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国立劇場・帝国劇場・芝居小屋・・・徳永高志
I 娯楽の殿堂の出現
■劇場の時代のきっかけ―帝国劇場
 松山と大洲という二つの城下町を結ぶ街道筋を少し路地に入ると、和風というにはずいぶんバタ臭い木造劇場が姿を現す。内子座である。木戸をくぐると桝席と花道に廻り舞台、目を上にやると二階をぐるりと取り囲む広告板。ひときわ目立つのが舞台上方、正面に掲げられた「遊於藝」との看板である。
 この内子座は、帝国劇場に遅れること五年、一九一六年に建造された芝居小屋である。そのキャッチフレーズは「娯楽の殿堂」。当時の(今もだが)人口わずか一万人の山間の町に、娯楽の殿堂、とはいかなることだろうか。
 一九一〇〜二〇年代は日本における最高の劇場の時代であった。現存する劇場では、康楽館(一九一〇年、秋田県小坂町)、八千代座(一九一一年、熊本県山鹿市)、内子座二九一六年、愛媛県内子町)があり、そのいずれもが、県庁所在地からかなり離れた小都市にある。神社の付設舞台をのぞいても屋根客席付きの劇場は集落ごとにあり、一九二〇年代には愛媛県だけで一〇〇はあった。人口の比率で考えれば全国的に約七千の劇場があったことになる。この劇場の時代のきっかけのひとつが帝国劇場の建設であった。
 考えてみれば、帝国劇場は、お金さえ払えば誰もが入場でき、舞台芸能とそれに付随した外食やショッピングなどを併せて楽しめる初めての「娯楽の殿堂」であった。のこされている帝国劇場の売店案内図(帝国劇場内売店案内図上左)には、洋食・和食・寿司・中華の料理店、弁当屋、喫茶店、汁粉屋、洋菓子店、小間物屋、白粉屋、煙草屋、絵葉書屋といった、さながら百貨店のような店が並んでいる。
 
■資本主養化とナショナリズム
 では帝国劇場と地域の芝居小屋にはどのような相違があるのだろうか。そこには、日本の近代が直面した二つの大きな問題、すなわち、急速な資本主義化と強烈なナショナリズムの問題が、潜み込んでいた。この二つの視点から、近代日本の劇場を読み解いていこう。明治維新によって、役者の就廃業は自由になり、江戸三座、道頓堀五座といった劇場の囲い込みも解かれた。しかし、芝居の切符が前売りされるようになった一九世紀末に至っても、歌舞伎座(一八八九年設立)をはじめとする伝統的劇場はお茶屋制度に支えられ、上席は常連客に占領されていた。近世においては、原則として役者が座元(劇場主)で興行主であり、茶屋の主人たちは、「帳元」「奥役」という今の劇場でいう総支配人や事務部長にあたるような重要な役を果たし、宣伝や切符の売りさばきなどを一手に引き受けていた。近世においては当たり前のことであるが、役者は誰しもが望んでなれるものではなく、また、日常の立ち居振舞いにいたるまで様々な枠組にはめ込まれていた。
 
八千代座の外観
[写真撮影=永石秀彦]
 
二〇〇一年五月、八千代座修復後のこけら落とし公演に集まった観客。
片岡仁左衛門が「身替座禅」を演じた
[写真撮影=永石秀彦]
 
 明治維新をむかえて、役者も劇場設立も一応自由化された。一八八九年に設立された歌舞伎座においては、劇場主が役者と切り離された。しかしながら、多くの劇場において依然として茶屋の影響力は排除できないでいた。それに対し、帝劇は、払った金銭に応じたサービスをするという、近代的な平等を、娯楽において示して見せたのである。劇場が、誰でも手を出しうる娯楽の場として、公然と姿を現した。
 もうひとつ、帝国劇場で注目される点がある。従来、帝国劇場は、ハード面では椅子席、西洋風の内装、換気装置、シャンデリアなど、ソフト面では先に挙げた興行システムをはじめとして日本の劇場としてははじめてのオペラ部や俳優養成部など、洋風劇場としての面ばかり強調されてきた。しかし、帝国劇場は当初から歌舞伎上演を企図しており、松竹の協力を得て定期的な歌舞伎興行をおこなっていたし、松本幸四郎や中村梅若などの専属俳優も置いていた。
 すなわち、帝国劇場は、当時の観客の嗜好を勘案しつつ、欧米の劇場やオペラハウスの演目を取り入れた折衷的な劇場であったというべきであろう。
 二〇世紀初頭に陸続と建設された地方の芝居小屋は、ながいあいだ、歌舞伎がその演目の中心で大都市の歌舞伎劇場の田舎版であると思われていたが、内子座や八千代座の演目をみる限り、歌舞伎は全体の一割から二割程度で、やや大衆的ながら、帝国劇場と同様、和洋を取り混ぜありとあらゆる芸能をおこなっており、まさに「娯楽の殿堂」であった。







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