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私はこう考える【教育問題について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


2000年5月号 正論
教育基本法をいかに葬送するか
その全面改定私案
評論家●西部 邁(にしべ・すすむ)
 
 沖縄サミットの直後に行われると見込まれている解散・総選挙においては、教育改革を最大の争点にすると与党がすでに発表している。教育とは一言でいえば人間改革のことであり、それゆえ、打ち続いた平成の制度改革運動はついに「人間改革法の改革」という臨界点にまで到達したことになる。制度とは一面では法律や慣習によって形づくられたインスティテユーション(機関)のことであるが、他の一面では、そこで行為する人間たちの意識の定型でもある。
 だから、どんな社会制度も、またいかなる制度改革も、それにかかわる人々の社会意識によって裏打ちされていないかぎり、うまく機能しない。平成改革は、この立て続いた失態のはてに、とうとう平成日本人の意識改革に着手するほかなくなったのである。
 言い換えれば、それは平成改革が崩壊寸前の臨界状態に近づいたということを意味する。なぜなら、ラースト・リゾート(最後の拠り所)としての教育問題は、認識論の方面ではよく知られているように、人間の認識を扱うものとしての知識人にとって、スタムブリング・ブロック(躓きの石)なのだからである。
 エデュケーション(教育)は「抽き出す(ひきだす)こと」を原義とする。そこに胚胎するアポリア(解き難い問題)は、一つに、抽き出される人間の可能性ははたして真か偽か、善か悪か、美か醜かということであり、二つに、その抽き出し方としての教育法が、あるいはそれを抽き出す者としての教育者が知性と徳性の両面ではたして完全な状態に近づいているのか、それとも不完全の度を増しているのかということである。戦後教育そのものがヒューマニズムの名において人間性についての楽観に舞い上がり、そして進歩主義の名において知識および知識人への軽信に浮かれ騒いできた。神ならぬものとしての人間が人間を完成に向かわせると構えるのが、好むと好まざるとにかかわらず、教育の取らざるをえない姿勢なのであり、したがって教育はつねにクリティカル(臨界的で、危機的で、そして自己批判的)な作業となる。このことを自覚してかからなければ、平成の教育改革は日本破壊の最後の一撃となるのではないか。
 
平成改革の袋小路
 
 十年間に及んだ様々な改革がなべて失敗の様相を呈しているのは、畢竟(ひょうきょう)するに、リフォーム・トゥ・コンサーヴ(保守するための改革)の精神に立っていなかったからである。それらが「改革のための改革」に狂奔したのは、保守すべき国もしくは公の性質(国柄)、利益(国益)そして政策(国策)を失念したり放棄したりしていたからである。そのことを逆にいうと、「人間の自由」と「技術の合理」とに法外の重きをおくアメリカニズムの軌道に、その端的な例としては市場主義の路線に、乗っていれば、個人も社会もひたすらに進歩するはずだ、という妄想にふけっていたということだ。
 しかし、今現在もIT(情報技術)革命とVB(ヴェンチャー企業)革新への礼賛となって続いているそのアメリカニズムの流儀は、放縦放埒としての自由と価値喪失としての合理、それしかもたらしてはいない。いわれるところのグローバリズム(世界主義)なるものも、アメリカニズムと同義であるのみならず、ヴァルガリズム(俗悪主義)とほぼ等置されて然るべきものにすぎない。
 こうなってしまった最大の原因は、自由を発揮し合理を享受してきた今世紀後半の現代人の精神的質が、ナショナルな基盤あるいはパブリックな枠組を失うにつれ、退歩に見舞われてきた、という点にある。自由・平等・博愛というフランス革命の標語は少なくとも流通語としては今も健在なのだが、秩序・格差・競合というこれに対抗する価値のトリアーデ(三幅対)をないがしろにしてきたため、自由は放恣に、平等は欺瞞に、そして博愛は偽善に真っ逆さまに転落している。
 自由と秩序のあいだ、平等と格差のあいだ、および博愛と競合のあいだの平衡(バランス)感覚を保ち守っているのが良識あるものとしてのパブリック(公民)ということなのだが、この平衡の基準はナショナル・アイデンティティ(国民性)のなかからしか、あるいはそれを支える国民の歴史によってしか、示されえない。この間の改革運動は、その平衡基準を国柄の確認、国益の明示、国策の提示として保守するために、(国を忘却し公を足蹴にしてきた)戦後という名の現状をいかに改革するか、という改革論の正道を踏み外していた。逆にいうと、教育改革のことが浮上せざるをえないのは、新世紀日本人の意識のなかから「戦後的なるもの」を払拭するのでなければ、どんな改革も改悪に陥らざるをえないということが、意識するとしないとにかかわらず、事態の推移によって灸り出されているからなのだ。
 
