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ぬれ落ち葉
 
 実は昨日の晩、樋口恵子先生ってご存じですか、この間、東京都知事選に出て、石原慎太郎候補と樋口先生とちょっとご一緒していたのだが、樋口先生っていろんな言葉を、流行語を作ることで有名な方。何が代表的かというと、「粗大ごみ」「ぬれ落ち葉」、全部男のことだという話。(笑)
 男は粗大ごみだ、男は家事もできないで、何もできない、まあ、私なんかも粗大ごみの部類、土曜、日曜になるとゴロゴロその辺に転がっている。粗大ごみというのは、多分、まだ現役時代の男を言っているわけ。子供の教育にも関心を持たず、家事もせず、休みとなればゴロゴロしているのが粗大ごみ。
「ぬれ落ち葉」というのは、定年退職になったけど、やることがない。やることがないので家にいるわけで、今、見渡すと、今日はかなり男性の方がおられるので心強い。これが十五年前だったら多分女性が多かったんじゃないか。
 これは男に責任があるわけじゃない。昔の定年年齢でいっても五十五才、六十才まで働き、女性の方はもちろん家で一生懸命に働き、子育てが終わって、子供が高校生ぐらいになれば、ちょっと楽になるというのは、大体四十代位から、大分男性よりも早く、その時が来るので、さあ、川柳でもやってみようかということになるわけ。男性の方はそういかなくて、しかも現役時代は粗大ごみである。
 そして、会社を定年退職になり夫婦二人でいると、奥さんの方は色々とする事があるわけで、近所づき合いとか、あるいは趣味とか色々なことをやっていこうとすると、おれも連れていってくれよとか何とか言う。それで、嫌いな夫だったらさっと一人で行くのだが、そうは言いながら他人じゃないし、ほっとくわけにいかないから、ぬれた落ち葉はやっぱりほうきにくっついてきて、なかなか離れないなんていうことを言われていた。
 流行らなかったけど、同じような時に出た言葉で「わし族」というのがあって、それはやっぱりそうやって奥さんが出かけようとすると、「わしも行く」と言ってついてくるという話を言われていた。しかし、非常に残念だが、事実だった。私もその時に、さっきちょっと紹介したけど、生涯学習というのを担当する事になりました。
 東京の丸ビルといって、今、すごく話題になっているところがある。東京の丸の内は日本のオフィス街の中心みたいなところ。あの辺りは喫茶店、大会社が一杯あった。今は喫茶店といったって立ち飲み屋みたいなコーヒー屋が多くなったけど昔は喫茶店があった。その喫茶店に平日の昼に行くと、サラリーマンは大体、昼ご飯を食べた後、コーヒーを飲む。
 定年退職後の人たちが来て、「いやあ、あの取引のときはよかったな」とかいうような話をしていた。もう定年退職だから出勤してこなくていいけど、朝からすることもないので、じゃあといって会社に行ってみると、「あれ、おまえも来てたのか」みたいな話である。これ、人ごとじゃない。
 
父のこと
 
 実は私の父も大正十年生まれです。だから、「ぬれ落ち葉」なんていう言葉のはやった頃、六十代の後半位で、現役を退いて、大学の教官をしていたが、やめたらすることがないと言う。別に私の父に限らず、わし族の方もぬれ落ち葉の方も、現役時代はみんな一生懸命働いてすばらしいことをしている。それは女性の方にはちょっとお分かりにならないようなところがあると思う。みんな働いて、家族のために、あるいは社会のために一生懸命働いて。私の父親も、医学部の教授だったから、大学病院で色々な人を助けたりもしていたわけ。ところが、定年退職すると、何にもすることがない。弱った。
 大体、朝起きると、庭に水をまくとすることがなくなる。それで、朝ご飯を食べるともう本当にすることがなくなる。うちの父なんて、ご飯からご飯の間待っているからいいけど、あの頃もっと深刻な話が出ていた。何もすることがないと朝から酒を飲んじゃって、さあ、これは大変だと。
 実は昨日、樋口先生に言った。先生は女性で、本当に活発な方だから、ぬれ落ち葉とおっしやつたけど、私たちは、はいそうですかと笑っていられない。ぬれ落ち葉撲滅運動というのをやらなきゃいけない。それが、生涯学習という問題。
 
