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Session 1
「概念の形成」
Session 1-1 海を護る−新しい安全保障の概念:旗国主義の変容と新しい海洋法秩序の形成
Session 1-2 海上テロリズムの脅威と対策
Session 1-3 マラッカ・シンガポール海峡における海上保安の向上
討議概要
 
Session 1-1
海を護る―新しい安全保障の概念
旗国主義の変容と新しい海洋法秩序の形成
奥脇直也
東京大学大学院法学政治学研究科 教授
 
概要
 
 Securing the Oceanの概念は、Ocean GovernanceとかIntegrated Management of the Oceanと共通の問題にアプローチする視点を提供する。それは海洋の問題を陸地と関連づける視点を含んでいる。資源問題、汚染、海上テロなどは、海洋利用の安全と陸の安全との複合的問題である。現在、この海洋利用の利益と陸の安全とのバランスのとり方が問われている。伝統的な海洋法秩序を支えてきた合意主義(consentialism)と旗国主義(flag state control)は大きな曲がり角にある。すでに海洋法条約は、公海における旗国主義の限界を乗り越えるために、資源については排他的経済水域制度を導入し、海洋環境の保護および保全については沿岸国による執行の制度を導入した。しかしなおその外側にある公海における旗国主義の適用が、排他的経済水域制度を脅かす。ストラドリング魚種資源や高度回遊性魚種資源の漁獲規制の問題、国際漁業条約の締約国でない国の漁船によるIUU漁業の規制、海上テロリズムの防止のためのSUA条約改正案、アメリカ主導の大量破壊兵器拡散阻止イニシアティブ(PSI)などによる旗国主義の部分的な修正など、旗国主義の実際的な困難を乗り越える方向で諸国の合意が発展しつつある。また海洋保護区域(marine protection area)の制度が提案されてもいる。こうして徐々に陸の利益が海の利益に優位しようとすらしている。報告では、最近の海洋活動に関する新たな規制の動きを取り上げつつ、新しい海域利用秩序について検討する。
 
海を護る――新しい安全保障の概念
旗国主義の変容と新しい海洋法秩序の形成
奥脇直也
現職:東京大学大学院法学政治学研究科教授/日本学術会議会員
学歴:東京大学法学部卒業、同大学法学政治学研究科博士課程修了(法学博士)
東京工業大学、立教大学を経て現職。専攻は国際法、海洋法、領域法など。「現代国際法の指標」「国家管轄権」などの著書のほか、国際法外交雑誌、世界法年報などへの掲載論文多数。
 
1. レジームの複合化とガバナンス
 今回のシンポジウムの課題は「海を護る」(Securing the Ocean)ということになっている。昨年のテーマは「海を守る」(Protecting the Ocean)であった。この両者の違いについて、私が今考えているところを述べてみたい。SOF海洋政策研究所はSecuring the Oceanを「新しい安全保障の概念」として提示している。安全保障という概念は、伝統的に戦争と平和あるいは軍事的安全にかかわる概念であった。従って内容のないままに拡大することは保護主義的あるいは閉鎖的な印象につながり、必ずしも適当ではない。たとえば食糧安全保障とか情報安全保障といったような用語の使い方は避ける方がよい。これに対して、例えば発展途上国への新たな援助の方式として日本が現在、最も主導的な役割を果たしている「人間の安全保障」(human security)の場合には、国家の安全保障と対置する意味で人間の安全保障をいかに確立するかを目標としている。そこでは従来のODAへの批判を乗り越えて、援助の成果が市民社会(civil society)の末端にまで行き届き、かつ市民社会の中で各個人がempowerされ、援助を梃子にして自立を達成することにより、社会のなかでsecureと感じる社会を建設することが、具体的に目指されている。human securityの概念の下では、かつて1960年代末から70年代にかけての「平和」概念の転生をめぐる議論が、はじめて具体的な政治課題として取り上げられているともいえる。