教育基本法という洗脳法
 
 時あたかも憲法調査会が国会に設置され、戦後日本人の根本規範が問い直されようとしている。――この検討が、平成の諸改革がすべてそうであったように、「戦後の総決算」と称しながら、実はアメリカニズムの懐にいっそう深く抱かれて「戦後的なるものの完成」へと向かう、という危険についてはここでは立ち入らない――。忘れてならないのは、日本国憲法と並行して教育基本法が施行された(昭和二十二年三月三十一日)ということについてだ。つまり敗戦日本の占領国は、憲法にもとづく日本国家の根本的改革が可能となるのは教育による日本人の意識の根本的改造を俟ってのことだ、と知悉していたのである。
 その前年にアメリカは、教育調査団を日本に派遣して、日本における人間改造計画に着手していた。戦後日本にあって、制度改革と人間改造はまさに揆を一にして進行しはじめたのである。両方の抜本改革(つまり革命)においてアメリカが意図したのは、つづめていえば、「自分らの為政者に屈従するのは自由民主の価値に反し文明の進歩をも阻害する」と日本人に教え喩すことであった。そしてたしかに、そういう屈従の癖の染みついた大方の日本人は、新しい為政者(アメリカ)に屈従して、国内の為政(統治のための指導、つまり決断と説得のすべて)に反抗する蜜の味を覚えたのである。
 その洗脳の結果はめざましく、教育基本法の煽り立てる「個人の尊厳」と「自主の精神」に則り、家庭を破壊するほどの子供の反抗、教室を崩壊させるまでの生徒の反抗、コミュニティを瓦解させるほどの住民の反抗、産業や企業を解体させるまでの経営者の反抗、そして国家を融解させるほどの選挙民の反抗がこの半世紀余の日本を彩っている。しかもその反抗の挙句に辿り着いた個人という主体の実相はといえば、自室に閉じ込もる子供、学力の低下をさらす生徒、自分らの出した廃棄物の処理に悩む住民、市場活力の笛が吹かれども踊る気力の失せた経営者、そして地球市民といったような空想にまどろむ選挙民といった有り様なのだ。
 尊厳するに足る個性の基盤もみずからを主体となしうる精神の枠組も、その人間の属する「国民の歴史」に根差している。対外的にはインターナショナル(国際的)な関係に開かれ、対内的にはインターリージョナル(地際的つまり地域連関的)な関係を抱え持つ国家(国民とその諸制度との総体)の紐帯を断ち切られた単なる個人およびその集合としての単なる人民は、このように、反抗のはてに無気力に沈み、突撃のきわみで挫折し、そして昂揚のあとに崩落する、それが歴史の通り相場なのである。
 そこで是非もなく教育改革にすがらざるをえなくなるのだが、それが他の諸改革と同様の「制度弄り」に流れるのを避けるためには、教育基本法によって示されている戦後的な洗脳法をまずもって始末しておかなければならない。以下に、前文(この法律では“目次”と記されている)と十一条とからなるその洗脳手続きにたいする抜本改革の私案を(その手続きの意味するところをも抉り出すために、その条文の順序に沿って)発表してみたい。
 
