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1997年1月号 正論
編集長インタビュー
私が反日歴史教育に挑んだ決定的な動機
東京大学教育学部教授●藤岡信勝(ふじおか のぶかつ)
聞き手 大島信三(本誌編集長)
 
 《十一月四日、早稲田大学の学園祭で約百五十人が参加して同大のサークル「歴史研究会」主催の公開シンポジウムが開かれた。テーマは「戦後51年目の『史観』論争を考える――近現代史の再構築』とは何か?」で、藤岡教授は講師の一人として招かれた。ほかに八千代国際大学の浜林正夫教授らが出席した。
 翌五日の産経新聞朝刊によれば、「・・・会場からは『(慰安婦問題などをめぐる)教授の感性が許せない』などと藤岡教授への感情的な“批判”が相次いだ上、司会者が発言を求める藤岡教授を遮るなどしたため、議論にはならなかった」という》
 
 ――昨日の早稲田祭は騒がしかったようですね。
 藤岡 ええ。あれは討論会の名を借りた私に対する糾弾集会だったんですね。席を占めていたのは、ほとんどは学外も含めて動員されてきた学生でしょう。ただ、中に必ず真面目な参加者がいますから、その人たちに向けて話をしました。終わって会場を出かけたところで十人ほどの学生が、「サイレント・マジョリティーは先生の味方です」といって握手を求めてきました。
 
 ――どういう招待の仕方をされましたか。
 藤岡 歴史観の見直しについて立場の違う人と討論してほしいという話でした。お相手の浜林正夫さんはイギリス革命史の研究家ですが、私を批判した例の二十六人の大月書店の本(『近現代史の真実は何か』)の著者の一人ですね。
 浜林さんを私は学生の頃からよく知っていました。しっかりした学者で、立場はいま違いますけれど、尊敬していた方なんです。主張するところは主張し、学ぶところは学ぶ。浜林さんの胸を借りるつもりで受けたわけですね。
 
 ――先日、トーニー著・浜林正夫訳『ジェントリの勃興』を読み返したばかりなんです。相手に不足なし、ということでしたが・・・。
 藤岡 ところが相手は浜林さんだけじゃなかった。もう一人加わると学生がいってきました。その人は私と浜林さんのどちらにも批判があるということだった。あたかも中立的な立場だというふうな触れ込みだったんですよ。
 その人は彼らのセクトの先輩で、要するに新左翼のカビの生えた階級闘争理論を振り回して言っているだけでした。浜林さんは学者ですから多少の良識もあって、論理的に私の考えを批判的に検討しようとされている。けれども、その人はただの戯言みたいなことをいうんですね。
 三人招いたんだから、三人の間の討論会というのが普通ですよね。
 
 ――そうじゃなかったんですか。
 藤岡 最初、三人が三十分ずつ話をしたあと、今度は会場のセクトの学生に次々と発言させた。それは私に対する糾弾なんですよ。なんら理論的な、あるいは実際的な歴史観の検討じゃなくて、もっぱら糾弾。
 私はそういうことには動じませんので、なんら痛痒を感じない。彼らの思考様式はオウムとおんなじなんですね。物事を事実に即して考えることができない。社会主義が崩壊したあとも、彼らはまだおさだまりの革命理論、階級闘争理論を滔々とブッている。自分たちがわかってないわけです。
 
 ――昔ながらの口調で。
 藤岡 ですけれども、全体として左翼は未来を語れなくなったわけですよ。その分だけ、日本の過去を糾弾することに全面的にシフトした。かつての左翼は反日に全面シフトすることによって生き延びようとしている。そこを最後のよりどころにするという形になったと思うんですね。
 かつての左翼の中には、私がコミンテルン左翼と呼んでいるいわゆるコミンテルンの流れをくむ日本共産党系のもの、それに反対する新左翼、そして市民派左翼がある。この境目は多少流動的ですけど、ソ連、毛沢東思想、あるいは日本共産党の評価などをめぐって互いに大喧嘩をしていたわけです。
 ところが、こと日本の過去を糾弾するという段になると、この対立要素はなくなってしまうわけです。未来の展望を失うことによって、彼らは基本的には追いつめられたけれども、結果としては、最後のよりどころである日本断罪という反日にシフトすることによって、逆にある種の連合が成立し、それによって大きな力が生じているわけです。それが背景にあって中学校の教科書に「従軍慰安婦」が登場する事態を生み出したのです。
 
