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私はこう考える【教育問題について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


2002年1月号 正論
小泉首相よ、教育改革に蛮勇を振るえ
教育改革は何を目指すべきか
中曽根康弘
 
以下は十一月五日、東京都内で開かれた教育改革の方向性を探る公開シンポジウム「教育改革の目指すもの」(日本の教育改革を進める会主催、産経新聞社後援)における基調講演の全収録である。
 
 本日、教育改革に関する討論会が、ここイイノホールで開催されましたところ、こんなに大勢の皆様にお集まり頂きまして、本当に感激しております。また、これだけの皆様が今の教育の現状を憂いてお集まり頂いたことで、日本は大丈夫だと、そういう思いを強く感じた次第であります。
 私の基調講演にそれほどの値打ちがあるものか疑問もありますが、まずは私の考え方を申し上げさせて頂きまして、後で著名な先生方の討論で、皆様方の納得のいく議論をして頂きたいと思っています。私のような政治家の発言は、学者の先生方のご発言とは違い、言いたい放題言って、独断と仮説に満ちたものです。今日も、そのようなことになると思います。
 現在、教育の崩壊、或いは学級の崩壊と、いろいろ言われていますが、私は、この問題の根は深いところにあると思います。そこで、その深い根のどこに基本があるか、根と幹はどこにあるかと考えてみますと、やはり、教育基本法の改正に着手せざるを得ないと、そういう気がするのです。従って、「小泉首相よ、教育改革に蛮勇を振るえ」と、これが私の結論です。
 やはり、現代の教育の動向を見ると、あれもいい、これもいいという議論ではもう済まない段階に入っています。いいものはいい、悪いものは悪いと分別して、いいものの中から、これとこれをやると、そういう重点思考で、中心を衝くような教育論を行わなければ、もう駄目な段階に来ていると思います。
 
憲法と教育基本法は連結して社会構造と風潮を作る
 
 教育の問題とは、学校、或いは学制の体系といったことに係わる問題です。しかし、その基本に在るものは何であるか考えてみますと、それは社会的風潮、或いは社会の基本構造からきているものが多いのです。それに意外と気付かずに、学習指導要領といった目前の技術論、対応力、そういうものばかりに、今まで議論が集中してきたと感じます。しかし、私は政治家ですから、やはり、物事には歴史的観点と哲学的・思想的思考というものが必要だと考えるのです。そのような観点に立ってみると、そこには現代というものを形作っている国家の基本体制があり、その上に社会風潮、そして教育体系や学習指導というものが生まれてきていることに気付きます。つまり、教育基本法と憲法が不可分に結びついていることを我々は考えなければいけないのです。
 例えば、教育勅語は、大東亜戦争に至るまでの日本の精神的バックボーン、大きな柱の一つであったと思います。明治憲法(大日本帝国憲法)が発布されたのが明治二十二年、それが施行され、帝国議会ができたのが明治二十三年、教育勅語が発布されたのも明治二十三年です。つまり、明治憲法の心(道徳的要素)を左右して動かしているものが「教育勅語」にあったのです。また、今日の教育基本法と日本国憲法の関係はどうであるかを見ると、今の日本国憲法が公布されたのが昭和二十一年、施行は二十二年、教育基本法が制定されたのは昭和二十二年、ちょうど私が代議士に当選した年です。
 それを見ても分かるように、憲法と教育の基本法は不可分に結びついています。そして、それらが国家の基本体系、精神的体系をつくっていることが分かると思うのです。その証拠に、教育基本法を読んでみますと、教育基本法には前文があります。法律で前文があるのは珍しいのですが、これはマッカーサー司令部の肝煎りで入れられたものなのです。教育基本法を作るに際しては、マッカーサー司令部は最大の関心をもって指導力を発揮したのですが、そのことからもマッカーサー司令部の意気込みが感じられます。
 そこで、教育基本法の前文を読んでみますと、
 「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」
 そう書いてあります。これを見ても、現代の日本国憲法と不可分の関係にあるということが明らかなのです。
 現在、憲法改正論が非常に強くなってきました。国会でも憲法調査会がもう既に一年半の調査審議をやっています。その調査審議の期間は五年と言われていますが、皆さんからは、五年は長過ぎる、三年ぐらい論憲をして、四年目ぐらいからは各党が憲法改正要綱を提示し合って、それを憲法調査会で論戦し、論判し合う。そして、五年目には改正の実行に入ろうではないかと、そういう方向の議論が今、力強く出始めています。そういう状況を考えると、教育基本法の改正に、すぐにでも着手すべきであると思います。また、現在の社会的風潮等を見ると、やはり、日本国憲法と教育基本法といったものに淵源を為すものが根として深く存在すると思わざるを得ないのです。
 