前文第一項
 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
(改↓正)
 われらが理想とするのは、日本の歴史にもとづく文化の価値と社会の規範とが尊重され、そしてそれらが現実の状況における経済の効率と政治の独立の達成に活かされるような、国民の生活であり国家の制度である。この理想の実現は、根本において、国民への教育に俟つべきものである。
 
《設計主義の誤謬》
 
 現憲法は、日本の歴史と(歴史を支える実体としての)慣習と(慣習に内蔵されている“歴史の英知”としての)伝統とを、天皇条項を除いては、全面否定する構えの下に書かれている。そして人権、自由、平等といったような抽象的な普遍理念(の諸断片)にもとづいて国家を人工的に「設計(コンストラクト)」せんとしている。この(F・フォン・ハイエクがいうところの)コンストラクティヴィズム(設計主義)の誤謬を受けて、現教育基本法は、憲法の鋳型に日本人の精神を流し込むことを狙いとしている。日本の(外的に閉じられるとともに開かれ、内的に一様性とともに多様性をも持つ)歴史の流れのなかに、依るべき価値・規範の根拠が示されている、またそれを探らねばならない、と構えていさえすれば、旧ソ連型の社会主義と現アメリカの個人主義との壮大な実験において余すところなく証された、あるいは証されつつある設計主義の誤りに我らの教育をまみれさせずにすむのである。
 
《文化についての無理解》
 
 現基本法は「文化的」な国家に言及しているが、肝心の文化の源泉については、「民主的」でありさえすれば文化が保証されるといった言い方をしている。つまりアメリカン・デモクラシーを疑うことさえ知らぬ無教養な人間が執筆すると、「多数参加の下での多数決」という民主的決定法によって文化が破壊される可能性については一顧だにされていない。貧しい歴史感覚しか持たぬアメリカ人がそうなるのには同情を寄せるべきではあろうが、世界で最も長期の安定した歴史を有しているはずの日本人が文化を歴史に関係づけるという努力を怠ってはならないのではないか。
 
《グローバリズムの美辞麗句》
 
 「世界の平和と人類の福祉に貢献する」のが理想だとしても、その貢献をなすためには、国際社会における日本の政治的独立と経済的力量とが確保されていなければならない。実際にも教育の活動は、とくにその知育の面において、経済的効率性と政治的有効性とを国民に習得させる作業に満ちている。そして確認さるべきは、そうした効率や効果を実現させるには、国民が文化の面において確かな価値観を醸成させ、社会の面において揺るぎない規範意識を形成していなければならないということだ。民主、平和、福祉といっておけば教育の方向が定まると思うのは児戯に類した所業にすぎない。
 
前文第二項
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
(改↓正)
 われらの目指す教育にあっては、国民一人びとりが正義を信じ、真理を望み、美を愛するような個性を身につけるのを助けるべく、国際社会と地域社会との両面のかかわりのなかで形成されてきた日本国民の歴史とそこにおける伝統の精神が尊ばれ、さらにその精神に立脚する個人の自主的な人格が重んじられる。
 
《個人の尊厳という妄語》
 
 現基本法は「個人の尊厳」をいうが、それは「真理と平和を希求する」個人の心が尊いからだ、という理屈になっている。これが妄語であるのは、一つに誰もが自然に真理と平和を希求するとはかぎらず、二つに真理と平和が――それだけが尊厳に値するとしても――何を基準にして成り立つかが定かではない、ということからして自明であろう。仮に(この私案のように)真善美を尊厳の対象にしたとしても、それらを偽悪醜から区別するための基準を個人の欲望に任せるのは、悪しき相対主義――価値の基準は物の見方によると公言する立場――である。そして相対主義によっては、そもそも、真理や平和が何であるかも規定されえないのだ。価値の究極の基準は「歴史的なるもの」としての「良識」のなかにしか求められない。人間個人の知的および徳的な不完全性という(当然の)前提から出発すれば、不完全な人間たちがそれでもなお歴史の試錬を通じて現在へと伝え残した伝統の精神を(少なくとも第一次の)価値基準とするほかないのである。
 
