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フィリピン調査の思い出
 
長島健
 
 海外運輸協力協会が創立30年を迎えるとのこと、お慶び申し上げます。
 私が当協会と係わりを持ったのは、私が海外鉄道技術協力協会(JARTS)に勤めていたほぼ昭和60年代の10年間のことです。当時は海外運輸コンサルタンツ協会(JTCA)と称しており、事務所はアメリカ大使館の近くにありました。JARTSも、他の海外事業を営む運輸関係のコンサルタント会社と共に、当協会の会員となっておりました。
 当協会は主要な事業の一つとして、発展途上国における運輸施設の近代化を支援するためと、また日本が協力しうるプロジェクトの発掘のため、現地調査を行っておりました。私もそれを企画する委員会に度々出席しましたが、フィリピンの調査には直接団員として参加しました。それまでに欧米には行ったことはありましたが東南アジアでの経験は初めてだったので、カルチャー・ショックの多い調査でした。
 フィリピンの調査は昭和59年1月に約2週間で実施されました。団長は髭田さん(JTCA)、団員は林さん(PCI)と私でした。この調査について思い出すままに印象の深かったものを綴ってみました。
 マニラに到着して直ちに大使館へ表敬訪問しましたが、その際、案内の書記官がエレベーターの前で鍵を取り出し、その使用により我々はエレベーターに乗ることができました。またホテルでは夜通し警備員が廊下に駐留していました。これらは治安上の措置ということですが、当時の日本では考えられないことでした。
 フィリピン国鉄の本社を訪れ、鉄道事情などを聴取しました。本社の建物は粗末なバラックで、自動車との競争に敗れた鉄道を象徴するものでした。国鉄の北線に乗りました。この線はマニラを起点に北上し、ケソン市やピナトゥボ火山の近くを通りルソン島を縦断してリンガエン湾のサンフェルナンドに至ります。最重要幹線でありながら、客席は一般席しかなく、乗客の汗と汚れによる異様な悪臭に驚きました。しかも列車の速度は遅く、運賃が安いだけが取り柄でした。鉄道は貧しい人の乗物と現地の人は云っておりましたが、現状を改善しない限り、普通の人は鉄道に乗らないのではないかと思いました。
 フィリピンの国家経済開発庁の訪問やマニラ湾地帯の視察の後、マニラ空港からミンダナオ島のダバオとサンボアンガへ行きました。空港施設の調査が目的ですが、これは髭田団長の専門分野です。フィリピンは多くの島から成立しているので、海運と共に航空は重要な交通手段です。マニラからの乗客の中には普段着でバケツをさげた人もいて、フィリピンの飛行機は日本のバスのように日常生活に欠くことのできない働きをしていることを知りました。
 以上のような個人的な感想などは報告書には書きませんでしたが、このような貴重な経験を与えて下さった当協会に感謝をしております。
(元当協会運営委員・(社)海外鉄道技術協力協会常務理事)
 
右より Sunga局長、髭田団長、筆者、林空港専門家
於 フィリピン・NEDA(国家経済開発庁)
 
 
MALASIQUI駅ホーム
 
 
日本か援助した「ラブバス」於 マニラ市内
 
 
ダバオ空港管制塔
 
 
廣田孝夫
 
 協会創立30周年に当たり、海外運輸技術協力に携わる者として御同慶のいたりであります。30年前、昭和48年はちょうど第一次オイルショックが起きた年でした。
 その一年前、私はバンコクにあるECAFE(現在のESCAP)やマニラにあるADBに勤務した後、久し振りに運輸省に戻ってきました。当時は日本列島改造計画の仕上げの段階で、高速道路4万キロ、新幹線1万キロの計画がたてられ、いたるところにレジャー施設、観光開発が計画されていました。途上国を歩いていた者にとってその差の大きさに驚いたものでした。
 その少し前、ADBに勤務していた時、シンガポールで大巾に伸びるタンカーの修繕需要を見込んだ造船所拡張計画があり、それを検討する機会がありました。計画によると、当時日本だけでも年間3億トン弱の中東原油輸入量があり、10年後には周辺国も合わせると12〜13億トンの原油がマラッカ海峡を通ることになっていました。これを運ぶためには10万トンのタンカーでは年間延べ1万隻以上となり、毎日片側だけで300隻がシンガポール沖を通ることになります。帰りの船を考えると、ほとんどタンカーが数隻数珠繋ぎの状況になります。こうなると、原油をタンカーで運ぶより、中東から極東までパイプを敷設した方が合理的になります。このようなことは起こり得ないと判断し、この計画は結局実現しませんでした。実際その後、数次の石油危機の結果、エネルギー消費構造は変り、現在でも日本の原油輸入量は昭和47年当時より増加していません。
 同様に、余暇開発の計画にも大きな矛盾がありました。つまり、GNPの伸びに比例して、国民が余暇に使う時間も増加する計画なので、10年後には誰も仕事をする時間も、寝る時間すら無くなる計画となっていました。しかし、当時はブレーキが効かず同様の現象が不動産投資にも波及し、バブルがはじけるところまで行き着いたのでした。バブル崩壊後でも、ITブーム、光ファイバー等がもてはやされ、これでは寝る間もなくインターネットや、電話にかかりきらなければならなくなると思ったのも束の間で、急にITブームも去りました。
 国際協力に関しては、その頃日本の企業も海外に進出をはじめ、運輸部門でも各国でコンサルティングや建設をはじめていました。しかし、当時の日本企業は国際的に見るとかなり厳しい状況にありました。もちろん、設計、施工の能力は当時でも世界的に見て高いレベルでしたが、コンサルタントが作る報告書、設計書は世界ではなかなか通用しない程度のものでした。つまり、言葉の問題は別としても、調査報告書が説明すべき項目が的確に表現できなかったり、工法選定の理由無しで、ただ一つだけの設計を示す等、フィージビリティー調査の趣旨の理解も十分でない例も多くありました。
 運輸省は元来、海運、港湾、空港などの行政が国際的にかかわっているため、海外への技術協力は早くから行われていましたが、以上のような背景から、組織的に運輸関連コンサルタントを強化することの必要性が出てきました。
 同じ頃、通商産業省や、運輸省も建設コンサルタントの支援に乗り出す等、各省が国際協力に力を入れるようになったこともあり、海外運輸コンサルタンツ協会が設立され、国際港湾協会、(株)日本空港ビルディング、(株)日本空港コンサルタンツの創立にかかわり、国際協力には大変に熱心な秋山さんが会長になられたのは当然の成り行きでした。協会発足後、私も会員研修等に講師として数回お手伝いするようなこともありました。
 その後、日本の国際協力は規模においても質においても高い水準になりましたが、昨今の財政難、不況の折から、ODAも縮小されつつありあます。しかし、技術協力、経済協力は単に日本企業の海外支援を図るだけでなく、世界全体の安定のためにも欠かせない問題です。
 2001年9月11日の事件や、アフガニスタン、イラクの戦争など、一連の紛争も元を正せば、途上国と先進国の格差がむしろ拡大傾向にあることが原因と思われます。国連分担金、世銀への出資、その他のODAに消極的だった米国も最近は協力を拡大する方向となりました。この方が結局戦争で紛争を解決するよりもはるかに経済合理性があることに気づいたものと思われます。
 したがって、日本も経済協力、技術協力を今後とも一層続けていく事によって、テロや紛争の種を減らしていかなければなりません。
(元当協会理事・現(財)国際臨海開発研究センター顧問)







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