日本財団 図書館


II 劇場成立の基盤―娯楽とナショナリズム
■地域住民の熱い思
 しかし、帝国劇場と地域の芝居小屋には大きな違いがあった。
 帝国劇場と小さな芝居小屋との最大の違いは、その成り立ちの基盤である。
 内子座や八千代座などの劇場は、株式会社形式をとっていた。株式の購入者のほとんどは、それぞれの町の住人であり、多くが一株の購入者であった。内子座にいたっては、そのシステムは不明であるが「半株」の購入者も多数いた。一株は二〇円(内子座)から三〇円であったから、今の金額に換算して、数万円くらい、それぞれ数百人が購入していたので、町の世帯主の一割内外が株主であったことになる。商店主、中小地主、製糸などの工場主が株主になっていた。内子座では「奥行株」というものもあり、この株を持つものは内子座を借りて興行を打つことができ、その利益を手にした。興行株主の多くは通常の株主を兼ねていた。
 
内子座正面
 
(1)小屋の天井にさがるシャンデリア
 
(2)小屋内を灯す照明
 
(3)内子座の屋根には招き狐が置かれている
 
(4)舞台の上手。御簾内が見える
 
(5)小屋内には地元有力者の広告も復元された
 
(6)小屋内の桟敷席
 
(7)検察台
[いずれも筆者撮影]
 
 この前提には、さまざまな制限があったとはいえ明治維新以来の大都市の劇場や一八八〇年代に次々建設された全国の県庁所在地の劇場を経験した地域住民の芸能と劇場への熱い思いがあったといえよう。
 地域の芝居小屋の経営状態が判明している例は少ないが、経営資料が残存している熊本県山鹿市八千代座の場合、一九一一年の開場以来、ずっと黒字であった。年間使用日数は一〇〇日をコンスタントに数え、一九二〇年前後の最盛期には二〇〇日を超えて、今の金額に換算して年間数千万円の利益を上げていた。株主には配当があり、劇場維持のための積みたて金も増加していた。内子座の使用日数も一五〇日前後を確保していたから、利益をあげていたものと考えられる。
 もっとも、劇場経営が儲かるものだと知れ渡ると、ライバルもまた現れた。
 内子座の場合、設立当初に大洲にあった魁座という劇場が内子に劇場設立を計画し、内子座設立準備会は五百円とも千円ともいう「涙金」(確定した金額は不明)を払って、大洲にお引き取り願ったという。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION