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「船と信仰」(倉橋島を中心として)
 
1 船玉信仰
 「板子1枚下は地獄」とは、船乗りが口にした言葉である。自然という巨大な存在に対して、船乗りは日常から自らの安全を祈った。特に船に宿る神としてフナダマ(船玉・船霊、以下船玉と記す)がある。船卸し(フナオロシ)の最大の儀式が「船玉込め」で、帆船時代には帆柱を支える筒(ツツ)に御倉に納めた神体を彫り込めた。この儀式の呼び名は地域により違いがあり、因島箱崎では「船玉納め」、豊田郡瀬戸田では「御性根を入れる」、豊田郡東野では「おたましをいれる」、倉橋では「ごしんを入れる」といった。近年は、エンジン部分など船の中心に打ち付けるなどしている。
 神体は、紙人形・賽子・銭・五穀・化粧道具・毛髪などである。地域によって差があり、毛髪が無い場合や、男女の違いがあったり、五穀といってもすべてを納める場合と米だけの場合などもある。倉橋町の植崎造船所の場合では、障子紙で作った猿田彦など二神の人形を抱き合わせの形でいれ、賽子を2つ入れた。置き方は、「天一地六表三合わせ艫四合わせ」で、上に1、下が6で、船の船首部分である表が3、後部である艫が4という置き方をした。これらは船の安定を祈るものと言われている。さらに銭、昔は1文銭であったが、いまは塩水で洗った5円玉を12枚納める。閏年には13枚納める。さらに塩と米を納めた。植崎造船所では髪の毛は納めなかっ
たという。
 船玉には、神秘的な音を出すイサミという現象がある。これは九州・瀬戸内海・山陰沿岸に伝承しており、特定の場所や天候でイサミがあり、その音で大漁や逆に悪天候を知らせるというものである。また、船玉は船頭について船から下りることもあるという。船を譲り受けた時には、それまでの船玉は以前の船頭についていくので、新たに船玉を入れるという。
 
2 造船と信仰
 造船に対しては、作業の節目節目に安全を祈るために様々な儀式が行われた。田中文書(『倉橋町史III』)でも天保13(1842)年に田中屋万六が、豊後森藩の久留島氏に提出した積り書に「造船中手斧始(チョウナハジメ)より御船颪(フネオロシ)まで大工中へ振る舞い」とあり、儀式にともない酒を振る舞うことが記載されている。造船に関わる、主な儀式は次のとおりである。
チョウナハジメ(作業開始の手斧始め)
カワラズエ(船の船底であるカワラを固定した時)
イタヅケ(棚=舷側の板を張り終わったとき)
タナゾロエ(棚=舷側が完成したとき)
フナオロシ(船が完成し、船玉を入れ、進水式)
 船によっては、カワラズエを起工式とする場合もあり、船底が完成した時に行う。安芸三津では、船頭は酒1升をもって、造船所に行く。棟梁は三宝にカワラケ(土器)3枚に洗米、塩、イリコを盛り、カワラの中心に供える。まず、棟梁がトリカジ(左舷)より船に上がり、御神酒を供えて船の安泰を祈願してオモカジ(右舷)から降りる。ついで船頭が同じようにする。その後に小宴を行う。
 造船の儀礼では、祝詞は棟梁があげた。このため、それぞれの棟梁家では、祝詞を伝えている。今回、展示された祝詞(千葉野村氏・倉橋町中本造船所)には、それぞれに振り仮名が振られており、慣れない棟梁が唱えやすいように工夫している。
 
3 厳島信仰と倉橋島
 厳島神社の祭礼の中でも一番知られているのが管絃祭である。旧暦の6月17日に厳島の三女神の御霊を乗せた御座船が三管・三絃・三鼓の9種の楽器で雅楽を奏でながら大鳥居から対岸の地御前神社(廿日市市)、宮島の長浜神社、大元神社を巡るというものである。平安時代に平清盛が京で行われていた船管絃を取り入れたと伝えている。この御座船は、3隻を舫(もや)って造るが、古来倉橋島で建造され、奉納されてきた。その由来は、明確でないが、江戸時代の倉橋島の船棟梁濱田屋善右衛門以来代々濱田屋が奉納してきた。御座船に使用された管絃船は縁起が良いとされ、祭り後は希望の漁師などに払い下げられ、翌年の建造費にあてられていた。木造船業の衰退とともに、昭和37年に倉橋町の桂浜に格納庫を作り、保存して毎年使用するようになった。現在では大正12年に結成された「管絃船御用講」を継承している有志によって御座船の奉納行事を行っている。講のメンバーは管絃祭の前日から神社に出向き、祭が終わるまで神社で生活をする。
 こういった歴史的な背景もあり、倉橋島には厳島神社に関する伝承が多くある。本来厳島神社は倉橋に作られるはずであったが、様々な不都合により、宮島に鎮座したというものである。(詳しくは展示解説参照
 また、管絃祭の晩は「十七夜」と呼ばれ、様々な行事も行われた。(詳しくは展示解説参照
 