「平和概念の転生」は、ラポポルトなど平和研究者(Peace Research)が提唱したものであるが、それによれば単に裸の暴力(physical violence)が存在しないという意味での平和は消極的平和(negative peace)でしかない、この消極的平和は人々の平和喪失感(peacelessness)を払拭できない。社会の中に構造的に組み込まれた差別や貧富の差が飢餓や医療の不平等として現れ、その結果として人の命が奪われていくのであれば、それも人の死によってその規模を計測できる暴力に他ならない。この暴力は「構造的暴力」(structural violence)と呼ばれたわけだが、構造的暴力がある限り人々は平和喪失感を抱き続ける。この平和喪失感が克服された状態が積極的平和(positive peace)と定義される。「人間の安全保障」プロジェクトにおいても、市民社会の中の具体的な人間がsecureと感じるかどうかがsecurityの基準とされてくるわけで、そうした見方の転換を具体化するとき、社会は一つの発展をすることになる。
 Protecting the OceanがSecuring the Oceanへの変化は、もう一つの見方の変化に関係している。それは国際政治環境の変化とともに、国際政治学のなかでレジーム論がガバナンス論に移行してきた点に関わる。もともと国際関係においては、従来は各分野あるいは問題ごとに国家間利益の対立の中から共通利益を抽出して合意を結び、その合意の枠内で個別的に問題を処理するという方式がとられてきた。こうしてそれぞれの問題領域は分離され、争点ごとにより洗練されかつ孤立化された自己完結的(self-contained)な制度が作られる。貿易レジーム、環境レジーム、人権レジームという具合である。冷戦下においては軍事力が絶対的な意味をもっていたが、冷戦の崩壊により逆に軍事的安全保障のタガが緩んだため、問題を国際協調によって解決する必要が生じてきたが、そのためには各レジームをまたがった秩序を構想せざるを得なくなる。もっとも先端的なレジームである貿易においても、貿易と環境とか、貿易と人権というように貿易関連事項(trade related issues)が政治の中心的課題になってくる。レジームの複合争点化であり、そこではレジームの正当性が主要な問題となる。GATT・WTOとかIMFに対する市民社会(civil society)の側からの抗議運動が盛んになるのも、レジームの正当性(legitimacy)が問われているからである。
 そこでレジーム論に代わって出てくるのが、いわゆるガバナンス論である。もとより国際社会には統一的な政府機構があるわけではない。国際社会が合意によって秩序の形成を進めることに変わりがない。しかし国際社会にも国家間の個別利害の対立を越えた公法的な規制が現に存在しており、それがどのような仕組みで各国の個別利益を規制し、国際社会の公共的な秩序を維持しているかに関心を持つのがガバナンス論である。「政府なき統治」(Governance without Government)という概念が提示されるのもそのような意味において理解することができる。
 
2. 従来の海洋レジームとガバナンスの欠如
 以上の意味において、海洋の保護protecting oceanから海洋の安全保障securing oceanへの議論の進化は、レジーム論からガバナンス論への変化と重なっている。伝統的な海洋レジームはその中に公海漁業資源レジーム、航行レジーム、環境レジーム、鉱物開発レジームなどの下位レジームや、さらにその下の地域漁業条約レジーム、南極環境レジームなどの個別化された下位レジームを含んでおり、それゆえ海洋レジームはさまざまな海洋活動の利害調整、つまりはレジーム間の調整についての人間の英知の宝庫であり、昔からガバナンス論が展開されていたともいえる。領海における排他的主権と外国船舶の無害通航権および環境保全、公海における包括的自由と旗国主義およびその例外としての海賊法制、オットセイ漁業、捕鯨、さらにサケ・マスなの公海漁業規制の仕組みといったような具合である。しかし海洋レジームは下位レジームの調整という意味では、レジーム横断的であったが、それ自体はまた自己完結的でもあった。すなわち、伝統的な海洋レジームは陸上レジームからは分離され、また立法面と執行面とが分離されているという特徴をもっていたのである。
