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思い出すままに
 
中曽敬
 
 私が藤野淳さんの後を受けて、二代目のJTCA理事長を拝命したのは昭和63年6月のことでした。ちょうどこの時会長も交代となり、秋山龍さんから鈴木珊吉さんへのバトン・タッチがありました。今から思えば、この年は昭和の最後の年にあたり、大げさに言えば歴史的にも社会的にも一つの転換点に当たっていたのですね。
 私の身の上にとっても、JTCAへ移ったことは大転換でした。それまでは造船の業界団体である日本造船工業会の専務理事として、石油ショック後の不況克服に悪戦苦闘を続けておりました。昭和40年代までの盛況が急転直下で悪化し、10数年におよぶ冬の時代を余儀なくされていました。
 殆どの産業が石油ショックの後遺症を癒して、右肩上がりカーブに戻ったにも拘らず、造船業だけが長いトンネルに入ったままで、なかなか抜け切れないでいました。トンネルの端にようやく明かりが見えて来たのは、昭和62〜3年頃のことでした。
 JTCAへ行かないかという誘いがかかったのはこの頃でした。JTCAの仕事については、正直いってあまり知識を持ち合わせていませんでしたが、これで陰鬱な仕事から抜けて前向きの仕事につかせて貰えるかなという、淡い希望に心が動かされたのは事実です。ところが、JTCAへ移ることを決心し、いろいろ手続きをさせて頂きながら、仕事や組織・陣容などの説明を聞いているうちに、これは予想とは相違して大変なことらしいぞという印象を受けました。
 
開発途上国から要人を招へいし、歓迎の辞を述べる筆者
(理事長時代、中央で起立している)
 
 そもそもJTCAは、海外、とりわけ開発途上国における運輸関連施設(ソフトを含む)の開発についての、コンサルタント業務などを効率的に実施するために創られた社団法人というところまでは承知していたのですが、まず認識を改めねばならなかったのは、その自主事業だけではなく、国やJICAを始めとして、日本船舶振興会や笹川平和財団等からそれぞれ多額の補助金や委託費の交付を受け、実施中の事業項目が極めて多岐に渡っていることでした。
 もう一つ驚いたことは、これだけの仕事をこなすのに、事務局の陣容が極めてこじんまりとしていたことです。組織こそ、総務、企画、事業、基金事業の4部制をとっていましたが、いくつかの部は部長ひとりで部員なしというような状態でした。当時の部長の名前を挙げると、杉原(総務)、江川(企画)、髭田(事業)、芝(基金事業)の諸君でした。この他に、経理担当で福谷君、事業担当の女性職員染谷さん、非常勤女性職員の木下さん、節家さんといった面々がいましたが、総計僅かに8名という陣容でした。しかし、これらの人々はまさに一騎当千のつわものというべく、休む間もなくてきぱきと仕事をこなしていたのには、ただただ頭が下がる思いでした。
 私が着任してからも、事業量は増える一方でしたので、仕事によってアルバイトの人の応援を頼んだりもしましたが、根本的には増員を考えねばと思い、役所とも相談の上、新人の採用に踏み切りました。こうして迎え入れたのが亀山君でした。ピカピカの新入社員でしたが、今はどうなっていましょうか。
 私の在任期間は2年ほどでして、仕事の上で回想録に麗々しく書き留める程のことは、正直言ってしておりません。事業の方はそれぞれベテランがおり、任せて置けば大丈夫と思いましたので、不馴れの私にとって当面できることで、大事なことは何かと模索した結果、事務局のチームワークの保持と関係会社・団体との連携強化に務めようと心に決めました。それには事務局の中だけに限らず、会員会社との意志疎通、それに監督官庁である運輸省(当時)始め、補助や委託を頂いている日本船舶振興会、笹川平和財団等への連絡調整が重要と考えました。
 会員会社との意志疎通は、協会内部に設けられていた委員会の活性化を通じてやることにしました。ことに運営委員会では会員の皆さんの間で、大所高所論やらプロジェクトの具体論やら侃々諤々の議論が続き、熱気あふれる充実した時間を持たせて頂いたとことを懐かしく思い出します。
 自主事業の中に講演会の開催というのがありましたが、少しでも会員へのサービスをと思い、国際協力の上での著名な学識経験者の特別講演をお願いすることにしました。例えば、当時、途上国開発のアドバイザーとして、高齢を厭わず、世界を飛び回っておられた大来佐武郎さんや、日本の縦社会についての名著のある、社会学者の中根千枝さんといった方々の快諾をえ、講演会を盛会のうちに催させてもらったのは、嬉しい思い出としていまだに脳裡に残っています。
 運輸省、日本船舶振興会、笹川平和財団には機会ある限り、努めて顔を出し、些細なことでも緊密な連絡を保つようにしました。時にはこちらの不行き届きにより、叱られることもありましたが、これも職責のうちと割り切るように心がけました。
 事務局の皆さんとは、手頃な人数だったこともあり、福利厚生費を活用して、週末によく懇親会や旅行などをやりました。鶏の首を締めて出てくるような声で、カラオケをうなるのも、お互いの親密度を上げるのに随分と役だったように思います。
 私のJTCAでの在任期間は、上述しましたように、2年間に過ぎませんでした。この間、正直いって海外出張は一度もしませんでした。実は事務局の皆さんから、これはというプロジェクトがあったら出かけて見てはという勧めがありましたが、当時の私の心境としては、多岐に渡る仕事を一応こなしてからでないとという気持ちが先に立ち、出張どころではなかったように思います。もう少し在勤していれば、JTCAの第一線の仕事にも触れられたのにという悔いが残っていることは否定しません。
 事情があり、2年間の勤務の後、後ろ髪を引かれる思いでJTCAを去らねばなりませんでしたが、今にして思えば、この期間は、私の人生にとってはとても印象深い、貴重な時だったなあという思いでいっぱいです。
 幸いにして、後任の理事長には親友の小松君が来てくれました。やり残したことの事務引き継ぎをしたのは、ついこの間のような気がしていましたが、あれから13年、そしてJTCA設立から30年とは、なんとも早いものですね。
(元当協会理事長〔2代目〕)
 