生涯学習の効果
 
 一応、ぬれ落ち葉撲滅運動=生涯学習を盛んにしようというのは、大成功している。もう「ぬれ落ち葉」なんて言葉は誰も使わない。それはもう昔の話。話したのは十五年前の話で、今、定年退職になってすることがなくなったなんて人はいない。みんな川柳をやろうとか、色々なことをやろうというふうになってきている。
 生涯学習というのを呼びかけなかったら、どうなっていたかと思うと、それはぞっとするところで、特に十五年前に定年退職した人たちというのは一番苦しい時代を生きてきた方々。戦争に行けと言われて大概、戦争に行き、戦争に行かなくたって戦後の苦しい時代を生きてきた。こんなすばらしい立派なホテルを建てられるような、この社会をつくってきた。その人たちの働きがあったから、この社会があり、私たちはいい服を着たり、いいご飯を食べたりできる。その人たちが定年退職になってすることがないなんていうのは情けない。だから、生涯学習。何でもやりたいことをやりましょうよということになる。
 
川柳は好きだから楽しい
 
 その頃、生涯学習は何でもいいと言っていた。何でも生涯学習。日本の方はまじめだから、生涯学習というと、大学に通ってシェークスピアでも勉強しなきゃいけないと。それももちろん生涯学習。そんなにかた苦しく考えることはありません。生涯学習、大体その学習の学という字がよくない。学という字は楽しいという字を当ててみよう。楽しいという字はガクと読む訳だから。川柳をやっていたら楽しいわけだ。楽しくもないのにこういうところに来ている人はいない。誰も来てくれと頼んだわけじゃない。ここに来なかったら年金をもらえないとか、ここに来なかったら出世しないとか、そういう話じゃない。みんな自分の意思で自分のお金を使って川柳をやりたいから来ているので、それは好きだから来ている。好きだから楽しい。嫌なことが好きだという人はよっぽど変わっている。楽しいことをやればいいだけの話。だから、俳句が楽しいという人もいれば、川柳が楽しいという人もいる。俳句の方が難しいから高級だとか、そんな話じゃない。俳句をやった方が楽しい人は俳句をやればいいし、川柳をやった方が楽しい人は川柳をやればいいだけのことだ。
 川柳は立派な方で、「おれ、マージャンをやっているけど、それでいいだろうか?」とか。マージャンでもいい。だけど、お金をかけたマージャンをやって、負けが込んで払わなければならないから、サラ金から金を借りなきゃいけないなんていうのは、ちっとも楽しくない。これは生涯学習じゃない。ゴルフもそうで、自分で楽しくやっているのはいいけれど、取引先とゴルフに行って、取引先よりいい成績を出しちゃいけないから、わざと反対側の方に打っちゃったというのは、これはお仕事。楽しくない。
 
楽しさは人によって違う
 
 つまり、生涯学習というのは、よろず楽しいことなら何でも結構。そうすると、楽しいことは人によって違う。釣りなんていうのは好きな人が多いジャンルで、逆に好きじゃない人にしてみれば、何だ、あんなもんということになる。ただそこに座っているだけじゃないかと。川柳は、一応ちゃんと考えている。釣りというのはただこうやって座っているだけだろうというふうに、釣りが好きじゃない人から見れば見える。だけど、釣りをやっている人からすれば、こうやったら釣れるか、ああやったら釣れるかと色々なことを考えていくわけで、それは人には分からない。
 皆さんが、川柳なんかやって何がおもしろいと言われる場合があるように、皆さんも他の人にそんなことをやってと思っちゃうことがあるかもしれないが、みんなそれぞれ意味がある。
 これもその頃、「イワシの頭も生涯学習」と言っていた。「イワシの頭も信心から」という言葉がある。その意味は、イワシの頭だろうと何だろうと信心の心を持って拝めば、それは尊い自分の心のよりどころになるよという話。何もキリスト様じゃなきゃだめだとか、お釈迦様じゃなきゃだめだということじゃなくて、自分がこれはありがたい、ありがたいと思って、お天道様を拝んだっていいし、イワシの頭を拝んだっていいという意味である。「イワシの頭も生涯学習」というのは、イワシの頭でも何でもこれが私の生涯学習、私の楽しいことという意味。
 
