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私はこう考える【教育問題について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


2000/11/27 読売新聞朝刊
[地球を読む]教育改革 学校の枠を超えよ 山崎正和(寄稿)
 
◆評価も多様な「社会の目」で
◇劇作家
 このところ内閣が変わるたびに、総理が教育改革を叫ぶのが慣例のようになってきた。小渕前首相は私的な諮問機関として、「21世紀日本の構想」懇談会を組織したが、そこでの主要なテーマは将来の日本の人材育成であった。後を継いだ森総理もこの政策課題に強い関心を表明して、直属の「教育改革国民会議」の審議を進めさせた。教育の現状をめぐる危機意識が、総理みずからを動かすほど、国民ぐるみで深まったということだろう。
 その「国民会議」は早々に、生徒に社会奉仕を義務づけるというユニークな提案を行った。現状の教育問題が学力の低下だと考える人には、これは意外な政策に見えたかもしれない。勉強よりも心の修養を重視する施策と受けとめ、あまりにも道徳主義的だと疑う人もいただろう。だが私にはこれは「二宮金次郎」を作る教育ではなく、子供に社会の現実に触れさせ、頭とともに身体を使うことを教える教育であるように見えた。そういうものと理解したうえで、私はこの提案の精神に賛同し大いに敬意を表したいと思っている。
 
◆教室は均質的環境
 ただ願わくは、この新教育が現在の学校を通じてではなく、民間の非営利団体によって実施されるのであれば、もっとよいだろう。教員の引率のもとに、教室単位で社会奉仕に出るのではなく、多様なボランティア団体に生徒を預けることにしたほうが、より効果があがるだろう。生徒たちに自発的に仕事と場所を選ばせ、活動ぶりの評価も民間団体にやってもらう。国はそれを教育機関と認定して、必要なら経費も支給することにすればよい。
 現在の学校が疲弊していて、この種の教育に無能だというのではない。問題はむしろ健全な学校の内にこそあって、生徒があまりにも均質的な環境に暮らしている現状、それ自体にあるからである。長らく、日本の子供は同じ地域に住む同じ年齢の友人と席を並べ、同じ知識教育を受けて、同じ資格を持つ教員に評価されてきた。教会組織や少年団体の普及していないこの国では、そういう均質的な教室が彼らの唯一の社会であった。そこで失敗すれば逃げ場がなく、のちのちまで負い目が及ぶ環境のなかで彼らは育っていた。
 この環境はこれまで、子供の多様な能力の開花を妨げ、同時に他人の異質性を理解する能力をも狭くしてきた。子供の開かれた社会性を奪い、自己責任の感覚や自己表現の能力を乏しくしてきた。「国民会議」の提唱は、そう考えると彼らに教室外の経験を与え、環境を多様化する意味でとくに画期的だといえる。だとすれば、このさい彼らを評価し認知する目も多様化して、教室外の社会に移すのが画竜点睛(がりょうてんせい)というものではなかろうか。
 
◆機会の自発的選択
 子供の評価の多様化ということは、かつて私が参加した小渕懇談会でも中心的な関心事であった。人間の生きがいは所得の多寡だけでなく、誰(だれ)の場合も社会によって評価されることにかかっている。なかでも人生の階段を昇りつつある子供にとって、自分の達成が認められることがいかに重要かはいうまでもあるまい。人間評価の尺度が世の中に一つしかなく、自分がそれに外れているのを感じたとき、彼らの絶望はとりわけて深いはずなのである。
 この問題を重視した「懇談会」は制度上の対策として、「義務教育週三日制」を唱えて教育機関の多元化を提案した。国民の義務としての学習は週の半分に限定し、そこでは社会に生きるための共通の知識を徹底的に叩(たた)きこむ。残りの半分は子供の多様な自己実現をめざし、学校から解放して彼らに自発的な学習機会を選ばせる。芸術、スポーツ、さまざまな実学や職人技術の習得はもちろん、学習塾で高度な知識の早期教育を受けるのも自由とする。そのために、国は教育クーポンを支給して親を援助するという提案であった。
 この私たちの提案と今回の「国民会議」の主張には、重要な一点で共通する問題意識が含まれている。それは知識の伝授が教育のすべてではなく、にもかかわらず従来の学校が知識教育に偏してきたということである。子供が社会の現実に触れ、現実から身をもって学ぶ機会が奪われているという憂慮である。二つの提唱に違いがあるとすれば、「国民会議」は社会体験を学校の内に持ち込もうと試み、私たちは逆に生徒を学校の外に連れ出すことを考えていたという点であろうか。
 