 
大野正夫
 
 年をとってから回想記といわれると、私ごとならいざ知らず、海外運輸コンサルタンツ協会(以下JTCA)という公的機関については記憶違いで間違ったら大変といささか気が重い。しかし、JTCAには私自身が大変お世話になったとの思いがあるのであえて拙文を記す。
 私とJTCAとの出会いは、国際協力事業団(以下JICA)の社会開発協力部長室でのJTCA藤野専務理事(当時)との会見に始まる。昭和49年8月JICAの初代社会開発協力部長に就任したばかりの私のところに来られた。藤野さんは、JTCAは運輸関係の国際協力を推進する目的で、直接たずさわるコンサルタントのバックアップのために設立された。しかし、日も浅いので、政府ベースの国際協力の中心となるJICAの協力、特に関連情報入手についての協力を得たいと要請された。当時、わが国は高度経済成長に突入し、経済外交が積極的に進められつつあった。
 わが国は昭和29年コロンボプランに加入し、政府ベースの技術協力を開始以来、昭和33年には政府直接円借款が開始され、また、国内の実施機関としては、昭和36年にOECF(海外経済協力基金)、昭和37年にOTCA(JICA前身)、更に昭和49年JICAが設立され、また協力機関としては、昭和31年国際建設技術協会、昭和39年に海外コンサルタンティング企業協会等が設立され、わが国の国際協力が強力に推進されることとなった。このような背景のなか、JTCAは誕生したが、当時、運輸関係プロジェクトは極めて多く、JTCAの活躍が各方面から期待されたのである。私自身も個人的と言えば、運輸省港湾局、外務省経済協力局、在外大使館において国際協力に従事し、その集大成ともいうべきJICA部長時代にJTCAの強力な援軍を得た思いで心強く、JICAの3年間は事業に多大の成果をあげ得たと思っている。
 次いで、私は昭和52年から(財)国際臨海開発研究センター(OCDI)の常務理事として、海外の臨海部開発協力の実施を担当することとなった。
 当時、OCDIの実施する海外開発プロジェクト調査は、JICAとの随意契約に基づいて、国内民間コンサルタントの協力を得て行われた。しかし、当初は解決すべき多くの問題があった。その一つは、優良プロジェクトを如何に早く発見し、そして早く形成するかということであった。相手(国)が不馴れで、特に政府ベースとなると、日本政府の厳格な要請主義が災いしてか、また、要請を具体化する方策に疎いなどのためか、優良プロジェクトが顕在化しにくい。そこで私は、(1)民間、商社、コンサルタント、大使館、外務省、JICA、OECF、運輸省等のかつての職歴、人脈等を通じて情報網を整備、充実させるよう努力すること。(2)できるだけ海外の現地に赴き、プロジェクトの情報収集と予備調査を行い、特に、相手国政府の意向を直接確認すると同時に、必要に応じプロジェクトの調査実施のためのTOR(実施計画)案を作成し、要請プロセスについて相手方に助言を行うこと。このふたつ、まさに教科書に書いてあることズバリであるが、私は、これを拳拳服膺して実行した。
 ところで、この方針を実行するにあたっての最大の問題の一つは、OCDIにはこれを自分で実施できる計画も資金もなかったことだった。しかし、幸いにも、国庫補助等を得たJTCAの海外情報収集事業及び予備調査事業の制度を十分利用させていただいた。OCDI在任中私が参加した上記の調査は、9年間で11件に及び、うち7件については、JICAのF/S調査が行われた。
 さて、今まで述べたことは私の回想のプロローグでしかない。しかし紙面の限りもあるので、ここで本当に述べたいことを言えば、「私のOCDI在任中、JTCAの協力ありがとうございました」の一言である。当時OCDI一同、使命に燃えて国際協力を推進している時、JTCAには、その制度の機能をフルに働かせてわれわれの活動をサポートしていただいた。ある時、藤野理事長の一言「OCDIのプロジェクト・ファインデンク調査は、打率がよいので安心しています。大いにやって下さい」。私はこの言葉に励まされ、また責任を感じつつ、つっ走ったことを思い出している。
 その後、私は、(株)日本港湾コンサルタントの社長として、JTCAの理事を平成8年まで勤めたが、少しは恩返しができたかどうか。終わりに、JTCAの歴代の役員、職員の皆様に感謝申しあげます。
(元当協会理事・現(株)日本港湾コンサルタント相談役)







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