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長門の造船歴史館 企画展 「船と信仰展」 出品解説
I 造船儀礼と船玉
 
1 手斧始め(チョウナハジメ)と祝詞(ノリト)(明治4年・千葉野村文書)
 造船に取りかかる日には、造船場所に道具や神饌を供えて神に加護を祈る儀式を行った。これを「手斧(チョウナ)始め」といった。注連縄(シメナワ)で周囲を囲み、中央の三宝に、神饌・道具などを供えた。その後、祝詞をあげて、材木に墨打ちし、祝宴を行った。展示している祝詞は、江戸時代に倉橋町本浦小林地区で備前屋を称して造船業を営んでいた野村氏が伝えてきたものである。明治4(1871)年に、当時の棟梁野村豊敏・豊時の造船場を清めて、工事の安全を祈るためにあげたものである。祝詞の常套句の中に当時の藩主浅野長勲の名前や倉橋の造船技術の高さなどを盛り込み、作業の安全を祈っている。
 
2 船玉込め神事(御倉)
 船玉は御倉(オクラ=船玉を入れる小さな五角形の入れ物)に納め、船の中心部に封入した。大きな船ではツツ、小さな船では重要部分であるエンジン部分にはめ込んだ。船卸し前に、御倉を曲尺、鎚、墨壺、米、塩、魚とともに供えた。
 
 
3 船玉(神体)
 船玉として、御倉に封入するものは地域によって多少差があった。倉橋町の植崎造船所では(1)障子紙で作った猿田彦など二神の人形を抱き合わせの形でいれる。(2)賽子は2ついれる。置き方は、上に1、下が6である。(3)塩水で洗った5円玉を12枚、昔は1文銭であったが、現在では5円玉を使用する。閏年には13枚。他では(4)塩(5)米などであった。
 
4 船玉祭器
 船玉を祀る時には、祭りを行う場所を清めるため、供物として御神酒が必需品であった。倉橋町の中本造船所では、「御神酒」と記された木箱に、大中小朱色の盃と鉄製の銚子を伝えている。その箱には、「船卸(オロ)シナサムトシテ気代ノ御幣ヲ奉ラクヲ・・・」と記載された船玉を入れる際の「船玉祭詞」もあり、船卸しを前に船玉を入れる儀式に使用されてきたことがわかる。箱裏には、「嘉永四(1851)年寅十一月吉日 野村姓」と墨書があり、江戸時代の倉橋の棟梁として知られる野村氏の祭器を譲り受けたものと考えられる。所有者の中本義章氏は、この展示会を機会に倉橋町に寄贈された。
 
木箱裏面
 
 
5 木割書・観音経
 棟梁は、修行した後に、その技術習得の証明として師匠から「木割書(設計書)」「船玉祭文」などをセットで譲った。今回展示したものは、江戸時代に倉橋島で備前屋を称した船棟梁であった千葉野村氏が伝えてきたものである。戦災などで多くを失ったが、今回展示している「木割書」「観音経」などを保存されてきた。船を造るには、技術のみならず、建造に関わる儀礼も重要であり、秘伝とされていたことが分かる。
 
 
6 船卸し(昭和32年頃・1957頃)
 
倉橋町須川地区での観音丸の船卸し
 
 船卸しは、造船が無事終わった行事であり、今後の船体の安全を祈願する重要な節目である。倉橋町の植崎造船所では、御神酒で清め、三宝に重餅、小皿に米・梅干・魚を供えて、祝詞をあげた。儀式後にモチマキをして祝った。
 
7 船卸しの祝い唄
 船卸の時には、祝い唄が、歌われた。まず棟梁が口火を切り、大工が歌った。
「新造 卸して 浮かべてみたら 沖の鴎の 浮き姿 面白や」と歌うと座の一同が「ひょろーはヒョウタンジャ ええともええとも」と合の手をいれた。







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