 ――格好の材料がみつかったんですね。
 藤岡 その通りです。早稲田の集会で浜林さんが反日の演説をブッて、新左翼の連中から盛大な拍手を受けている。コミンテルン左翼すら、かつて「暴力集団」といっていた連中と手を組んでいる。そういう現象の象徴的な現れだと思いました。
 
革命幻想はなくならない
 
 ――藤岡先生と西尾幹二先生の対談『国民の油断――歴史教科書が危ない!』(PHP研究所)でずいぶん教えられました。
 たとえば、藤岡先生は、「保守派といわれた言論人、研究者、知識人のグループが、社会主義が崩壊して基本的なイデオロギー闘争は決着がついた、ひと安心だという錯覚に陥っている」と指摘されています。
 たしかに、考えてみますと、革命幻想というのは、いくらマルクス主義の本家が崩壊したからといって、人間の心から排除されるものではない。破壊本能と言い換えてもいいでしょうが、これは人間の業(ごう)のようなもので、決して消滅するものではないんですね。
 藤岡 私も社会主義が崩壊して、二十世紀の大きな宿題に一つの決着がついたと思った時期がありました。けれども、それは非常に安易な見方だということがとてもよくわかったのはオウムの事件なんですよ。
 オウムの事件を見ていて、別にマルクス主義という形をとらなくても、革命幻想というものはなくならないということがよくわかったのです。体制に対するルサンチマン(怨念)というのは、形を変えて生き残る。
 冷戦時代は、ソ連という怪物に対するそれなりの警戒感があって、のみ込まれないようにしなきゃいけないという緊張感をある程度持っていたと思うんですね。その怪物が打倒されたときに、それでことが終わったんじゃなくて、むしろあたり一面に怪物の体液が飛び散ってしまった。社会の隅々に、われわれがそれと気がつかないところまで深く広く浸透してしまった。まさにホラー映画の世界みたいな現象がいま生じていると思うんですね。
 なぜ社会主義が消滅して、世の中が革命幻想から解放されたと思われるのに、このような教科書が出現するのかということの説明は、右のように考えていかないと、なぞが解けないんじゃないかなと思っているんですよ。
 そういうことについての認識が、保守派論壇陣を含めて国民の広い層の中に十分じゃなかった。私はこれは国民の油断だと思っているんです。西尾先生との対談の本のタイトルを『国民の油断』とさせていただいたのは、まさにそのことなんです。
 
 《藤岡信勝教授は昭和十八年(一九四三年)十月二十一日、北海道岩見沢市で生まれた。北海道大学教育学部卒。北大大学院教育学研究科博士課程単位取得。北海道教育大学を経て、東京大学へ。現在は東大大学院教育学研究科・教育学部教授。
 平成七年、自由主義史観研究会を組織。産経新聞に連載した同研究会執筆の『教科書が教えない歴史』(扶桑社)がベストセラーとなったことは周知の通りである。著書に『近現代史教育の改革――善玉・悪玉史観を超えて』(明治図書)、『汚辱の近現代史』(徳間書店)などがある》
 
 ――先生は、左翼学生であったと聞いていますが。
 藤岡 私はごく普通の左翼かぶれの学生でした。高校時代に社会科の教師の影響を強く受けました。いまの学生もそうだと思うんですが、戦争中の日本軍の残虐行為や、軍隊の持っている非人間性などについて、実録とか、文学作品とか、あるいは映画とかの形で本当に浴びるような量の情報にさらされてきたわけですね。自らそういう問題意識を持って本を読む。だから日本国家に対する敵意というものが、一番入りやすいんですね。
 戦後の学校教育に限らず、子供時代に多少とも社会的問題に関心を持つような子供が接する情報環境というのは、もっぱら日本国家の悪をあばく、あるいは軍隊の非人間性をあばくというものなんです。それ自体は特別のイデオロギーではないけれども、それが左翼思想を受け入れる基盤になっている。私もぴったりそういう流れの中で左翼思想に接したということになります。
 