生涯学習と生きがい
 
 だから、楽しいといったら、すぐにまた、酒を飲むのが楽しいとか、パチンコをやるのが楽しいという話がある。パチンコも悪くはないが、生涯学習はもう一つ条件があって、生きがいにならなきゃいけない。「生涯学習」の「生涯」というのは、難しい言葉で、これを「生」のほうを生きると読んで、「涯」のほうをそのまま読めば「生きがい」なる。だから、生涯学習というのは生きがい、楽しいという字を書いた楽習、生きがい楽習、つまり、楽しい生きがいになる。
 川柳は楽しい生きがいである。川柳があるからいい、川柳がなくなったら死ぬとかそういうことじゃないと思うが、これがあるから楽しく生きていける。釣りをやる人は、六月になったら、アユの解禁だ。アユの解禁が終わると、来年のアユの解禁まで元気でおらにゃいかんなと思うわけだし、菊づくりをやっている人は、また来年もこの菊の花を咲かせにゃいけないと思うだろうし、川柳大会をやっている人たちは、来年の埼玉大会まで元気でいなきゃいけないとか、そういうふうに思うわけで、それは人間の生きる活力になる。
 それを、ぬれ落ち葉さんとか、私の父みたいに毎朝起きてすることがなくて水をまいたら終わりで、はあーと言っていると、来年まで生きていこうという気持ちにならない。みんな元気で長生きしてもらわないといけない。長生きして、寝たきりで、ただ生きているだけみたいな状態になったってしようがない。だから、とにかく生きる喜びを持っていく。
 だけど、寝たきりになったってできることがあるわけで、川柳がそうです。それこそ川柳、俳句、短歌になると、正岡子規という人は晩年は本当に寝たきりだったわけで、寝たきりの中から、あれだけのものをつくっていたわけだ。
 本当に生涯学習というのは何でもいい、自分にとっていいことだったらいい。だから、見栄を張って、あれをやると格好いい、自分は本当は楽しくないけど、見栄を張ってやっていたらこれはあまり長生きできない。本当の生きがいにならない。ストレスがたまる。大体病気のほとんどはストレスによって起こるわけで、それよりも自分の好きなことをやって、人から何て思われようが、そんなことは関係ない。
 お年寄りだからといって、お年寄りらしいことをしなきゃいけないわけじゃない。お年寄りは盆栽をしなさいじゃない。お年寄りがコンピューターをやる、子供が盆栽をやってもいい、ゲートボールをやってもいい、あるいは男性が編み物をやってもいいし、女性が空手をやったっていい。男性だから、女性だから、若いから、年寄りだからじゃなくて、自分が楽しいことをやりましょうよという話。
 ちなみに、私の父、どうなったか、ご心配になっていますか。(笑)だから、することがないわけです。私もせがれだから、これは困ったもんだ、どうすると。「何かないですか、何か」「何もない」「じゃ、手っ取り早くテレビとか見たらどうですか」「テレビを見たっておもしろくないなあ。ニュースは見てもいい」「ドラマとか見ないんですか」「だって、あれはうそだろう」「水戸黄門なんかどうですか」「だって、あれは別にどうってことない。あそこで殺されたって死んでないもん、あれ別に」。(笑)言われりゃそういうことだ。
 ドラマとか芝居を見るのだって約束事が分からないと、あるいはそういうフィクションの楽しさというのを分からないと分からない。何しろ大正十年生まれで、軍国主義の時代の教育を受けているから、お芝居とか小説なんか読むのは軍国主義の少年、鹿児島の田舎ですから、みんな兵隊になって行くのが偉いと思っているのに、そういうのはあんまり兵隊になるのと関係ない。だから、数学とかものすごく勉強している。数学とか国語とか英語とか、要するに兵隊になるのに必要な学問は一生懸命勉強しているけど、関係ないのはやっていない。兵隊になる学問というのは、定年後あんまり楽しめるようなことではなくて、スポーツだって兵隊になるための器械体操とかはやっているわけだけど、サッカーを楽しむとか、野球を楽しむなんていうのは、関係ないよという話になるので、全然やっていない。すると、テレビを見てもわからない。
 ここでも、金毘羅歌舞伎なんてあるけど、みんな男の人がやっているわけで、考えてみれば気持ちの悪いことだ。(笑)それは、歌舞伎というのは男性がやるという約束事をみんなが理解しているからで、全く知らない人が初めて見たら「気持ち悪いじゃないの?」「何で男がこんなことをしているの?」というふうに思う。だから、私の父なんかそう思っていたわけで、「何だ、男がこんなことをして。歌舞伎、何だ、これは」もう、くそまじめで、そういうのを見ても分からない。小説を読んだって全然おもしろくない。「じゃ、美術館に絵を見に行ったらどうですか」「あそこにリンゴがかいてあるだけじゃないか。だったら、リンゴを食べるほうがよっぽどええやないの」。(笑)
 