最近の教育改革の歴史
 
 近年、そのような風潮に対して、改革の努力は何回か行われています。例えば、中教審(中央教育審議会)というものが存在して、教育改革をやってきています。しかし、中教審の今までやってきたことは、大体、文部省主導のもとに総花的、官僚的、臨床的な対応が多かった。教育基本法といった基本的なものに触れるまでの深さはなく、大体、技術的対応論が多かったと思います。
 私の内閣の時にも、臨教審(臨時教育審議会)をつくりましたが、これをつくる時に、与野党のいろいろな関係等もあり、教育基本法には手をつけないという約束で行われていたのです。だから、臨教審の答申も、その基本には触れず、やはり、ある意味において技術的な対応というものがあったことは否定できません。これは私の責任であり、誠に申し訳ないと思っています。しかし、臨教審を発足した意図は、ともかく教育改革を政治の俎上に乗せ、国民的関心を喚起し、その改革論を学者の知恵等から集めて提示して、教育改革を推進しようということであったのです。
 臨教審の答申の内容は、その後も、毎年、毎年、部分的に実施されています。つくったことは決して無駄ではなかったのです。しかし、やはり、それには限度があったと感じています。その過程において、例えば、学力と体力の低下、いじめや非行の問題、或いは受験に忙殺されて伸びやかな個性が育まれないことなど、いろいろな欠点が指摘されて、それに対する対策はずっと講ぜられてきました。しかし、もはやそれも限界にきているのです。それでまた今日の教育改革論というものが出てきて、教育改革国民会議が形成されて、去年の十二月にその最終報告が出されたのです。
 
教育改革国民会議の報告の欠点
 
 私も、その最終報告を読んでみました。確かに、技術論的に総花的にうまく商品が並べられています。しかし、肝心の中身はというと、専門家や学識経験者が集まって、非常に多岐多元的な議論が行われた結果が記載されていますが、そのような多元的な考え方や方法が記載されているだけで、一貫してドシッと貫くような根本的、中心的な精神、或いは方策というものが欠落しています。十七項目に及ぶ提言が載っていますが、提言の中を個々に見れば、これは教育に関する知識の山の中でもがいているという感じがしてなりません。やはり、この時代における教育改革をやる以上は、現在の教育の欠陥というものを見極め、まずそれを中心にして、その欠陥を克服するにはどのような段取りで、どのような順序で、どのような政治力が出てこなければいけないかを考えるべきです。それが今日における報告の性格であると思います。
 特に、教育基本法の改正については、十七項目の最後に書いてあります。これは如何に委員の皆さんが教育基本法の改正に腰が引けていたかということを示しています。
 聞いてみると、会議の中でも教育基本法については随分議論したようです。大部分の人は改正に賛成したようですが、しかし、一、二の学者が反対をした。そういう経緯もあってか最後に提言している。本当ならば、教育基本法の改正というものは、先ほど申し上げた理由からも、第一章第一節から始めなければならない性格のものであるのです(拍手)。
 現在の国家の構成、社会風潮、或いはそれに基づく弊害を考えてみれば、一方で、憲法改正を既に国会で我々は手掛けてやっていますから、当然、教育基本法改正というものは、まず第一に取り上げられなければならない問題です。内容についても、重点主義で、どこが中心的役割を果たすべきか、一貫した精神や体系が隅々まで及んで、その段取りと、提言の内容が出てくるべきであったと思うのです。しかし、実際はそうでなかった。今申し上げたように教育基本法の問題でさえ最後になっていたのです。
 
