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1998/11/25 産経新聞朝刊
【はじめて書かれる地球日本史】(315)西欧の先を見た教育改革(5)
西尾幹二(評論家)
 
 江戸時代の儒者たちは中国の科挙のような大胆な人材発掘法は徳川の世襲身分制度を脅かすのではないかと恐れる一方、人材登用を逃げている幕府の方針にある種の負い目を抱いていた。例えば荻生徂徠は『●園(けんえん)随筆』の中で、しきりに中国の試験制度の不合理をなじり、小人が成功し君子が失敗するのが試験の常で、試験などで選ばれたような官吏は道徳的に無責任で自堕落だと、しきりに弁解めいた言辞をはいている。事実、明の末ごろから中国の科挙は腐敗し、賄賂が横行していた。
 江戸時代はたしかに階層の移動が低い固定社会であった。中期ごろから養子制度等によって若干ゆるむが、決して能力主義の導入ではなかった。町人の世界では「家」を単位とした能力競争、例えば有能な番頭が主家の娘と結婚し主人になる等の風習も少しは出てくるが、武士農民には無関係だった。学問の能力競争が人間の序列を動かし始めるのは(例えば緒方洪庵や広瀬淡窓の私塾で)完全に幕末と言われる時代に入ってからのできごとである。
 こう考えると、教育競争によって、門閥特権階層をなくし、「支配階級の構成・文化両面における非連続性」(R・P・ドーア)を引き起こした明治維新の他国に例のない速度と実行力は、何度もいうようだが、ただごとではなかった。しかしさらに奇妙なのは、そうしてできあがった「平等」な近代社会がずっと能力競争を続けている社会かというと疑問があることである。教育の競争は続いているが、社会における赤裸々な個人競争はできるだけ避け、優劣を目立たぬようにする傾向が底流で極めて根強いのが日本社会である。
 
◆「競争」を嫌う社会
 日本の現代社会は、年功序列がこわれているとはいえアメリカのように面子丸つぶれのドラスティックな降格人事は決してしない。他の部署への左遷はあっても、昨日の部下を今日から上司と仰がせるような割り切った措置はしない。同時に、大企業で二十代の青年をいきなり副社長に抜擢するような人事もしない。
 『福翁自伝』の中に、福沢がある経済論の翻訳で、competitionに思案の末「競争」という訳語を当てはめ、幕府のご勘定がたに見せると、「どうもこれは穏やかでない」「西洋の流儀はキツイものだね」「何分ドウも御老中方に御覧んに入れることが出来ない」というので、やむなくこの語を真っ黒に消した訳文を幕府に提出した、というエピソードがある。このように競争という概念を嫌うのは江戸時代も現代も同じように思える。現代の日本でも、ほぼ同じ資格で雇った人に対してはできるだけ長く同じ給与を払うという慣行がある。相当年数働き勤務ぶりに開きが生じても、著しい差でない限り、露骨な給与格差はつくらない。勤務ぶりのいい方もそれを不服としない。しかし、欧米世界では優劣に対応しない報酬は不公平で、かえって「平等」の原則に反することになる。
 
◆徳を磨く人間教育
 日本では「平等」という概念と「競争」という概念とは決して両立しない。
 「学制発布」の結果「平等な社会」が実現した、と今まで数字を挙げて述べてきたが、日本人は心の底で競争を嫌い、辛い闘いを強いられる「平等」もいやだという点では、江戸時代と現代日本とは本質的に何も変わっていないのではないか。支配者層は交替したかもしれないが、歴史の「非連続」は起きていないとみるべきだろう。
 明治維新が暴力を用いないでそれより以上の効果をあげた革命−暴力革命はむしろ革命直後の権力の維持を最大目的とするためかえって歴史の発展が停止、保守化する−であったことを認めるのに吝かではない。けれども、文化意識は江戸時代と何も変わっていない。科挙のような試験は今の日本人も嫌いである。
 としたら、明治以後の日本を救った教育への国民的情熱は何だったのだろうか。江戸時代を通じ日本人の識字率は高く、教育自体に高い価値が与えられていた。役所の通達が道端の「高札」で民衆の末端に届いた国は当時他に例がない。加えて、人間は誰でも教育によって徳ある存在になりうる、聖人学んで至るべし、の理想が江戸の初期からあった。中江藤樹を見よ。徳と知を一体にした全的な自己教育の理想、人間は徳を磨くことで上位の存在に変わり得る、という人間可変性の観念が徳川体制の身分秩序の固まっていく十七世紀にすでに萌していた意味はきわめて大きい。
 江戸時代から日本人の価値観はむしろ一貫して動かなかったというべきではないだろうか。(評論家 西尾幹二)
 
「西欧の先を見た教育改革」おわり
◇西尾幹二(にしお かんじ)
1935年生まれ。
東京大学大学院修了。
電気通信大学助教授を経て電気通信大学教授。現在、電気通信大学名誉教授。「新しい歴史教科書をつくる会」名誉会長。文学博士。


 
 
 
 
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