 ――書店に並ぶ新刊書や雑誌にそういう思想が満載されていました。
 藤岡 戦後的な意識のあり方を支えたものには、社会主義幻想と一国平和主義幻想という二つの幻想があったと思います。このうち社会主義というのは自分たちの体験じゃないわけですね。頭の中で考えたというか、あるいは本を読んで知ったものです。ですから社会主義の現実、たとえばソ連のスターリン体制の実態というものがわかってくれば、比較的あっけなく卒業するということがあるんですね。
 ところが、一国平和主義の幻想は、小さい頃から植えつけられた戦争の残虐さというようなもののべースがあります。そして戦後は日本は憲法九条があるお蔭で、戦争をしないですむんだということになっている。そしてそれが体験でチェックされるというような機会がないわけですよ。一国平和主義幻想というのが、本当に幼児から骨がらみになってきた。外国人は、日本人の平和信仰は一種の宗教だと論評するんですけど、まさにそうだと思います。
 
転機となった湾岸戦争
 
 ――山本七平さん流にいえば、日本教の甘美なハト派信仰。
 藤岡 それをチェックされる機会がなければ、平和信仰はとても居心地のいい宗教です。自分は負担を背負わなくていいということになっていますからね。徴兵制なんてまっぴらごめんだと。だれだってそうですよ。徴兵制反対といっていれば、だれも文句はいわない。そういうことで本当に骨がらみになったものだと思うんですよ。それは非常に崩れにくいと思うんですね。
 社会主義幻想のほうは、とくに七〇年代にスターリン体制下の、あるいはその後もソ連の実態が一連の西側から出版された文献で暴露されました。そういったものの中で実態がわかってまいりましても、一国平和主義幻想は、大変お恥ずかしい話ですが、湾岸戦争まで私の中では決定的には崩されなかった。
 
 ――湾岸戦争まで、ですか。
 藤岡 もちろん理論的にはいろんな可能性があることはわかっていたけれど、それを本当に突きつめて考えるという機会がなかったわけです。湾岸戦争で、日本人はだれ一人死んだわけでもなく、ただテレビ観戦しただけですけれども、あれは非常に深刻な体験でした。
 テレビで、アメリカの女性兵士が出征する場面、あるいはアメリカの議会でぎりぎりの激論をして戦争にOKを出したという情報に接して、日本人が平和を叫んでいることの欺瞞性といいますか、あるいは独善性といいますか、あるいは醜悪さといいますか、そういうことを本当に感じさせられたわけですね。
 京都大学教授の野田宣雄さんが、「湾岸から日本に放たれたミサイル」という短い文章ですけれど、『文藝春秋』にお書きになった。自由とか民主主義とかいう自分たちの国と同じ理念を共有する国が自ら体を張って国際秩序の回復のために湾岸地域で汗を流している。そのときに、日本人だけはテレビ観戦でぬくぬくとしている。そういうことに対する倫理的な負い目を日本人は感じている。それを感じていないと豪語する人はまったく倫理感覚が麻痺した人か、あるいは自己を欺瞞している人である。湾岸戦争でミサイルが飛んできて、どこにぶち当たったかといえば、日本人の倫理の背骨にぶち当たった。こういう指摘なんですよ。これは私の当時の心理状態をまさに言い当てていて非常に驚いたんです。
 
アマコスト大使が感動したカンパ
 
 ――実際は、ゲーム感覚でテレビ見物していた日本人が大半です。
 藤岡 最近、東日本ハウス会長の中村功さんにお会いする機会がありまして、そのときに湾岸戦争当時の社内報のコピーをいただいたんですね。それを見て私は非常に感動したんです。中村さんは、アメリカ駐在の社員からアメリカの状況を手紙で受け取って、これは絶対アメリカに協力しなきゃいけないと、社員に向けてカンパを呼びかけたんですね。
 
 ――ほう、カンパを。
 藤岡 それで、集めたカンパを持ってアメリカ大使館へ激励をかねて届けに行ったんですね。アマコスト大使は涙を流して喜んだそうです。大使館にたくさんの日本人が来たけれども、「アメリカ、頑張れと激励するために来てくれた日本人はミスター・ナカムラ、あなたが初めてだ」と、アマコストさんは言ったそうです。
 あのときアメリカは同盟国をまとめ、ああいう国際的な隊列を組識するうえでどれほど苦しい立場にあったかということを改めて感じました。日米同盟が、それによって両国の安全と繁栄が支えられている同盟の名に値するとすれば、そういうときに本当に力を合わせて行動するというのが同盟の精神だと思うんですよ。
 それはなにもお金を出せばいいというだけの話じゃなくて、その精神として、理念として、同じ仲間として行動するのが、私は同盟の精神だと思うんです。そういう精神に沿って最もよく行動したのは、当時の海部内閣や政治家よりも中村さんのような方々だったと私は思っています。
 
 ――誠意のない献金は、どんなに額は大きくとも相手を感動させることはできない。
 藤岡 湾岸戦争の当時、平和を叫んでいれば、平和がくると考えるのは「念仏平和主義」だと司馬遼太郎さんはおっしゃったんですよ。司馬遼太郎さんは巧みな表現をたくさん残しておられます。念仏平和主義に国民は宗教のように染まっている。国民は仕方ないとしても、少なくとも政治指導者は、もっと日本国としての立場をきちんと打ち出さなきゃいけないのに、それがまったくできない。そのことに私は愕然としたわけですね。
 
 ――念仏平和主義者の台頭を招いたものはなんでしょう。
 藤岡 戦後の半世紀の日本の過ごし方というのが大きいけれども、さらに絞っていえば、歴史教育というものが自分の国の物語として本当に生き生きと学ぶということがなくて、日本国家を一方的に悪に仕立てている。
 明治維新以降、日本国家は一貫して対外侵略をしてきた、本質からして侵略的な悪の国家であると。こういうふうに片付けて、そのための裏付けとなりそうな個別の材料を、やれ南京事件だ、やれなんだという形で教える。そういう歴史教育というものが、日本国としてどのように国際社会で振る舞うかという視点をまったく持てない国民を生産している。結局、日本は国家の観念を頭から消し去るという教育をしてきたと思うんですね。
 
「廃藩置県」の授業を参観して
 
 ――歴史教科書の中で一番衝撃を受けた記述はなんですか。
 藤岡 歴史の授業を見たんです、中学校の。廃藩置県の授業をしていたんですね。廃藩置県の授業は、授業としてはロールプレーイングというやり方で面白かったんです。けれども、何をここで教えることになるかということがわからないわけです。
 
 ――ロールプレーイングといいますと。
 藤岡 生徒に明治新政府の役人の役と藩主の役を振り当て、お互いに即席で話させるんです。
 なかなか工夫された授業でしたが、何をここで教えるのか今ひとつわからない。それで教科書を見ると、廃藩置県というのは「藩を廃止して県をおきました。中央から県知事を任命しました」と書いてあるわけですね。それだけだったら単なる制度改革であって、それがどういう意味を持つかはさっぱりわからない。どの教科書もみな同じ。ほとんど国語辞典みたいな話なんですね(笑い)。
 