4 奉納された船模型・板図
 神社に、船の安全を祈って模型を奉納した例は、全国的に多い。倉橋町近辺でも、安芸郡海田町の熊野神社に奉納された船模型(海田町ふるさと館に展示)は大きさ、古さでも貴重なものである。倉橋町域では、今回展示した長谷の河内社の模型、鹿老渡の伊勢社に奉納されていた模型が江戸時代のものである。その他では、近代以降の機帆船や旅客船の模型などが各地域の神社に奉納されている。板図は、棟梁・大工が大名などの船を建造した時に、船の完成に対する感謝と船の安全を祈願するため、その船の板図(板に記した設計図)を棟梁・大工の地元の氏神社か、大名などの氏神社に奉納した。「長門の造船歴史館」に常設展示されている怒和屋半三郎奉納の「板図」はその代表例である。倉橋島の江戸時代の代表的な船棟梁怒和屋半三郎(友沢氏)は大名の御召船の建造を数多く請け負っている。特に長州藩との関係は深く、天保14(1843)年に関船を建造し、その完成により桂浜神社に奉納したものがこの板図である。同様の奉納板図には、倉橋島の棟梁田中屋万六が、豊後森藩の久留島氏の御召船「多聞丸」の建造を行った際に、藩主の氏神である三島神社(現大分県玖珠町)に奉納したものがある。
 
田中屋万六が奉納した森藩御召船
「多聞丸」の板図(三島神社)
 
5 奉納された船絵馬
倉橋の船絵馬
 船絵馬は、航海の安全を祈願して神社に奉納したり、難破した際に海上で神仏に祈り、無事生還した際に、感謝の意味をこめて奉納した。倉橋町では、尾立地区の観音堂に7点、同地区の八剣神社に1点、海越地区の観音堂に1点、釣士田地区の大歳神社に6点、海越地区の薬師堂に2点、長谷地区の河内神社に2点、本浦の塩竈神社に1点の合計20点が、保存されている。多くは、住吉大社の社・鳥居・太鼓橋・澪標(みおつくし)、日ノ出を背景にしており、中央に左向きで船を配置している。船上には船頭など乗組員が立ち、船名を記した幟を付している。これらは、船主が奉納しており、19世紀初頭から全国的に流行した様式化した船絵馬である。今回は、比較的保存のよいものを展示した。
 特筆されるのは尾立の観音堂である。観音堂は、尾立地区の通称観音谷にある。海から小路を入った集落の奥の山際に建立された小堂で、内部に10点の絵馬が奉掲されている。そのうち、7点が船絵馬である。宝暦11(1761)年から、明治6(1873)年まで奉納年代、奉納者、船名などが確認できる。背景も社殿・鳥居・太鼓橋・日ノ出など、様式化された住吉神社から、尾立付近の海を描いたと思われるものまで多彩な内容となっている。
 特に、最古のものは宝暦11年の船絵馬で、奉納者は、「倉橋尾立浦木屋与重郎」で裏面に「南無大慈悲観世音菩薩奉献之」と墨書されている。宝暦11年の船絵馬は、広島県内では、尾道の浄土寺に奉納されている宝暦13年の絵馬とともに古いものである。
 
○参考文献
「民間信仰」(広島県民俗資料 村岡浅夫)
「神と霊魂の民俗」(『講座日本の民俗』雄山閣)
『瀬戸内海西部の漁と暮らし』(神奈川大学日本常民文化叢書3 進藤松司)
『倉橋の奉納額と石造物』(倉橋町)
『倉橋町史 通史編』(倉橋町)
『倉橋町史 資料編III』(倉橋町)
『倉橋町史 海と人々の暮らし』(倉橋町)
『和船史話』(石井謙治 至誠堂)
『船』(『ものと人間の文化史1』(法政大学出版局)







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