何とか心
 
 音楽もだめで、全部騒音にしか聞こえないと言う。でも、皆さんだって若い人たちのロック音楽なんか騒音に聞こえるでしょう。自分があまり聞いたことがないものは騒音に聞こえる。若い人は義太夫とか聞くと騒音に聞こえたりするわけで。音楽を一切聞いていない人というのは、みんなの心を楽しませるべき音楽も、「何かうるさいな、こんなのが流れてきて」みたいなことになってしまう。「ゲートボールでもやったら」「何がおもしろいんだ、あんな球をたたいて」、確かにそう言われりゃスポーツなんて基本的にはそうで、重量挙げなんか重たいものを持ち上げているというだけのことになる。
 つまり、スポーツ心とか、芝居心とか、音楽心とか、だから、皆さんも川柳心を持っているからそうなる。川柳心がなければ、「マッチ一本火の用心」とかそういうことになっちゃうのかもしれないけれども。「ゴホンと言えば龍角散」とか、何かそんなことになっちゃうのかもしれない。川柳心があると、人間心の機微なんていうのがあるからやる。その「何とか心」というのがないと、それが何だという話になる。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」、それがどうしたという話になる。(笑)それは鳴るだろうよという話になるわけ、だから、全然楽しめない。何も楽しめない。どうしたらいい。
 
趣味と川柳
 
 だけど、人間、そうは言うけど、これだけの社会の中で、何にも楽しみがないということはない。みんな自分で考えてみればいい。今日は皆さん方楽しんでいらっしゃる。だけど、川柳以外にも色々趣味をお持ちだろうし、そういうのをどんどん広げていけばいいわけだ。だから、合わなかったら、それは無理に誘っちゃいけないけれど、川柳をやっていない人に、色々言ってみればいい、どうですかと。無理をすることはない。
 私の父は軍隊に行っているときに、上官の将棋の相手をさせられて、将棋というのをそういえばやっていたなと。考えてみると、確かに軍隊から帰ってきても、病院の当直で夜中ずっと患者をみなきゃいけないから、ずっと起きていなきゃいけないような時に、同僚と将棋を指す。将棋は立派な生涯学習である。「じゃ、私がお相手を」といったら、「おまえとは嫌だ」と言う。(笑)おまえの方がきっと強いから嫌だと。「いや、そんなことありませんよ」と言うと、「わざと負けるだろう」とかなんとか言って、嫌がる。だからやらない。私とやるのは、身内だし、そういうのもあるだろうから。
 皆さん方もこうやって川柳という集まりがあって、グループでおやりになりますけれども、将棋もクラブみたいのがある。行って帰ってきたら、もう二度とやらないと言って怒っているので、「どうして二度とやらない?」と聞くと「小学生に負けた」とか言ってまた怒っている。(笑)







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