 海洋レジームと陸上レジームの分離とここでいうのは、端的に言えば、海洋レジームはもっぱら海域利用に固有の問題を扱い、陸地の問題は扱わないということである。陸地の問題は扱わないがゆえに、そこに住んでいる人の問題は扱わないということである。たとえば、海洋の汚染の圧倒的部分は陸起因汚染であるが、海洋レジームは主として船舶起因汚染(vessel source pollution)のみを問題としてきた。もちろんこれはタンカー事故などによる海岸の大規模な汚染が劇的な形で発生したからであるが、もう一つの要因は陸上には人間が住んでおり、陸起因汚染(land source pollution)を防止しようとすれば、当然に、陸上における人の生活の規制、生活パターンの変更などが必要となるからであった。陸上起因汚染は実は公海を含む広い海域の環境に関係するが、陸上の人に直接関係のある汚染が発生する領海は領域主権の対象として国内管轄事項とされてきたのである。陸上の問題は基本的に国家の領域主権に基づく管轄権の対象であり、主権事項であった。海洋法はビヒモス(Behemos)を飼いならそうとするが、リヴァイアサン(Leviathan)には手を出さなかったのである。
 海賊についても、もっぱら公海における重大犯罪と考えられてきた。本来、海賊が人類の共通の敵(hostis humani generis)であるならば、海域の如何を問わず、国家が刑罰権を行使してこれを処罰する義務を課したとしてもおかしくはない。しかし海洋レジームは、海賊について普遍的管轄権(universal jurisdiction)を認めて旗国主義(flag-state jurisdiction)の例外とし、公海上で海賊船に遭遇したいずれの国の艦船にも海賊を捕らえることを認めつつも、しかし普遍的管轄権はもっぱら公海における執行(enforcement)に関するものにとどめ、海賊という組織犯罪(organized crime)を撲滅するために犯罪化によってその処罰を義務づけるというものではなかった。海賊処罰法令を制定するかどうか、また海域からの沿岸地域社会の略奪といったような海賊の一つの典型的な形態についても、その犯罪化(criminalize)と処罰を国家の国内管轄の立法裁量(legislative discretion)に委ねていたのである。また領海における海賊行為の取り締まりは沿岸国の主権事項として執行管轄権に関しても調整することはなかった。現在、東南アジア地域の領海において多発している海賊、正確には武装強盗(armed robbery at sea)についても、領海内で有効にこれを規制しない沿岸国の刑罰権の有効な行使の責任を問うような形で、その領域管理責任(responsibility to control territory)が問われているわけではない。依然として領海は沿岸国の管轄権が排他的に行使される場である。沿岸国が沿岸海上警備(marine police control)の能力を向上させるための技術的協力措置はとられているものの、もしその原因である沿岸社会における貧困・飢餓をそのままにこれを強行すれば、沿岸社会の治安の悪化あるいは政治的不安定化につながってしまう。領海内の海賊には沿岸国の住民が関与しており、海賊を有効に取り締まることは、それら武装集団(armed group)の略奪の対象が国内に向かうことを意味するからである。その意味で国際協力によって海域における武装強盗の取り締まりを強化するためには、沿岸国の国内における貧困・飢餓の除去が何よりも必要となる。これら地域に対するわが国のODA援助は相当な額に上るが、必ずしもこうした成果を生んでおらず、まさに地域住民の自立を促進するという事を主眼においた人間の安全保障的な援助の新たな形態が求められているのである。
 公海漁業(high seas fisheries)についても20世紀半ばには地域漁業条約(regional fishery conventions)を通じて、海域ごとおよび漁獲魚種ごとに合意によって漁業資源保存を図ろうとする枠組みが作られてきたが、その成果には目覚しいものがなかった。それが国連海洋法条約における排他的経済水域制度を導入する一つの要因になっている。アメリカは1976年に漁業保存管理法(Fisheries Conservation and Management Act)を制定していち早く200海里制度を導入したが、その前文でこれら地域漁業条約による資源保存が実効性を欠いている(ineffective)と明確に述べている。