◇「知識」と「技芸」分化を
◆生きる意味の実感
 実は「懇談会」がこの提案をしたのは、一見矛盾するようだが、私たちが反面で日本の知識教育の現状を憂慮し、同時にその改善をも果たしたいと願っていたからであった。実際、日本の高等教育の学力は低下し、国際的な競争力を失ったという声が高まって久しい。特に経済が知的産業の興隆を求め、そのための人材を不可欠としているときに、この問題は深刻というべきであろう。日本の教育は今ジレンマのなかにあって、一方では知的訓練の不足が嘆かれ、他方では程度の低い授業にも立ち遅れる生徒が増える事態を、いわば一石二鳥で救わなければならないのである。
 この矛盾を解くには、教育の内容を多様化し、人間評価の基準を複線化するしかないことは広く認識されている。ただこれまではその複線化の基本的な方向が見えなかったために、真の実現は果たされないままに終わってきた。実は根本的な問題は、知識教育とそれとは違う教育といっても、そのどちらのイメージも曖昧(あいまい)なことであった。もっというなら、二種類の教育がめざす人間像が見えないことであった。結局どちらの教育も徹底して行うことができず、中途半端な知識教育を水で薄めて与える結果を招いたのである。
 考えてみれば、知識学問の教育とは本質的に特殊なものであって、健全な人間のだれにでも向くものではない。それはまず習練の過程で先行きが見えず、現在の苦労が将来どんな目標に結びつくかわからない構造を持っている。連立二次方程式の解に骨を折る生徒にとって、そのかなたの複雑系の非線形方程式は想像もできず、かといって当面の勉強は明日の商売の計算には余分なのである。
 また、知識習得の過程はそれ自体の社会的な価値を持たず、次の習得の準備段階として刻々に捨てられて行く。教室の科学実験に成功しても、それは発明でも発見でもなく、既知の理論を理解するための手段にすぎない。教室の外では意味を持たず、もちろん苦労の報酬も得られない。こんな「徒労」を営々と続けられる人間は異様に克己的か、特別の好奇心に恵まれた奇人だというべきだろう。
 これが知識教育の厳密な定義だとすれば、ただちに思い浮かぶのは、人間にはもう一つそれとは反対の教育があることだろう。仮に名づければ技芸の習練ともいうべきもので、最終目標の姿が常識で想像でき、初歩からの段階がそれぞれに役に立つ教育である。
 料理人でも宮大工でも商店主でも、美容や介護やセールスの専門家でも、もちろん習練は一生がかりだが、それが何をする仕事であるかは最初から目に見えている。現在の苦労が何のためにあるか、勉強の各段階ごとに実感できる。
 また多くの場合、修業のどの段階も社会の役に立って、それなりに報酬を受けることもできる。掃除や道具の手入れの下働きも、それぞれに立派な仕事だろう。そこでは人生の未来像が見えるだけでなく、現在を生きる意味が刻々に感じられるのである。
 この区別は理念的なものであるから、現実には二つの教育には重なり合う部分もある。どんな技芸教育にも、その基礎段階では一定の知識教育が必要であるし、技芸の水準が高まったとき、あらためて知識教育の追加が求められるかもしれない。しかし多くの技芸的な職業にとって、現在の学校の知識教育は明らかに長すぎるのであって、人生の「待ち時間」を不必要にひき延ばしている。おびただしい人びとの生涯を輪切りにし、役に立たない幼少時代、意義の感じにくい準備段階を我慢させる結果を招いているのである。
 この人生の輪切りが有効であり、万人に均質の教育を与えることが効率的だったのは、いわゆる工業時代の特色であった。そこでは、工場労働、一般事務といった仕事が職業の大半を占め、職業そのもの、求められる人材そのものが均質的だったからである。そういう時代が終わりに近づき、特に「IT(情報技術)革命」がこの変化に拍車をかけることは、前にこの欄でも書いた。
 一方では高度の情報創造、知的生産の人材が必要になり、他方では消費者の個別化する需要に対応して、多様な対人サービスの増強が期待されるはずである。
 最大の問題は、こうした文明史的な時代変化に対して、社会の職業観がついて行っていないことである。
 
◆誤ったエリート観
 工業時代の通念の名残を受けて、知識教育の期間の長い職業ほど高級だという偏見が捨てられていない。古い実業学校のイメージが災いして、高校普通科の教育が格好いいという迷信が残っている。現実には、本当の知識学問の能力ではなく、意義の感じにくい人生に耐える能力にすぎないものを、特に親たちが良い子の条件としている。
 だがこうした偏見にもかかわらず、しだいに心強い変化が芽生えているのも事実であろう。先にも触れたが、すでに料理や美容は若者の憧(あこが)れの職業になり、介護や地域サービスなど、有給ボランティアの仕事も劇的にイメージを高めている。知識職業のなかでも技芸的な性格の強いもの、たとえばペットの獣医師に人気が集まっているのもその現れだろう。若年人口の減少によって大学が危機を感じるなかで、一部の専門学校が現役の大学生をも魅(ひ)きつけているのは、周知の現実である。
 こうした新しい傾向を十分に助長し、技芸的職業の権威を確立したうえでなら、知識教育はもはやてごころの必要から解放される。ふしぎなことに好奇心が特別に旺盛(おうせい)で、忍耐心の強い子供はいつの世にも生まれてくる。彼らは初歩教育の段階から知識への興味を示し、先の見えない長い習練過程にも適性を見せる。必要なのはそういう子供の自発性に妨害を加えず、制度によって足踏みを強いないことだろう。逆にいえば、彼らを早くから本格的な知識教育の試練にあわせ、学校秀才の慢心から目覚めさせることなのである。
 誤ったエリート意識は、けっして真の競争のなかからは生まれてこない。むしろ中途半端な知識教育のぬるま湯に長く置いて、つねに勝者の慢心を許すことが、世間知らずの秀才意識を育てあげる。知識教育と技芸教育を早期に分けることは、エリート教育どころかまさにその逆にほかならない。知的な子供を高度な学習環境にさらすことは、別の意味で彼らを社会の現実に触れさせることなのである。
 それでもなお、二つの教育が社会を分裂させ、人間性を歪(ゆが)めると恐れる人は、現実社会そのものの教育機能を信じない人である。いつの時代にも、人は人に会うことで他人を知り自分を知る。とりわけ対人サービスの価値の高まる二十一世紀には、知識人間は技芸人間の恩恵を受けて、そのありがたさを日々に実感する社会がくるはずなのである。
◇山崎正和(やまざき まさかず)
1934年生まれ。
京都大学大学院修了。文学博士。
大阪大学教授を経て、東亜大学学長。劇作家、評論家。

 
 
 
 
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