《普遍と個別の混淆》
 
 「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化」と現基本法は簡単にいうが、そこにあるのは、「世界」は普遍的で「個人」は個別的だという両極端の論拠のみであり、それではとても文化を論じるための概念枠組にはなりえない。個人は、その国の歴史的文化を担いつつ、その具体的な表現に当たって、世界にも未来にも通じる普遍性をめざしはする。しかしその普遍性という目標はいわば無限遠にあるのであって、普遍についての言及は、多かれ少なかれ、国民の過去の経験に由来する個別性を免れえない。国民性とは一方で世界性へと上昇し他方で個人性へと下降する媒介的および両義的な概念なのである。この概念を外してしまった上で普遍と個別を繋ごうとすると、人類の世界と人類としての個人という見方しかなくなり、結局、人類一般についてヒューマニズムの見地から喋々するという(戦後教育に典型的にみられる)似非の文化に頽落(たいらく)することになる。
 
前文第三項
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
(改↓正)
 ここに、日本国の歴史の英知に則り、またその英知を明文化したものとしての新日本国憲法の規範に従いつつ、教育の目的と制度にかんする基本を提示して、日本国の歴史の連続的な発展を促すために、この法律を制定する。
 
《現憲法を廃止する必要》
 
 すでにみたように現憲法は設計主義の誤りを犯している。それゆえ、法律に前文を付すという現基本法の異例のやり方も、その設計主義の態度を宣伝するためのものとなっている。憲法は、人民ではなく国民の外部から押し着せられるものではなく内部から自成してくるものとしての、良識的な規範感覚を、成文(もしくは不文)によって確認したものであるべきだ。私案はそのことを明らかにするためのものである。ただし、憲法と教育がほとんど表裏一体の関係にあることを思えば、教育基本法に前文を付すという例外的な処置それ自体は許されるであろう。
 
第一条(教育の目的)
 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(改↓正)
 教育によって国民一人びとりの精神を培うに当たって期されなければならないのは、公私にわたる自己の活動にあって、健全な集団の規律と集団への帰属心を守るとともに健康な個人の人格と個人への自愛心を表しうる能力であり、さらにそれらの活動のあいだの葛藤を解決するために社会の価値および規範の意義を的確に理解しうる能力である。
 
《人格の完成という迷妄》
 
 第一条にみられるヒューマニズムの錯誤については、前文にたいする批判と重なるので、それ以上は触れない。追加すべきは、「人格の完成」という(前世紀後半の、T・H・グリーンなどによって展開された)人間性にかんする楽観主義についてである。「自己(セルフ)」という名の人間は、社会という空間と歴史という時間のなかで生まれそして死ぬものとして、個人性と集団性および私人性と公人性という二様の対比軸によってとらえられるべきものである。結論のみをいう遑(いとま)しかないが、個的で公的な性格として「人格性」が集(団)的で公的な性格として「規律性」が、個的で私的な性格として「自愛心」が、そして集(団)的で私的な性格として「帰属性」が自己の性格の四面的構造となるのである。――なお、この概念図式においてナショナル(国的)なものは「規律を中心にして人格と帰属心にも半ば及ぶ」概念範疇として規定される――。また、人格と規律のあいだに生じる葛藤は主として「法律」によって、自愛心と帰属心のあいだのそれは主として「道徳」によって、人格と自愛心のあいだの葛藤は主として「思索」によって、そして規律と帰属心のあいだのそれは主として「議論」によってそれぞれ解決されようとする。法律・道徳にかんするルール意識そして思索・議論にかんする言語感覚、それらを成熟させることが自己の陶冶にほかならない。
 こうした脈絡を法律において表すのは困難であろうが――それゆえ私案の表現はあくまで試案にすぎないが――「人格の完成」というような(理想というよりも)妄想を法律に掲げてはならないのだ。なお、平和、真理、正義、個人の価値、自主的精神などという理念語が、根拠も文脈もなしに、ぶちまけられている。それのみならず、勤労と責任、というふうに並列させがたきものを「と」で結ぶ言語感覚は、ほとんど病気としかいいようがない。
 