その要因はいろいろ考えられるが、第二に地域漁業条約が漁獲参入国を中心とする合意であり、それゆえ国際委員会が決定する保存措置はややもすれば漁獲可能量(allowable catch)を水増しする傾向があった。第一にあくまでそれが国家間の合意による制度であったことである。依然として伝統的国際法の原則に従い、地域漁業条約はそれに合意した国家のみを拘束する。条約の枠外の第三国によるフリー・ライドは放置せざるをえなかったのである。第三に、公海における漁獲規制はもっぱら漁船の登録国が行うこととされたことである。しかも漁場での漁業調査船による規制はサンプリングなどの方法によらざるをえず、漁獲量は水揚げ量を総計してみる以外にはない。水揚げ国は自国国民がたとえ規制を超過する漁獲を水揚げしたとしても、それにより国内水産市場の混乱が生じない限り、国民の重要な蛋白源を無駄にすることもないということで、ややもすれば規制に甘くなりがちである。あまり厳格に執行すれば、漁民にしてみれば、なぜ規制外の外国漁船の野放図な漁獲を放置したままでいながら、自分達は処罰を受けなければならないかという不満もつのる。
 排他的経済水域制度の導入によってこの問題が解決されたかというと必ずしもそのようにはいえない。というのは、一つはストラドリング魚種資源(fishery stocks of straddling species)や高度回遊性魚種(highly migratory species)の資源保存問題が残されており、またもう一つは排他的経済水域内における沿岸国による資源保存措置の適正さの問題が残されているからである。ITLOS(International Tribunal of Law of the Sea)における南マグロ事件(Southern Blue Fin Tuna Case)には科学的根拠に基づく漁獲規制の問題という側面もあるが、その本質的な問題点は、南マグロ条約(Convention for the Conservation of Southern Blue Fin Tuna)の枠外で漁獲する漁船の操業が野放しにされていたということにある。これは合意による秩序形成の有効件について大きな問題を提起している。
 
3. 海洋ガバナンスヘの胎動
 1982年の国連海洋法条約は、海洋ガバナンスに向けての諸国の国際協力を推進する足掛かりを与えている。その意味でこの条約はまさに「海の憲法」といってもよい。すでに述べたように、海洋ガバナンスは総合的な課題であり、海域における活動の規制と陸上における人の生活とを相関的に捉えていく視点が確保されるのでなければ、真の意味で海洋の安全を護る(securing the ocean)ことは出来ない。海洋法条約を海上活動国と沿岸国の闘争の場にしたのでは、元も子もない。陸上の生活がその自然条件、気候条件、歴史条件、文化条件、社会条件によって多様であり、それが海に対する人々の多様な見方、利害を規定している。この多様性を維持しながら、どのように海洋の利用から人類にとって最大の利益を引き出していくか、まさに持続可能な開発(sustainable development)ということが、海洋の安全を護るということの目標とされなければならない。
 海洋法条約が海洋ガバナンスの達成にいかなる足掛かりを与えているかという観点からいくつかの制度をその例として取り上げ、またその問題点についても考えてみたい。まず排他的経済水域(exclusive economic zone)制度と深海底制度(deep seabed)は、海洋法条約が導入した新しい海域レジームであるが、そのうち排他的経済水域制度の主要な目的は漁業資源の保存と海洋環境の保護および保全を実効的に達成することにあった。いずれも従来の公海における旗国主義を修正して、沿岸国の管轄権を拡張するものである。まず海洋汚染の防止に関してその汚染源を網羅的に規定し国際協力の推進を定めるが、船舶起因汚染以外については一般的な規定にとどまっており、今後の合意によって補完されなければならない問題として残されている。ただ船舶起因汚染に関しては相当に具体的に規定され、とくに寄港国執行(port state enforcement)および沿岸国執行(enforcement by coastal state)を定めることにより伝統的な旗国主義を修正していることが注目される。この点はすでに周知のことであるので詳述はしないが、ここで強調しておきたいことは、とりわけ沿岸国執行に関しては、沿岸国が執行の根拠とする法令の基準を一般的国際基準(IMO基準)に合致しこれを適用する法令に限ることによって沿岸国の過剰管轄権による航行船舶への不当な介入を抑制しているわけであるが、この基準を満たしていれば、それら国際基準に合意していない国の船舶についても規制が可能であると思われることである。その意味ではIMOの基準設定がいわば合意した国を超えて適用可能とされているのである。これを国際法上どう説明するかは別として、それはIMOに国際立法権限が与えられたことを意味するのである。
