祖先の歌もあるが、その時の状況で即興でつくることもおこなわれる。こうした歌は、遠来の友人を迎えるときにもしばしば歌われる。歌をかけられたら返歌でこたえるべきだが、例えヤミ語がわかっても、歌には独特の歌語や表現があって、そう簡単にはいかない。こうした歌の掛け合いは、儀礼のなかでもおこなわれ、その重要な要素となっている。
 さらに村びとと親しくなれば、早晩ヤミ語の名前をつけてもらうことになるだろう。ヤミ族は、民族学でテクノニミーと呼ばれる名前の付け方をする。子供をもとに名前をつける方法で、個人は、一生の間に何度も名前を変えることになる。呼称法には大変気を使う民族だから、外来者も、親しみを感じるようになると、ヤミ語の名前でないとしっくりこないのであろう。その人の特徴から命名することになるが、しばしばヤミ族のユーモアを感じさせるものも少なくない註(2)







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