第二条(教育の方針)
 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
(改↓正)
 教育の目的は、国民一人びとりの生涯にわたって、家庭、学校、職場、地域共同体、議会などの場所において追求されなければならない。またこの理想の実現のためには現実的な諸条件への配慮が要請されるのであって、そのためには国民が、各人の日常生活、学問生活および政治生活の全域において、自由と秩序、平等と格差および博愛と競合それぞれのあいだの平衡の知恵としての文化を、維持し発展させるよう努めなければならない。
 
《過剰な理想主義》
 
 教育の「目的」はあくまで理想の水準にある。それが「あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない」というのでは、いくら基本法といっても、虚しき理想主義に堕ちる。また「学問の自由」とて、「思想の自由」一般もそうなのだが、何らかの秩序の下におかれるべきである――たとえばジェノサイドの最も効果的な方法やインターネットによる嗜虐性向の育成法についての学問などは許されるべきことではない。「実際生活に即して」という限定はあるものの、人間の生活がたとえば日常的なもの、認識的なもの、政治的なものに分かたれるということすら押さえられていないのであるから、その限定の意味するところも不明である。さらに人々の実際生活の総体が大衆社会に特有のヴァルカーな姿をさらしているときに、それに即せというのは、理想主義への反動としての、過剰な現実主義にすぎない。また文化は、「創造と発展」の前にまず「維持」されるべきものであり、そのことに言及しないのは日本文化を破壊する意図がGHQ(および法務省の法制局あたり)にあったためとみてよいであろう。
 
第三条(教育の機会均等)第一項
 すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。
(改↓正)
 すべての国民はその能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、宗教的および政治的な信条、性別、社会的身分、経済的地位および家柄による教育上の差別は、いかなる個人および集団の努力によっても除去できない能力差にもとづく差別である場合を別として、認められない。
 
《機会均等という魔語》
 
 いわゆる「結果の平等」が悪平等であり、認められる平等は「機会の平等」のみだ、ということについてはすでに社会的承認が得られている。それにもかかわらず、いわゆる日教組教育にみられるような――運動会で等級を設けるということをすら禁止するような――悪平等が罷り通っているのはなぜか。それは、能力形成にかんする環境説が、つまり能力差は環境条件を変えてやれば(たとえば教育を結果として平等にしてやれば)なくなるという説が幅を利かしているからである。つまり、「能力に応じて」という限定を付したとて、その能力が教育によって全面的に変更可能とみなされてしまえば、その限定は有名無実になってしまう。
 生得的な能力差に注目せよ、ということばかりが私の趣旨ではない。大幅に変更しては社会のあるべき秩序の破壊につながりかねない環境というものがあるのであり、したがって不動の環境とそれゆえの不動の能力差にもとづく教育機会の不平等があるのである。その可能性に配慮しておかなければ、たとえば――日本が一人前の軍隊を持ったとしての話だが――女性が軍事能力において劣っているのは、軍事教育の機会を女性に狭めているからであり、したがって男女平等に軍事教育の機会を与えるべきだ、さらには平等の軍事教育をほどこす(そうすることによって能力差を解消する)べきだ、といった主張が出てきてしまう。
 また逆のこともいえるのであって、人種、信条、性別、身分、地位、家柄は能力の形成と無関係ではないのであるから、それらは「実質的」にいって教育機会の均等を形骸化する。つまり「結果の平等」にもある程度において配慮するのでなければ、たとえば貧乏人の子弟ゆえにその高い潜在的能力が現実のものとならないということになる。「能力に応ずる機会均等」という基準だけによっては、教育から不当に排除されるものも生じるのである。
 
同条第二項
 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によつて就学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。
(改↓正)
 中央政府、地方政府および民間諸団体は、能力を発揮しているにもかかわらず、またその強い可能性があるにもかかわらず経済的その他の社会的格差のゆえに就学困難な者に対しては、財政その他の事情の許すかぎりにおいて奨学の方法を講じるよう努めなければならない。
 
 これについては多言を要しない。「民間諸団体」もつけ加えたのは、次に述べるように、民間にも「国民に教育を受けさせる義務」があろうからであり、「能力の発揮(およびその可能性)」のことを付加したのは、上にみたように、既存の悪環境による能力形成の遅滞という要因のことに触れておきたいからであり、さらに「その他の格差(および事情)」をも挙げたのは、就学の難易は経済的要因のみによって定まるとはかぎらない――たとえばカルト教団の子弟が就学において不利になることもある――からである。
 
第四条(義務教育)第一項
 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。
(改↓正)
 国民は、その養育し保護する子弟に、その子弟が生得的および変更不能な環境条件による理由のために当該の教育を受ける能力を欠いている場合を除き、・・・年の普通教育を受けさせる義務を負い、また政府はその国民の義務遂行を監視し扶助する責任を負う。
 
《普通教育の授与は誰にとっての義務か》
 
 普通教育の期間が何年が適当かはここでは問わない。私の指摘したいのは、一つに教育授与の義務は、国民のみならず、(国民の)政府の義務でもあるということであり、二つに、やむをえない事情によって、普通ではなく、特殊な教育を授けざるをえない(あるいはそのほうが適切な)場合があるということである。本来ならば、「基本」の法律は事態の概略を指定すれば十分なのであろうが、基本法を盾に取って、過剰な義務を国民および政府に課すということが実際に起こっている。たとえば、学校教育への(正当な)不信のゆえに家庭内で教育をほどこすことは違法であり、また特殊教育を必要としている子弟をも(六・三制のような)普通教育の形式的仕組みのなかに押し込めるという事態にもなっている。
 以下、第七条までの条文については紙幅の制限のため私案の要点のみを記すことにする。
 
同条第二項について
 政府は義務教育の「授業料を徴収しない」という規定を改めて、「父兄がその一部を支払う」こともありうるようにしておく。そうするのが「普通教育を授ける国民の義務」という見地からしても妥当であろう。換言すれば、その授業費用のすべてを政府の財政収入によって賄わなければならないという絶対の理由はどこにも見当たらないのである。
 
第五条(男女共学)について
 男女共学を禁止してはならないのはむろんのことであるが、その理由づけとして「男女は、互いに敬重し、協力しあわなければならない」のは、何のための敬重・協力であるか、という指摘が抜けている。「国民の公私両面にわたる活動は男女の協力によって成り立つ」と明記すべきであろう。
 
第六条(学校教育)第一項について
 「法律に定める学校は、公の性質をもつ」がゆえに、政府および「法律に定める法人」のみが「これを設置することができる」というのは、パブリック(公的)とガヴァメンタル(官的)との混同である。学校は、どんなものであれ、多少とも公的な性格を持つのであり、したがって、学校法人法にもとづく政府の民間介入は、そのかぎりにおいて、緩められるべきである。
 
同条第二項について
 「教員は全体の奉仕者であって」という(人権宣言を引き継ぐ)規定については、J・J・ルソーの一般意志の観念にでも依らないかぎり、首肯しえない。教員の基本的な「使命」は「国民の歴史の継承・国家の制度の安定と発展そして国民の生活の充実と繁栄にあり」とするほうがよほどに健全である。
 
第七条(社会教育)について
 その第一項で、家庭や職場などにおいておこなわれる社会教育は「国及び地方公共団体によって奨励されなければならない」というのは、基本法の趣旨に反する社会教育もありうるということを看過している。またその第二項で「国及び地方公共団体は(図書館、博物館などの設置や利用によって)教育の目的の実現に努めなければならない」とあるが、教育は現在世代の国民の、将来世代の国民にたいする義務でもある以上、そうした類の民間施設についても、税の減免などとの引き換えで教育目的に貢献する義務があり、としておいたほうがよい。
 