新学習指導要領の実験性
 
 そのような考えから、むしろ文部科学省で今手掛けてやっている新学習指導要領の方がはっきりして興味深いし、そういう意味での深みがあると見ています。新学習指導要領は、一般の皆さんが目にする機会はあまりありませんが、私は取り寄せて読んでみました。勿論、今の教育基本法も読んでいます。しかし、教育基本法を読んだことがある人は少なく、中身を知らない人がずいぶん多い。
 私が新学習指導要領などをみて、最近興味と関心を持ったことは、公立の小学校・中学校で来年四月から土曜日が全て休みになることです。時代が大きく変化した今、ITであるとか、英語であるとか、環境であるとか、福祉であるとか、或いは奉仕の精神であるとか、そういった重点項目も増え、昔よりも学ぶべきものは多いはずです。その上に、我々が子供の時代とは違い、今の子供たちは多くのことを目にし耳にし、また興味を持っている。我々の時代から見れば、二倍も三倍もいろいろな要素を目や耳で触れています。その中で授業時間が減るのです。今まで大体週平均にして三十時間だったのが、二十八時間ぐらいに減ります。つまり、学ぶことが増えたのに対し、学ぶ時間が減る。それを、どのようにして補うかという問題があります。
 しかし、その対応は考えているようです。つまり、二十一世紀に向かって前進する日本の子供たちを育てるためには、昔のような考えだけでは駄目である。それで二十八時間の内、二、三時間を総合的学習の時間として設け、今言った重点項目も子供たちにどんどんやらせるようです。
 これには、いろいろな教科の時間が減るとか、授業時間が減るという批判もあるようですが、しかし、中身を調べてみると、画一的な詰め込み主義から選択的な展開力を子供たちに持たせようということは、ある種、子供たちの個性を伸ばす方法です。また、子供の数がどんどん減ってきたために、教室も余り、学校の先生が二万七千人ぐらい余ってくる。この余ってくる二万七千人の学校の先生と教室を細分化して、きめ細かい教育を生徒一人ひとりがやれるようにする。そういう野心的な計画で、文部科学省は、この新学習指導要領を出したようです。
 今、学校の現場では学級崩壊、その他、いろいろな問題が出てきている上に、学力がだいぶ不足してきています。授業に追いつけない生徒の割合が、高校で七割、中学で五割、小学校で三割位あるようです。これは、七五三と言われているらしいですね。これを何とか直さなくてはいけない。子供たちが興味を引くように、どのように直してゆくか、その点から、まず取り組んでいくべきです。例えば、不登校を無くし、教室に興味を持たせるために、体験学習といった面を強化したり、奉仕の精神やサービスをやることで子供たちが喜びを得られるようにする。そういうことが道徳的教育の基礎になると、私は思います。
 それを見ると、教育改革国民会議の先生方の報告は対症療法的、今の難しい現状への提言としてはしっかりした精神的背骨がありませんね。
 
教育基本法の問題点
 
 そこで、今の教育基本法をご参考に少し読んでみます。何故、ここで読むかというと、この教育基本法は非常に抽象的な理論、或いは方法論は書いてあるが、日本の国土に根ざして、日本の歴史と文化を背負った国民を育てようという要素がまったくないのです。そのことを申し上げたいからです。
 第一条に、「教育の目的」。
 「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」
 これが目的ですが、これはどの国にも通用するような、所謂人間論、人格論からきているものです。
 第二条に、「教育の方針」。
 「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」
 これを読むと、日本の国というものを全然感じられませんね。
 第三条は、「教育の機会均等」、これは憲法にあるような、人種、信条、性別、社会的身分等によって差別されないという、そういうことが書いてあります。
 第四条は、「義務教育」、九年の普通教育を受けさせるということ。
 第五条は、「男女共学」。
 第六条は、「学校教育」、これは公の性質のものであって、法律に定める法人のみが設置することができるということ。
 第七条は、「社会教育」、国及び地方公共団体によって奨励されなければならないということ。
 第八条は、「政治教育」、政治的教養は、教育上これを尊重しなければならないということ。
 第九条は、「宗教教育」、宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならないということ。
 第一〇条は、「教育行政」。
 第一一条は、「補則」。
 これを読んでみると、日本の歴史的、伝統的文化の尊重と、国家とか、社会といった公の概念がまったくないのです。それからまた義務的なものの責任を重んずる点は、ほとんどまったくと言っていいほどありません。そのような人間を育てて、果たして日本国民として立派な子供に育つか、そういうポイントが、ここでも衝かれなければならないのです。つまり、人格とか、平和という言葉はあるのですが、今言った歴史的、伝統的文化の尊重とか、家庭の教育に対する義務とか、そういうものがないわけです。そのような内容を見ると、この教育基本法は、このままブラジルヘ持っていっても適用できるし、メキシコヘ持っていっても適用できるものだ、ということが分かります。
 これはマッカーサー司令部が力を振るっていた時にできたものであり、その当時の昭和二十二、三年が、まだ、日本解体の時代であったからです。しかし、中国の共産党国家が昭和二十四年にできたり、或いは朝鮮戦争が始まったりして、マッカーサー司令部は日本建設の政策転換をある程度行ったのです。そこで手を入れたのは、安全保障と経済の問題であって、教育の問題や、日本国家再建という基本方向には手を入れなかったのです。だから教育の問題は、そのまま放置され、今まで来ているのです。安全保障や経済の問題であれだけ手を入れたならば、教育についても、日本人的自覚、権利と同時に義務、歴史とか文化的共同体に対する愛着というものを入れなければならなかったはずです。それをやらなかったことが、このように教育が崩壊した社会が出てきた原因にあるのです。
 
