日本財団 図書館


1998年4月号 正論
現場教師が訴える「中学生亡国論」
大阪府枚方市桜丘中学校教諭●長谷川 潤(はせがわ じゅん)
 
いいかげんにしろ! 荒れる中学校
 
 平成十年一月二十八日、栃木県黒磯市で中学一年生の男子が女性教諭を刺殺した。これまでの世間の常識では考えられない異常かつ異様な事態の発生であるが、それに驚愕できない自身の感性が情けない。「何でも起こり得る」中学校の現状に慣らされたのか。この種の事件の発生はかねてから予想されていた。
 平成九年七月末、「朝まで生テレビ」(テレビ朝日系)に登場した東京中心に集まった三十人の教員の中で、筆者も含めて実に六人までが「このような事件(神戸市小学生連続殺傷事件)があなたの学校でも発生する可能性がありますか」の質問に、「ある」と答えたのである。
 それは、日頃から「荒れる中学校」の問題生徒たちと直接対決している現場教師から見れば、十二分に予想可能な起こるべくして起こった事件なのであった。
 翌一月二十九日には、中学生ではないが、茨城県の高一男子生徒が同級の女子生徒を刺し、翌々日三十一日(厳密には二月一日)には、中学三年生男子が「短銃が欲しくて」警察官を刺し殺そうとして逮捕された。
 このような学校現場の実態を次の文章から認識していただきたい。一つは問題学校の実情を告発する中学三年生の女子生徒の声であり、もう一つは中学校教師の投書である(産経新聞平成九年十月二十三日付)。
 
 「いいかげんにしろ!」
 今、かみを染める、学校内、学校外でたばこを吸う、外に出ると知っている人がバイクで目の前を通りすぎていく。もっといろんなことが起こっています。
 そういう人が、授業中、ねむたそうに教室に入ってきて、授業がいやになると「保健室に行く」「トイレに行く」などいいわけをつくって教室から出ていく。私ほこんな人たちを見ていると、「いいかげんにしろ!」とさけびたくなります。でも、言ったら何されるか分からないから何も言えません。
 他のみんなはがんばって授業を聞いているのに、好きな時間(とき)に学校にきて、好きな時間(とき)に出ていく。この人達はこれを自由とかんちがいしているんじゃないかと思います。そして、こんな状況を見ていればだれだって言いたくなると思います。それで、先生に注意されると、「きえろ」「死ね」「殺すぞ」などの暴言をはき、先生に暴力をふるいます。私は、こんな光景を見ていると、なぜか、かなしくなってきます。もし、お父さんが先生で生徒に「死ね」とか言われたらって・・・。
 みなさんも一度考えてみて下さい。先生を、一番大切な人にたとえて。ほんとうに、信じられないくらいに、かなしく、こわいです。
 
 いまの中学教師の世界は3Kの職場の一つではないかと思う。
 第一は「キツイ」。「ウッセエ」「関係ネエヤロ」と罵声(ばせい)を浴び、ときには、小突かれたりけられたりしながら、生徒にかかわる。勤務時間が終了しても生徒指導で遅くまで残り、休みの日も万引で連絡があれば飛んでいかなければならない。休む時間などはないに等しい。
 第二は「キケン」。生徒に手を出されるので危険この上ない。鉄棒やナイフを所持して歩く生徒や、カッとして胸ぐらをつかんでくる生徒もいる。「中学教師は危険と隣り合わせ」といっても過言ではない。
 第三は「キタナイ」。生徒がペッとつばを吐き、トイレでたばこを吸う。給食の残りを外に放り投げる。その処理はすべて教師側に回ってくる。授業も雑務用係も兼ねているのが中学教師の姿である。
 
 ここでは、生徒に見えない部分や、投書した教師が言いたくても言えなかった切実な問題点に関しては、うかがい知ることは出来ない。だが、あえて以下に、「荒れる中学校」の実情とその原因、対応策を略述する。
 
中学校を覆う「見えざる壁」
 
 平成九年六月末、いわゆる「神戸事件」が発覚した時、新聞やテレビは「A少年」の通う中学校をあらゆる角度から報道した。だが、その中で、いかなる教育が行われているか、いたかについては、最後まで不明のままに終わった。
 同校校長の事件への対応は、以後「いのちの大切さ」を教えていきたいという通り一遍のものであったが、不承不承ながらもマスコミや国民は、それ以上、学校当局への責任を追及しなくなった。
 だが、記憶力のよい読者ならば、「どこかで聞いたことがある」と直感したに違いない。そうだ、愛知県で「いじめ」を苦にした中学生が自殺した時、あるいは山形県で中学生がマット詰めにされて殺された時も、その中学校の校長は「いのちの大切さ」を強調していた。そして、この欺瞞的な言葉で大多数の人々が結果的に納得してしまう一般社会と中学校の間には、レンズに写らない見えざる巨大な壁があることを痛感するのである。
 教育の現場では、「いのちの大切さ」は、幼稚園から高校まで、毎年繰り返して数十回、人によっては数百回、またはそれ以上も聞かされてきた言葉なのである。
 「平和教育」「人権教育」「性教育」「環境教育」「交通安全教育」などなど。毎年、組織的、計面的に「いのちの大切さ」を叩き込まれてきた「A少年」が、いとも安易に小学生を連続殺傷したのである。そこで再び「いのち」を教えて、事件の再発防止につながるのか。「何もいたしません」と居直っているのと同じではないか。ところが、マスコミを始め、世間の非難は、「いのち」で消えてしまった。「いのち」とは、何と便利な口封じ用語ではあるまいか。
 A少年の通学していた中学校長が、本当の教育者ならば、「して良いことと、してはならないことの区別、つまり道徳教育を徹底いたします」と発言すべきであったのである。
 
問題生徒が主人公の中学校
 
 「○○が主人公」、特定の政党などが好んで使用する子供だましの宣伝である。
 手元の「広辞苑」によれば、「主人公」とは「(1)主人の敬称、(2)小説、脚本などの中心人物」とある。「中心人物」とは、常に単数または少数であって、多数ではあり得ない。「その他大勢」の端役、脇役の存在を前提に登場するのが「主人公」「主役」である以上、日教組らが主張する「子ども一人ひとりが主人公」などという非論理は、全く成立しない。この学校を支配する組合的発想が否定され、改善されない限り、健全な学校の再生はあり得ない。
 ところが、近年「子ども、生徒が主人公」の状況が、各中学校で往々にして発生している。したい放題、言いたい放題の問題生徒たちが、肩で風を切ってのし歩き回り、ときおり彼らを教室へ入れる時も、やっと説得に応じた問題生の後方に、何人もの教員がついて歩くのである。教師を従えた問題生徒の姿は、まさに「主人公」そのものである。
 主人公となった問題生たちは、治外法権を得た特権階級に成り上がり、一切の制約から解放され、中学校を「遊び場」「社交場」「サロン」として悪用する。
 来たい時に来て、帰りたい時に帰り、出たい時に出て、戻りたい時に戻る。髪は染め、化粧は濃く、ピアスと称して耳に穴をあけ、マニキュアを悪趣味に塗りたくる。大声を上げて校内を走り回り、友人のカサや清掃用具をこわして球技に興じるかと思えば、級友の下足や上靴を靴箱から出してボール代わりに放り投げて遊ぶ。落書き、器物破損は日常茶飯事。時に消火器を噴出させ廊下を白一色に汚し、気が向けば火災報知機を鳴らして教師を走らせる。必要に応じてバイク、自転車を盗み、盗む道具もホームセンターなどから万引してくる。
 教師の指導や制止は全く無視し、答える返事はウソばかり。目の前で喫煙を見とがめられても「知らん」「してへん」で押し通す。少し強く指導をしたり、長時間――とはいっても五〜十分程度――説諭するとたちまち「キレた」と称して暴れまわり、暴言、暴力の限りを尽くす。
 「毎日のように」という表現があるが、荒れる中学校では「ように」は不要である。「毎日」それも数件、日によっては十数件もの問題行動が発生するのである。
 
「甘え」「甘やかし」の構図
 
 問題生徒の問題行動は、残念ながら施設に収容されて頭を打つまで、悪い方向に成長する。
 二年生は三年生の、一年生は二年生の問題行動を日々着実に学習し、非行生徒が鑑別所や施設に収容されても、直ちに予備軍が頭角をもたげる。彼らは、正規の九教科への学習意欲は枯渇しているものの、次のような学習には興味を示す。「遅刻常習法」「授業拒否法」「学校サボリ法」「対教師暴言法」「対教師暴力法」「対生徒脅喝法」「自転車・バイク窃盗法」「家出生活法」「万引法」「夜間自宅抜け出し法」「非行責任転嫁法」「ウソつき通し法」「援助交際法」「ダメな親、操縦法」などなど。試験では一ケタの点数しか取れない問題生たちが、これらの悪の道を次々に修得していく。
 ならば、なぜ、このような問題生が急増しているのか。悪いのは「学校」か。それとも「家庭」か。「社会」か。確かに一部には指導力の欠如した教員や崩壊家庭もある。
 だが、多くの教員は教員なりに、親は親なりに精一杯の努力をしているのである。にもかかわらず少年非行が増加し、悪質化する原因は、このいわゆる「戦後社会」の根本原則が間違っているからに他ならない。「人権」「民主」「話し合い」「理解」「共生」などの既成秩序破壊、問題行動「甘やかし」の論理が、現在の「教育破壊」をもたらした最大原因である。
 やりたい放題の問題生徒の「人権」は「地球よりも重く」、彼らを頭ごなしに叱るのは「理解」ない「非民主的な」否定すべき教育態度であって、生徒との「共感的理解」による「愛情」あふれる指導で、彼らの内面にひそむ善意や向上心を引き出していけば、いずれホンネを語ってくれる。その悩みに真剣に耳を傾け、共に語り合っていけば、彼らは自分たちの誤ちに気づき立ち直るはずである。
 この種の「生徒、子ども性善説」が、いかに現実離れした空理空論、空想であるか、すでに中学校の実情の一部を知った諸兄には理解できよう。
 大人にも善人と悪人がいるように、また、一人の人間の中に善意と悪意が共存しているように、「子供」にも善悪両面が併存しているのである。そして、ここで、あるいは現在の社会で喫緊の課題となっている少年非行は、本来正しい方向に成長すべき青少年が誤った方に向かっているという歴然たる事実に起因している。悪い方に進む以上、断固たる処罰と矯正が必要であるが、神戸事件で二人の小学生を殺した中学三年生が医療少年院で治療、保護されている例でもわかる通り、加害少年は、むしろ「被害者」扱いされるのである。つまり「中学生」「子供」は、すべての犯罪の免罪符であって、彼らの犯罪による被害者は泣き寝入りするしかないのである。
 十四歳までは刑事責任がなく、十六歳までは検察に送致されず、十八歳までは死刑になることはない。
 この「甘やかし」の構図に、問題生たちは最大限に「甘え」てくる。そして、「甘え」がきかなくなれば、オモチャを買ってもらえない子供が床に寝転んで足をバタつかせながら泣きわめくように、「ムカつく」「キレた」と称して罵詈雑言、悪態の限りを尽くし、暴れ回る。対する教員側は体罰禁止もあり、一人の問題生を数人がかりでなだめ、説得するのが精一杯という状態になる。
 
非行の低年齢化
 
 荒れる中学校も、中学校だけの問題ではない。平成九年八月から読売新聞が特集した「小学校でいま何が」では「学級崩壊」という新造語が生まれた。
 著者など中学校の教師から見れば「小学生ごときに」と一笑に付したい思いもするが、小学校では深刻な事態になっている。授業中の私語、立ち歩き、ゲーム、飲食などで、正常な授業が成立しない学級が多出しているという。やがて担任は指導に疲れ、絶望し、休業、場合によっては入院するという。そして、倒れた教員に対して、問題児童たちは、反省謝罪するどころか、逆に勝利の満足感をおぼえることが多いらしい。
 中学校での「したい放題」はすでに小学校段階で始まっているのである。小学校で「甘え」「甘やか」されてきた生徒が、中学入学後の比較的短期間に「厳しい教育」に触れなければ、どこまでも増長し、ワガママになっていくのは当然である。
 中学一年生の担任を持つ時、場合によっては三年生担任でも「初めての男の先生で喜んでいます」と言われることがある。男性であるだけで高く評価してくれるというのも、世間が教育に厳しさを求めている例証かも知れない。
 事実、平成八年度には千葉県で小学生一人が覚醒剤事件で補導されるなど、「女社会」の小学校――学校によっては九割以上の教員が女性――での「厳しさ」の欠如が問題となっている。
 
急増する「駆け込み非行」
 
 非行に走る問題生徒の多くは、「大人」「教師」「親」「警察」など、自分たちのワガママを制約する存在に敵意や警戒心を抱いている。一年中キレているわけではないから、自分たちの勝手な行動とそれに対する社会の対応を直感的に判断し、より巧妙に立ち回ろうとする。彼らに反省や向上といった観念は希薄であるから、先輩などから伝え聞いた法的知識や教師の限界、親の心理などを知悉して、好き勝手を続けようとする。
 問題生徒の価値基準は、次の二種類の項目を組み合わせた四通りに大別される。「好きか嫌いか」「損か得か」、この基準を基に判断する問題生徒に対して、高邁な教育の理念を一時間説いたところで、「馬の耳に念仏」「猫に小判」の類でしかない。
 彼らは「好きで得」なものは徹底して追求する半面、「嫌いで損」なものは極力拒否し、時に暴力を振るってでもワガママを通そうとする。ならば「嫌いで損」なものは何か。それは「授業」であり、「服装を正すこと」であり、「教師や親の指導に従うこと」である。基本的生活習慣を守ることは、彼らにとって苦痛でしかない。
 逆に「好きで得」なことは、まず「自堕落」な生活態度であり、日立つ――悪趣味に――外観を装い、人前でバイクを乗り回し、喫煙やツバ吐きで格好をつけ、深夜徘徊、深夜カラオケなどに興じることである。「援助交際」は「好きで得」と判断する女子もいれば、「嫌いだが得」と思う者もいる。シンナーなどの薬物に関しても「好きで得」「好きだが損」と嗜好が分かれる。
 ともあれ「非行」に価値を見出す問題生たちにとって、いかに「損せずに」それを楽しめるか、は一つの課題には違いない。
 それを彼らなりに解決しようとしたのが「駆け込み非行」の急増である。大阪府警本部発行「大阪の少年非行」(平成九年版)によれば、平成八年度の大阪での「非行少年」中「触法少年」――十四歳未満の刑法犯少年――が実に三千九百八人もあり、東京の三・三倍も補導されたのである。刑法犯少年の検挙、補導件数が全国一位の大阪において、この十四歳未満の犯罪増加は、「十四歳になって刑事責任が負わされるまでに、好きなことをしておいた方が得」という心理に起因している。この種の心理や知識は広く知られていて、「警察に捕まっても一回目は鑑別所に入れられない」「親を泣き落とせば教護院に行かずにすむ」などの「常識」が語られている。
 この駆け込み非行は、非行の低年齢化止も相まって、今後急速に全国へ波及するであろう。これに対する一時的な方策は、少年法適用年齢を一歳下げて十三歳にするしかない。
 
凶悪、集団化する少年非行
 
 この一年間だけみても、少年非行の悪質化は止まるところを知らない。特に、中学生犯罪は、量、質共に劣悪化している。「神戸事件」は言うに及ばず、前年十月三十日付朝日新聞は「少年の凶悪犯罪」を「戦後第4のピーク」と伝え、「強盗事件過去30年間で最高」と報道した。
 だがこれは「氷山の一角」なのである。警察の把握している件数は、実際に発生したそれとかなり違っている。例えば、十二月二十三日付産経新聞によれば、文部省の調査による平成八年度中の中学校での「校内暴力」は「八千百六十九件」――これとても氷山の一角なのだが――であるのに対し、前掲「大阪の少年非行」によれば、同年度の全国における校内暴力は「八百九十七件」にすぎないとされている。警察統計と現実の乖離を認識する必要があろう。
 平成九年一月滋賀県大津市で、中学三年生三人が「おばちゃん狩り」と称して主婦中心の女性から「ひったくり」を重ねていた。
 同年二月には大阪市内の中学三年生三人がいわゆる「セクハラ」を女性教師に行ったとして逮捕され、三月には大阪府寝屋川市でホームレスに一万発のエアガンを乱射したとして中学二年生十四人が補導された。
 同月末には中三女子中心に三人の少女が「ひとの男に手を出すな」と中三女子を一時間にわたってリンチ。また、三重県では中学二年の男子が主婦を殺害、そして、神戸市では「神戸事件」の発端で重傷を負っていた小学生が死亡した。
 その後も「自殺」「先輩殺人」「父親殺人」「リンチ殺人」「路上強盗」「対教師暴力」「監禁強盗」「傷害」「高額ひったくり」などが中学生の犯行としてマスコミをにぎわした。
 平成九年十二月四日付読売新聞では、父親を刺殺した中学三年生(大阪府高石市)の通う中学校長が、神戸事件の時に「命の大切さを全校生徒に話したが、云々」のコメントを載せていた。またまた無意味の「いのち」発言であったが、十五日後には、東大阪市での中学三年生四人組による教師袋叩きが読売新聞で報道された。四人中一人は、その模様を写真撮影していたという。写された教師の無念さをおしはかるべき術もない。
 そして、平成十年一月二十八日の栃木県における中学一年生による女性教師刺殺事件である。さらに二月二日未明には、東京都で短銃欲しさの中学三年生が、警官を刺殺しようとして捕まった。マスコミは、それを「ふつうの生徒」の犯行と強調した。
 だが、筆者の経験からすれば、普通の生徒が凶悪犯罪を行うのは数十分の一、数百分の一の確率である。事件が発生すれば、マスコミヘの窓口は「校長、教頭」の管理職となる。彼らの知っている問題生は、せいぜい二〜三十人どまりであって、それ以外は「ふつうの生徒」なのであろう。今回、殺人及び同未遂を犯した少年は、決して「ふつうの生徒」ではないと確信する。
 とまれ、この少年非行の悪質化は、女子中学生にも広がっている。
 
居直る小悪魔たち
 
 平成九年版「犯罪白書」によれば、昭和二十五年を一〇〇とした指数で、男子はその検挙人員が余り変化していないものの、女子は平成八年度に「二八五」、つまり三倍近くに増加し、その傾向は続いている。
 その内訳は、八割までが「窃盗」であるが、「横領」の急増がめざましい。これは以前に「占離(占有離脱物横領)」と呼ばれていた放置バイク、自転車の無断借用を意味する。本来、女子生徒が「女性らしさ」を保っていた時には、女子は「乗り物」に余り興味を示さなかったのであるが、日教組らの「男女共生」教育なるものが功を奏したのか、バイクなどを乗り回す者が増えた。
 バイク盗、無免許運転以上に危険で問題があるのは「性非行」である。
 むろん、大多数の女子中学生は、健全な青少年としての生活を送っている。だが、少数の問題傾向を有する女子は、男子ともども非行を繰り返し、「万引――家出――テレクラ――援助交際――妊娠」の最悪コースを辿る場合がある。しかも、彼女らの多くには、性的行為に対して被害者意識が希薄な点に問題がある。「したいことをして何が悪い」と居直る小悪魔たちを、頭ごなしに叱りとばせる大人、教師、親は少ない。平成九年十一月十二日付産経新聞には、「分ってほしい 援助交際は売春だと」との見出しで、PTA全国協の調査では中学三年生の女子一六%が「援助交際」に「抵抗がない」と回答したとのこと。道徳観念や倫理感の欠落した「戦後社会」では当然とも思えるかも知れないが、いわゆる「援助交際」なる少女売春がまかり通る異常な社会を放置するわけにはいかない。
 それにしても、いわゆる「従軍慰安婦」や「東南アジアの少女売春」などで、現在、過去を問わずに日本人男性を攻撃しまくる勢力が、この眼前に横行している日本少女売春を全く問題にせず、むしろ「性の解放」めいた解釈をしているのは、筆者如き凡才には理解出来ない珍現象である。
 
広がる覚醒剤
 
 近年「シンナー吸引」が急減してきた。昭和五十七、八年をピークとして約三万人――うち八〇%以上が少年――もあった「毒劇物法違反(シンナー吸引が中心)」が、平成八年には六千人弱――うち少年の比率は約三分の二に低下――にまで減少した(平成九年版「犯罪白書」から)。
 だが、シンナーの減少に反比例して、「覚醒剤」の青少年汚染は急速に拡大している。平成九年十二月二十一日付産経新聞によれば、同八年中に「覚醒剤取締法違反」で送検された学生、生徒数は七〇%以上増加し、過去最高の三百五十四人に達したとのこと。うち中学生は二十一人にすぎないが、増加傾向にある。覚醒剤は、シンナーと同様に幻覚、幻聴、妄想等の異常状態をもたらし、犯罪を発生させるだけでなく、本人の心身を廃人にまでおとしめるものである。学生検挙者こそ三百人台であっても、少年全体の検挙者は八年度で千四百四十二人にも及び、現在増加中である。
 覚せい剤は、シンナーに比べて高価であるだけに、購入代金ほしさの犯罪や援助交際の急増が予想される。その現象を加速化させるものとして「イラン人密売犯」の横行が指摘される。
 法務省保護局編集「更生保護」平成九年十二月号によれば、警察庁薬物対策課理事官、大橋亘氏が、青少年乱用の具体的事例と共に、イラン人密売人の暗躍を紹介している。これまでは暴力団組織からしか供給されなかった覚醒剤が、イラン人を通して簡単に入手できるようになり、青少年に流行しているというものである。
 
非行を助長する「日教組イデオロギー」
 
 昭和二十二年六月、占領軍許可の下に結成された「日教組」は、GHQの「初期対日占領方針」に基づいて、教育面での「日本弱体化」を目的にした組織であった。そこでは旧来の道徳、価値秩序のすべてを根底から破壊することが是とされ、占領軍やモスクワ、北京からの遠隔操作によって、わが国の教育は根本的に歪められたのである。
 日教組の基本原則は、占領軍に迎合する「日本及び日本的なるものの否定」と、北京、モスクワに隷従した「唯物史観、階級闘争」理論にあった。
 彼らは、「国旗」を否定し、「国歌」を拒否し、「国土」を守ることを「侵略戦争につながる」と教え、「国史」を歪曲して侵略、暗黒、蛮行の「日本史」――就中「戦後神話」――を創出した。「国民」を「人民」と言い換え――さすがに近年は「市民」と改称している――、「国家」を黙殺して「国際」を多用し、母「国語」さえも世界に数千もある言語の一つにすぎない「日本語」に貶めた。
 およそ「国」と名のつくものすべてを否定した彼ら「日教組」及びその構成員に育成された勢力は、唯物史観の階級闘争路線を、わが国の全分野に拡張した。「独占資本対労働者」の対立から始まって、学校では「校長・教頭・管理職対組合員」「教員対生徒」「教員対父兄」「差別者対被差別者」「日本人対在日韓国・朝鮮人」、そして「男性対女性」「大人対子供」と、次々に人間を「支配、被支配」「差別、被差別」「加害、被害」という概念に分断し、相互に対立させ、「被支配、被差別、被害」の弱者が最も発言力を有するという異様な倒錯社会を形成していった。
 その論理からすれば、社会規範を犯し、他人への迷惑を繰り返す問題中学生たちは、「子供・生徒」なるが故に暴圧的な「大人・教師」の被害者であって、決して加害者になり得ない免罪符(特権)を、その年齢ゆえに付与されているのである。
 例えば「神戸事件」発覚に際して、A少年への朝日新聞紙上の識者の声を見よ。平成九年六月二十九日付朝刊二十九面、「受験という現実の壁にぶちあたっていたのではないか」「毎日が偏差値漬けの生活」「容疑者の少年も社会に殺された、と言える」「自由な自己形成を妨げている現代の抑圧、管理構造への反発が背景」「わずか十四歳で、ここまで追いつめられていたとすれば、痛々しく、心が暗くなる」。これらの無責任な評論にふれて「心が暗くなる」のは筆者だけであろうか。
 殺された二人の小学生、傷ついた小学生、彼らの家族や友人、心配していた地域社会の人々への配慮や思いやりの言葉は、どこにもない。猟奇殺人を犯したことへの非難や糾弾、反省を求める声もない。単に「子供・中学生」というだけで、凶悪犯罪者が「被害者」扱いされるのである。この紙面を読んだ家庭的に恵まれない小・中学生の中には、同じことをやって自分も周囲からチヤホヤされ、同情されたいと思う者が出ても不思議はない。
 この種の倒錯の論理が、マスコミや教育界の支配的潮流である限り、「被差別、被抑圧」の情況にある少年たちが「非行」に走るのは当然の社会現象である。
 現在の少年非行、とりわけ荒れる小・中学校の現実は、「日教組イデオロギー」――全教も含む――汚染による当然の帰結なのである。
 
定見なき文部省、教育委員会
 
 かつては、文部省にも多くの「サムライ」――今や国際語である――がいた。だが、例の「日教組との歴史的和解」以来、日教組イデオロギーが文部省を侵蝕し始めている。教育白書の見出し一つ読んでも、日教組用語が散見される。各地の教育委員会とて同様である。二月二日付読売新聞によれば、今回の「女性教師刺殺事件」で、当該校で全校一斉の所持品検査を実施したとのこと。当然である。
 ところが、県教委が「人権には十分配慮するように求めていた」ために「一部の生徒は拒否」したそうである。「見せたくない人は見せなくてもいいが、見せてもいいよ、という人は見せて下さい」と告げる担任もいたという。
 この愚劣極まる教委、学校当局の「人権」重視路線は、「非行育成」「問題生放置」と同義語ではないか。必要があるからこそ実施した教師の指示に対して「拒否」したり「見せたくない」生徒に対してこそ、所持品検査を行う必要があるのである。まして、これだけの事件の後に問題生徒のワガママを許せば、類似行為を誘発する恐れもある。殺傷事件を防止することよりも、生徒のワガママを聞いてやることを「人権を守る」と本末転倒させている教育界に、果たして本当に責任ある教育、指導の能力が具備されているのであろうか。
 さすがに二月四日付産経新聞では、社説で「持ち物検査も教育の一環」と題して、「生徒の人権といっても、生徒がナイフを持つ自由まで認めているわけではない」と当然の認識を示している。
 問題生徒のワガママや甘えを無批判に受容し、甘やかすことを「人権尊重」と思い込んでいる教員・学校・評論家らは、特に「児童の権利に関する条約」批准以来、権利偏重、義務無視の落とし穴に転落している。「子ども」に大人並みの「権利」を与えるならば、同様に大人並みの「義務」をも要求すべきである。「権利」と「義務」が表裏の関係にある契約社会――その是非は別として――の原則を逸脱した甘やかしは、この過保護社会で一層の混乱をもたらせるだけである。
 「厳しさ」「自己責任」「義務観念」の喪失故に発生している諸問題の解決に、「やさしさ」「理解」「権利」などで対応しようとするのは、燃えている家にガソリンをかけて消火を図っているのと同様である。
 
崩れいく日本の家庭と地域社会
 
 米国社会の荒廃、とりわけ「家庭崩壊」が話題になって、すでに久しい。戦後、良くも悪くも米国の後追いをしてきた日本社会は、当然ながらこの歓迎出来ない「国際化」の荒浪を受けている。
 平成十年元旦に発表された九年度の「離婚」は推定二十万五千組、八年度よりも一万八千組の増加とか。それは「母子家庭」「父子家庭」つまり「欠損家庭」の増加を意味する。むろん、大部分の欠損家庭の生徒は健全で明朗な中学生生活を楽しんでいるが、問題生徒の半数前後は「欠損家庭」またはそれに近い状態にあるのも事実である。
 そのうち、「母子家庭」が圧倒的に多いが、それは「父性」の不足をもたらしている。両親の揃っている家庭でも「父権の衰退」は顕著である。この母性過多、父性不足は、今日の甘え社会に大きな悪影響を与えている。
 女性教師に幼稚園と小学校で指導され、中学校で出会った男性教師は「お友だち」、自宅に帰っても父親は遊び相手程度。厳しく叱られたことがなく、何でも母親や女性が世話してくれれば、ワガママな甘え人間が大量生産されてもおかしくはない。
 いわゆる「戦後教育」によって道徳的価値観を奪われた現在の保護者の中には、基本的生活習慣をわが子にシツケられない者が多い。
 「挨拶」「返事」が一通り出来る生徒は一学級に数人いるかいないか。背筋まで伸ばさずとも普通に椅子に座れる者は数分の一、少し手もちぶさたな時には、机、壁などに無意識に落書きをする。床に試験の答案が落ちていても誰も拾おうとはせずに平気で靴跡をつけていく。昼食時はおかずなどが落ちても拾って捨てることはなく、それを他の者が踏んでも皆平然としている。学校、家庭の双方でシツケが出来ていないのである。
 「させる」という「強制」が、「非民主的」な「人権侵害」として否定される――例えば「日教組教育新聞」平成九年十二月二十三日号によると、保育所や幼稚園で「三歳児」に漢字、ピアノを教えること、スイミングクラブに行かせることが、「日の丸」への敬礼指導、「君が代」の斉唱指導と並んで、「権利侵害」と明記されている――のであるから、何をしたら良いのかわからない生徒が増えるのも当然であろう。
 それを取り巻く地域社会も、年と共に「隣は何をする人ぞ」といった冷たい関係に変化しつつある。都市、農村を問わずに地縁的共同体が弱体化し、あるいは崩壊しつつあり、地域ぐるみで青少年を育成するという風潮が薄れてきた。それでも「青少年育成団体連絡協議会」などの名称で有志が活躍していられるのは有り難い限りであるが、過年、東大阪市の公園で指導員の方が非行少年を注意して撲り殺された事件があった。今や非行少年や問題生徒に関わる者は、親、教師、指導員、警官の別なく、文字通り「いのちがけ」の生活を要求されるようになっている。
 家庭での「父性の復権」によって、社会問題発生以前に、家庭内での「厳しさ」を伴うシツケが充実するように期待する。
 