 ――言葉の解説にすぎない。
 藤岡 一つの教科書だけですけど、廃藩置県の本質を一行だけ書いてあったのです。それは「藩を廃止して県をおいた。そして中央から県知事を任命した」。そこまでは同じなんです、ほかの教科書と。その続きに、「こうして年貢はすべて中央政府に集められることになった」と一行書いてあったんですね。
 それまでは、藩が年貢を集めるわけです。それを武士の家柄に従って禄として与える。その禄の基礎は年貢であるわけですね。その年貢が中央政府に集められるとなると、武士は禄の基礎を失うわけですね。つまり武士階級の一斉解雇というのが廃藩置県の本質なんですよ。そのことをなぜ書かないのか。もう一つは、藩の軍事に関する権限も中央政府に集めた。
 
 ――肝心の説明がないんですね。
 藤岡 ええ。なぜそういうことをしなきゃいけないか。要するに近代国家をスタートさせるための財源がないわけです。その財源を確保するために、武士階級を抹殺する政策をとったわけですよ。
 明治新政府は武士の政権です。武士の政権が自らの階級を廃絶する政策をとったわけです。これはヨーロッパの個人主義的なモデルに基づく人間観では説明がつかないですね。
 ヨーロッパの革命論というのは、一人ひとりの人間は自己の利益を極大にするように行動するのが当然の原理のようになっている。フランス革命も、ブルジョアジーが封建的な古い階級を打倒したというストーリーになっているわけですね。
 
 ――明治維新の担い手はブルジョアジーじゃなかった。
 藤岡 ええ。ですから、ヨーロッパ流のモデルでは説明不可能なんですね。これを説明する唯一の方法は、武士という階級が世界史に例のない特殊な階級であった、公の利益のためには自己犠牲をも辞さない、そういう行動様式、簡単にいえば「武士道」ということになるでしょうけど、それを身につけた独特の集団であったという視点です。
 彼らは幕末の国家的な危機に直面した。西洋列強が日本にやってきて、単に通商を求めるだけじゃなくて、武力によって日本を植民地化するという、そういう危険があったわけです。そのときに従来忠誠の対象だったのは藩で、藩が国家ということだったのですが、その藩の枠を超えて、日本全体の独立自存のために国家体制をモデルチェンジした。それが明治維新ですね。そのときに日本という国家をつくり出すために、武士階級は自らの特権を自ら放棄したわけです。
 
 ――すごいことですね。
 藤岡 フランスの日本学研究者モールス・パンゲが、『自死の日本史』という本を書いたんです。その中で「明治維新は武士階級の集団自殺である」というユニークな解釈を打ち出した。世界史に例のない武士の特質に着目した説明ですね。これは、ヨーロッパ人が明治維新の本質に一番肉薄した解釈だと思うんです。
 明治維新によって、フランス革命の成果に勝るとも劣らない成果を生み出している。
 
 ――明治維新には、いわゆる市民というものが登場しない。それが明治維新にケチをつける人には面白くないんでしょう(笑い)。
 藤岡 どんな身分の出身者であっても、学校を出て一定の能力を示せば軍人の最高位に上がることもできる。そんな社会は、ヨーロッパではすぐに実現したわけじゃないですね。貴族が士官階級を独占するという時代が続きました。
 経済は発展し、教育の普及率についてもほとんど一九〇〇年前後にヨーロッパの水準に追いつきむしろ追い越すぐらいになった。
 政治制度のうえでも、明治維新以後二十年ちょっとでアジア最初の議会をつくって、近代的な憲法を持った。有権者の対人口比は一・二%で、いまから考えると少ないと思われるかもしれませんが、フランスと比べてごらんなさい。フランス革命四十年後のフランスの有権者の比率は〇・六%です。
 しかも、明治維新のコストというのは非常に少ないのです。血の犠牲が少ない。フランス革命は二百万人の犠牲を払っています。明治維新は西南戦争まで含めても二万人から三万人の間です。
 
 ――そんな話は全く授業では出てこない。
 藤岡 ええ。徳川時代の旧体制のトップであった十五代将軍慶喜は天寿をまっとうしているわけです。決してギロチンで殺したりしていない。旧幕府側の人材でも、明治政府が新しい国づくりのために有為な人材は登用している。私はこれは日本人が本当に世界に誇っていい歴史ではなかったかと思うわけですね。
 