戦後文明病の克服
 
 その後の日本を見ると、日本を被ってきた思想は、日本の伝統的な思想、或いは社会秩序や規律、昔でいえば修身というものがありましたが、それらが捨てられて、西洋的なもの、例えば、アメリカのプラグマティズム、フランスの個人主義、英国の功利主義、ソ連の共産主義が氾濫した時代になったでしょう。皆さんご存じのように、日本固有のものは占領軍から目の敵にされ、破棄されたり、机の中に入れられてしまった。安全保障や経済については机から引き出されたが、教育については、机の中にしまわれたままであったのです。
 そういう社会風潮のもとに教育が行われ、日教組が猛威を振るった歴史的経過があり、未だ、その延長線にあるわけです。それが今の学級崩壊、或いは学力の低下などに出てきているのです。それを直すことを、今、我々が心掛けているのであり、皆さんも同じ気持ちであると思っています。
 そこで、一体、教育の基本とは何か。確かに、国民会議の皆さんの報告書に並べてあるように、いろいろな要素を入れなければ近代の教育はできません。そういう意味でいろいろな方面に目を注いで、多元的な、多様的なものに完成させていくことは大事です。しかし、やはり、今の教育の欠陥は何か、その欠陥に対する処方は何か、それが中心に出てこなければいけないと、私は思うのです。
 私の考えとしては、今、小学生で一番足りないことは何かといえば、それは「躾」だと思います。また、近頃よく言われている読み書き算盤、そういう中心的な軸をまず回復しなければならないのです。「躾」となると、それは家庭と先生の力です。それをどのように教えるか、それを親や先生に教えることも必要です。次に、中学生には何かといえば、「私と公」の関係を知ることだろうと思います。つまり、社会や国家と個人との関係を教え、また自分で考えさせることです。高等学校では、古めかしい表現で言うと「志を持て」ということです。そのようなものが、やはり、一つの基本的な軸になければならない。大学では何かといえば、やはり、「使命感を持つ」学生をつくることではないかと思います。
 そのような今の欠陥に対応する一つの考え方を明確に打ち出して、いろいろ周辺的なものを、それを中心にして、体系化してゆく。それが教育ではないかと思います。そのような教育において大切にすべき根本を離れて、抽象的概念のみで、アメリカ、イギリス、フランス、或いはドイツなどで行われているような教育を、そのまま真似して引き写して持ってきたり、いいところだけを寄せ集めるといったことでは日本の独自の教育体系ができるはずがないのです。今の国民会議の報告を見ると、そういう要素がかなり出ています。それに私は不満を持っているのです。
 