 漁業に関して排他的経済水域はしばしば資源領海と呼ばれることもあるが、条約は沿岸国に資源の最適利用(optimum use)と漁業資源の保存を義務づけており、そこにいう最適利用の概念には従前の最大持続生産(MSY, maximum sustainable yield)基準だけでなく、沿岸国の資源利用に関する経済的利益をも考慮要因として取り込む裁量が広く認められている。他方、経済的混乱(economic dislocation)条項や地理的不利国(geographically disadvantaged state)条項のように、沿岸国以外の国の国民の経済的利益にも配慮が用いられており、その意味で、排他的経済水域はまさに海洋ガバナンスを目指す制度である。それは本来、従前の公海漁業における旗国主義の下では、遠洋漁業船の本国が自国から遠く離れた海域の漁業資源保存に必ずしも熱心ではないことから、海洋漁業資源から人類にとっての最大の利益を確保する持続的開発を可能にするために、いわば国際社会の公共機能を沿岸国に委任したという性格をもあわせもっている。したがって沿岸国が沿岸住民による乱獲を放置しあるいは入漁料を最大限うるために外国漁船の入漁を野放図に許可したりする場合には、少なくとも理論的には、それは排他的経済水域における沿岸国の義務を果たしていないということになろう。ただ発展途上諸国にとって、実際上は、大規模遠洋漁業から沿岸漁業資源を護り、この資源を自国の経済発展に役立てるということに当面の排他的経済水域の機能はとどまるであろう。沿岸国は自国沿岸の漁業資源の保存と持続的開発にもっとも適正な関心を持つという前提が、最適利用の観念の中には含まれている。
 海洋法条約においては排他的経済水域とその外側の公海にまたがって存在するいわゆるストラドリング魚種資源および高度回遊性魚種資源に関しては、沿岸国と漁獲国とが合意によって適切な保存措置に協力する一般的な義務が定められているにとどまる。沿岸国から見れば排他的経済水域における保存措置を実効性あるものとするためには、これら魚種資源の適正な管理が必要である。しかし沿岸国が一方的な保存措置をとることは、海洋法条約でも認められている公海漁業を実質的に否定することにつながる。海洋法条約以後生じた重要な二つの事件はまさにこの問題をめぐるものであった。すなわちカナダとスペインとの間のエスタイ号事件(Fisheries Jurisdiction Case between Spain and Canada)であり、日本とオーストラリア・ニュージーランドとの間の南マグロ事件である。いずれも当事者間の交渉によって最終的には解決されることとなっているが、二つの事件ともに、海洋ガバナンスに関する国際法上の重要な問題を提起していた。
 すなわち前者において問題とされたストラドリング魚種資源である黒ガレイについては、沿岸国であるカナダは後発の漁獲参入国であったにもかかわらず、資源保存に関する排他的経済水域内に関するカナダの規制措置をストラドリング魚種であることを理由に、公海海域にまで一方的に及ぼそうとしたことである。この事件の他方当事者であるスペインの漁船は、ヨーロッパでは乱暴な漁業者ということで嫌われ者であり、EUの海とされてEUの共通漁業政策が適用されるバルト海、北海地域では漁獲割り当てを認められていなかった。つまり、カナダは資源枯渇を理由に自国排他的経済水域内において黒ガレイの漁獲を沿岸漁民に禁止するという厳しい措置をとっていたとはいえ、その措置の公海海域への拡張の背後には、ストラドリング魚種資源を自国の所有物として捉える発想がその根底にあり、いわば資源の囲い込みのために排他的経済水域内での措置を一方的に域外適用したという色合いが強い。最適利用という発想および合意によって保存に協力するという姿勢が欠如したまま、スペイン漁船を公海上で沿岸国法令違反として拿捕したともいえる。