 ――授業を見てガクゼンとしたわけですね。
 藤岡 決定的ですね。廃藩置県の授業を見なかったら、自分で取り組もうとは思わなかったと思うんですよ。私には非常に経験主義的な部分が体質の中にあって、体で体験しないとなかなかその気にならないんです(笑い)。
 
一周半遅れている教育界
 
 ――中学の歴史教科書には、どういうわけかフランス人画家ビゴーの絵が使われていますが、ひどいのがあります。イラストとか写真というのは、もっともらしいでしょう。
 藤岡 南京事件の残虐場面などと称して市販されている写真集のほとんどはインチキ写真なんです。だけど、現場の教師は疑わずにそう思い込んでいる。場合によっては、それを平気で子供に提示するんですね。『歴史を偽造した反日写真集』という本をつくりたいと、私は思っているんです。現地の体験を持っている方がまだいらっしゃいますから、いまのうちに教材として使われてきた、あるいは今後も使われる可能性のある写真類を全部徹底検証してみたいと思っています。
 
 ――結局、現場の教師の意識が問題ですね。現状はいかがですか。
 藤岡 一般言論界と比べますと一周半遅れているという感じがしますね。教育というのは基本的に保守的――思想的な意味での保守でなくて、現状維持的な特質がとてもあるんですよ。教育という仕事が持っている特質の反映の部分があるからやむを得ないところもあります。
 しかし、戦後占領軍によって与えられた枠組みをとびぬけて後生大事に護持しているのが教育というセクターだと私は思うんですね。一般ビジネスの世界で完全に過去のものとなっているような固定観念が牢固として教育の中に枠組みとして残っている。とくに社会科を担当している教師。中学校以上ですね。そのなかに戦後民主主義、あるいは革命幻想、そういったものが本当に根深く定着している。ごく常識的な観点でものごとを見ることのできる先生は意外に少ないんですね。
 ですけれども、そういう虚心にものごとを見ることのできる先生は確実に一定数おります。そういう人たちが横に結びついて、お互いにその影響力を広げていくという形で少しずつ教育の現場を変えていくしかないだろうと思うんです。教師自身のものの考え方の進歩というのは、ゆっくり、ゆっくりとしか進まないんじゃないかと私は思っているんですね。
 
【インタビューを終えて】
 一体、中学校の社会科教師を目指す学生は、大学でどんな歴史教育を受けているのか。そこがちょっと気になったので藤岡教授にお聞きしたところ、「教員養成系の大学で教えている先生方の多くは、やはり戦後の講座派の歴史観の影響力が強い」ということだった。講座派というのは、コミンテルンの「三二年テーゼ」の方針に忠実な共産党系の学者である。いわゆる反日歴史教育というのは、二重三重の基盤のうえにあるのだ。
 しかしながら藤岡教授は決して前途を悲観していない。大きな希望を抱くようになったのは、『教科書が教えない歴史』が十一月現在、三十万部に達するベストセラーになったからである。三十人の分担執筆の本がベストセラーになることは、これまでの出版界の常識では考えられなかった。藤岡教授はたしかな手ごたえを感じているようだ。
 藤岡教授は行動する学者だ。これから展開する具体的なプランをいくつか語ってくれた。たとえば教科書研究所のような常設的な機関をつくり、継続的な教科書分析をすすめる。これは歴史教科書の作成まで視野に入れている。その教科書においては、日本だけが悪かったという「東京裁判史観」(悪玉史観)も、日本は少しも悪くなかったという「大東亜戦争肯定史観」(善玉史観)も、ともに一蹴されることになろう。これが自由主義史観というネーミングのユエンでもある。
◇藤岡 信勝(ふじおか のぶかつ)
1943年生まれ。
北海道大学大学院教育学研究科博士課程単位取得。
北海道教育大学助教授、東京大学教育学部助教授を経て現在、東京大学教育学部教授。


 
 
 
 
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