第八条(政治教育)第一項
 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。
(改↓正)
 公民たる国民は、国の歴史にもとづくものとしての良識を習得すべきものとして、政治的、経済的、社会的および文化的な教養を尊重しなければならない。
 
《良識者としての公民》
 
 公民を、歴史的なるものとしての良識を身につけている者、と定義しておくのはきわめて重要である。というより、公民にあらざるものは国民に非ずして人民なり、と逆規定したほうがよいくらいのものである。また「政治的」教養という形容は、ギリシャのポリスのことを念頭におけば、経済的、社会的そして文化的な広がりを持つものであろうが、高度に機能分化した現代社会では、教養の必要を政治的なものに限定するわけにはいかないであろう。
 
同条第二項
 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
(改↓正)
 政府の補助を受ける学校は、特定の政党への支持および反対することを公然の目的とするような積極的な政治教育をしてはならない。
 
《政治的洗脳の禁止》
 
 学校法人法による介入を受けない学校も(今後は)重要な教育機関になるという可能性を考慮に入れると、(政治的洗脳のような)積極的な政治教育の禁止は「政府の補助をうける学校」のすべてに及ぶ、としておいたほうがよい。また逆に、特定政党への支持や反対を表明するのは政治教育の一環たりうるのであってみれば、禁止されるのはそれ自体が政党活動と区別できないといった種類のものに限られるとしておくべきであろう。
 
第九条(宗教教育)第一項
 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。
(改↓正)
 文化的教養にかんする教育にあって、国民による公私両面の活動において宗教および道徳の占める役割については、これらの教義や徳目にかんする寛容の態度を持しつつ、尊重しなければならない。
 
《宗教および道徳の重要性》
 
 宗教教育の禁止や道徳教育への制限は、それらが特定の宗教の教義や特定の道徳の徳目を積極的に教育する場合にかぎられるべきだ。またそうでなければ「宗教の社会生活における地位」についての教育が不可能になってしまう。神道教育を標的にした(にちがいない)この条文は、教育における徳育の位置を曖昧にするという意味で、犯罪的である。
 
同条第二項について
 政府が設置する学校において「特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動」を禁止したこの条項は、上にみた第八条第二項の場合と同じく、宗教的洗脳に類する「積極的宗教活動」を禁じるにとどめておくべきである。
 
第十条(教育行政)第一項について
 「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負」えという(教育の中立性にかんする)訴えは、文部行政の独断専行を、というより(すでに戦後教育によって精神を染め上げられた感のある)文部官僚による国民の良識への不当な支配の論拠となっている。第六条の第二項についての私案のように「教員の使命」を規定しておけば、それは同時に文部行政の使命を規定したことにもなる。
 
同条第二項について
 教育行政における使命の自覚とそれにもとづく努力を要請したこの条項は、「教育行政には、政府のみならず、民間の個人および団体も積極的に参加すべきである」といった規定も付加しておいたほうがよい。なぜといって、子弟への教育の授与は国民すべての義務だからである。なお「補則」の第十一条は、「必要な法令の制定」を指示したもので、これだけは改正の必要がない。
 
 ヴァーチュ(徳)の本義は「精神の力強さ」のことであり、その力量は、自分の精神の基盤たる歴史的良識を習得する作業をおいては、実現さるべくもない。知育をより効率的なものにすべくどんな制度改革を行っても、徳育を欠いた知育の成果は、偏差値教育がそうであったように、おおよそ雲散霧消の顛末を辿る。たとえばグローバリズムに煽られて英語教育の時間を増やしたとて、小学校における国語、中学校における国史そして高校における徳育の古典学習などが充実していなければ、それは将来世代の精神的活力を衰弱を通り越して麻痺へと追い込む所業となるに決まっている。ナショナルなもの、パブリックなものの学習を教育の基本に据えるよう呼びかけたいと筆者が思うゆえんである。
◇西部 邁(にしべ すすむ)
1939年生まれ。
東京大学経済学部卒業。
東京大学教授を経て、現在、秀明大学教授。評論家。


 
 
 
 
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。





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