道徳教育の復活、推進を
 
 前節で強調した「家庭教育」の重要性に加え、「マス・メディア」の問題点――例えば失楽園騒動――も多々あるが、ここでは余地がないので、「荒れる中学校」克服の方途を端的に指摘しておきたい。
 現状への対応は、当面必要な「短期的方策」と、抜本的改善のための「長期的視座、指針」に区分して考える必要がある。
 短期的には、まず学校を「教育の場」に回復することである。大多数の生徒が安全に通学し、父兄は安心してわが子を預け、教師は楽しく責任をもって教育に当たる。
 そのためには、阻害原因を除去しなければならない。正常な「学校教育」の阻害要因は、「問題生徒の問題行動」とそれを支える人間集団――例えば非行卒業生や暴走族など――及び論理――日教組イデオロギーや逆差別的論理――である。従って、まず背景を除去しよう。日教組などとても「荒れる中学校」をよいとは思っていない。ならば帰納的に考えて、荒れる原因の「甘え、甘やかし」が結果的に問題生徒や他の生徒の「人権侵害」となっている点に気付けばよいのである。
 暴走族らに対しては、警察力の増強、とりわけ「少年係」の「課」格上げ、人員増加が効果的である。犯罪撲滅を掲げて当選した警察出身の市長誕生で犯罪が半減した米国ニューヨーク市が好例である。
 問題生徒に対しては、改善可能な者と不可能な者を弁別して、不可能と判断される者は無責任にかかえ込むのではなく、ドシドシ排除すべきである。そのためには「少年法」適用年齢の一〜二歳引き下げが必要であり、教師や生徒の安全確保の意味からも「学校教育法」の体罰禁止規定は削除されなければならない。学校から排除された問題中学生は、効果的な矯正、保護を受けるために、いくつかの段階に応じた施設に収容する。少なくとも、現在の「教護院」と「少年院」の中間的施設、そして教護院より軽度の施設は必要となろう。むろんそのためには、法務省の予算と人員を増やす必要がある。
 幸いにも少子化で廃校となった学校・園は多い。それを効果的に活用すれば予算も節約できる。
 現状のまま推移すれば、思い余った教師が問題生徒を殺す事態さえ予測される。問題生徒には文字通り「登校拒否」を出来るなど、「強い学校」を再生したいものである。家庭、学校、地域、関係諸機関の「四位一体」が成立すれば、「たかが生徒・児童」に振り回される愚は消滅しよう。
 だが、それらの対応は一時的なものにすぎない。長期的には、「日本人としてあるべき」生徒像、社会像、価値観を確立しなければならない。大部分の国民が、各々そのところを得て毎日を楽しく充実して生きていくためには、道徳律の確立と、その教育が必要不可欠である。そのような社会になれば、現在の青少年を取り巻く問題は雲散霧消するに違いない。
◇長谷川 潤(はせがわ じゅん)
1947年生まれ。
同志社大学文学部卒業。
民間企業勤務の後、大阪府枚方市の中学校教諭。


 
 
 
 
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