他方、スペインとの間で保存措置について合意する可能性は小さかったという面もあり、スペインがそうした保存措置への合意の努力を欠いたまま、カナダの公海における執行措置のみを取り上げたのにも問題がないわけではない。この紛争は、EUが介入することで、少なくとも黒ガレイについては合意によって解決された。その意味で、結果から見れば、カナダはエスタイ号事件を引き起こすことで保存措置への合意を獲得することに成功した。ただカナダは依然として自国沿岸の排他的経済水域に関する保存措置を隣接する公海に拡張して適用する国内法を維持しており、他の魚種について再び紛争が生じる可能性がある。
 南マグロ事件(Southern Blue Fin Tuna Case)においてはこれとは異なり、すでに関係国間で南マグロ条約が存在しており、沿岸国と漁獲国との協力による資源保存措置がとられ、その条約において紛争解決の手続きも定められていた。しかし資源量および可能漁獲量について協議が不調に終わるようになり、日本が資源量を調査するために調査漁獲を実施したのに対して、沿岸国側がその差し止めを求めてITLOSに提訴した事件である。この事件の根底には、資源の最適利用が最良の科学的証拠に基づいて行われるべきであるという立場と、むしろ環境あるいは生物多様性保存の観点から、いわゆる予防原則(precautionary principle)を主張する立場との対立という重要な問題が含まれている。しかしこの事件が海洋ガバナンスにとってもつ問題点は次の点にある。すなわち沿岸国と漁獲国との間に保存条約があり、また同条約で紛争解決の手続きが別途定められていたにもかかわらず、これを国連海洋法条約上の問題としてITLOSへの提訴がなされたことである。いわゆるTreaty Parallelismの問題である。その後ITLOSに付託されたMox Plant事件においても、海洋法条約上の問題と環境に関するOSPAR条約上の問題との間でパラレリズムが問題とされている。同一の事項について複数の条約が異なる規制と異なる解決手続きを用意している場合に、いずれの条約上の義務がいずれの手続きによって執行されるべきかという問題であるが、それは同一事項について複数の条約レジームが複合的に関わっている問題をどう解決するかという問題であり、まさに複合争点問題としての海洋ガバナンスの法的な側面に関わる問題である。
 この紛争がTreaty Parallelismの問題を提起するのは、沿岸国と漁獲国とによって合意された保存措置の枠組みが存在するからであるが、法技術的な問題はひとまず措くとしても、南マグロ条約の場合には、その条約の枠組みの中で資源保存に協力している国同士が争ったという点に、海洋ガバナンスに関する根本的な問題が隠されている。すなわち同じ公海海域では、台湾、韓国などの漁船は同条約の枠外で南マグロの漁獲を行っており、それらの国は当該条約の第三国として条約上の保存義務を負わないため、これを規制する根拠がないということである。そこに一種のフリー・ライドの状況が発生しており、それらの国についてはTreaty Parallelismがそもそも発生しない。本来、UNCLOS上の問題としてITLOSに問題を提起するのであれば、沿岸国はこれらの国を訴えてしかるべきであったともいえる。しかし海洋法条約の高度回遊性魚種に関する規定、すなわち保存措置を合意することを通じて資源の最適利用と保存に努力する義務は、具体性を欠いており裁判での請求の基礎にならない。そうした公海漁業に関する合意主義の限界の問題がそこには露呈されていた。海洋ガバナンスを達成する上での、国際法のある意味での限界を示す事例でもある。その後、韓国・台湾なども南マグロ条約の枠組みを受け入れるにいたっている。
 なおストラドリング魚種資源および高度回遊性魚種資源については、後に述べる公海漁業実施協定が結ばれ、一応の原則と手続きが規定されたが、それが具体的な地域漁業に適用されて資源保存の実効を確保していくためには、なお沿岸国と漁獲国との合意によって補完される必要がある。海洋ガバナンスは沿岸国の主権でもなく漁獲国の漁業の自由でもない新たなガバナンスの途を、国家間の合意を通じて実現するという困難な課題を人類に突きつけている。







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