教育基本法改正要目
 
 そこで教育基本法の改正の問題です。いろいろ議論があると思いますが、私は、最近のいろいろなものを読んでみて、これが一番いいと思ったのは、西沢先生を先頭に、「新しい教育基本法を求める会」がお作りになった教育基本法の改正要目です。
 それを読んでみますと、
 一、「伝統の尊重と愛国心の育成」
 思い切ってそう言っています。普通、教育者は、こういうことを言うと、国家主義だとか右翼だとか言われるので書かないものです。
 二、「家庭教育の重視」
 三、「宗教的情操の涵養と道徳教育の強化」
 四、「国家と地域社会への奉仕」
 五、「文明の危機に対処するための国際協力」
 六、「教育における行政責任の明確化」
 この六項目を言っています。
 この教育基本法の改正には、歴史と文化、責任、奉仕、家庭、国家、国際性、教育委員会制等の立て直し等、今の教育基本法には無いものが含まれているわけです。これこそが現在の日本国憲法の申し子である教育基本法を改正するという意味なのです。我々が今、憲法改正をやろうとしているのと相応じた姿勢です。憲法改正については、今、国民の皆さんの七〇%が賛成し、三〇%が反対している。五年前はこれはまったくの逆であった。それが今、改正に賛成が七〇%に増えてきたことは、日本民族の民族的体質、歴史的体質がここへ出てきたと、そう見て、私は喜んでいます。
 
日本民族の歴史的同化力
 
 日本民族とは、非常に同化力のある民族です。だから中国や韓国から漢字、漢文が入ってきたのを、片仮名とか平仮名の日本的なものに直してきた。その流麗な日本の文字で紫式部が『源氏物語』のような日本文学をつくった。これは、正に日本人の同化力です。また、明治の時も、伊藤博文がプロシア憲法を模範にして、大日本帝国憲法を作りました。それが国民国家を形成する軸となり、日本は日清・日露の戦争に勝っていった。そういう歴史があるのです。
 そのような面から見ると、ようやく敗戦後五十年にして、ここに、自分の憲法を作ろうという日本民族の同化力、民族的な歴史的体質が出てきたと思うのです。だから、私は憲法改正は十年以内にできるだろうと思っているのです。
 国民の中で、憲法改正論が一番強いのは二十、三十、四十代です。一方で、わりあいに消極的なのが六十、七十代です。それは、二十、三十、四十代の皆さんは、いいものはいい、悪いものは悪いと、そういう割り切り方で前進する姿勢を持っている。六十、七十は戦争のトラウマ、戦争に負けた心の傷がある。だから憲法に触れることに消極的なのです。しかし、二十、三十、四十代に改正論が強いことは、日本の将来に喜びを感じさせるものです。教育基本法は憲法に先駆けて、その根をつくる大事なことです。憲法が幹で、その根っこが教育基本法ですから、まず根をつくる必要性を私は感じているのです。
 
全人的自主的教育制と全寮制の創設
 
 さて、そこで今の教育について、総合的なものの中で、私は個人的に特に次の三つのことが欠落していると指摘しています。実際、この三つのことを文部科学省の高等教育をやっている村田改革官と清水審議官に私の事務所へ来ていただき、彼らに直接話しました。この人たちが今、高等教育の改革の案を作っている中心者ですからね。
 一番目は、旧制高校的なシステムの導入です。旧制高校を経験した我々が、現代の社会を見てみると、如何にも今の学生たちは、可哀相で気の毒です。これでは創造力が生まれない。みんな便宜的な功利主義者になってゆく。そういう感じがするのです。
 旧制高校の時代は、大学入試に対する心配がなかった。それで、思想とか、哲学とか、体育とか、歴史とか、そういう自分の好みを思い切って深入りして勉強したり、夜は、酒飲んで寮歌を歌ったりとか、そういう実に自由で有意義な三年間という時間を与えられたのです。また、その時に友情も育まれるわけです。今みたいに教室でたまたま会うだけではない。寮生活という同じ釜の飯を食う生活の中で、仲間たちが互いに、いろいろなことを教え合ってゆく。一種の共同体です。また、先輩からずうっと受け継いできた高校とか寮の歴史というものをみんなが背負って生きてゆくわけです。その先輩方も、みんな立派な先輩方が多かった。勿論、共産党に走った先輩方もいますが、それは、それでまた一つの人格として自由で尊重すべきものです。牢屋に入っても屈しなかったという精神は、旧制高校の中の精神の一部にあります。つまり、旧制高校的システムの導入は、即ち、全人的自主的教育制と全寮制度の創設であるのです。
 私達は、今まで、旧制高校や高専(高等専門学校)、大学の予科まで入って、寮歌祭というものを盛大にやってきましたが、もう年もとったから止めようと言っていたのを、今年になって有志がまたやろうと言い出し、こないだ新宿で有志の寮歌祭をやったのです。私は出られなかったですが、聞くところによると、九百人ぐらい集まって一時から六時まで各校の寮歌を盛大に歌って、終わったらコンパしてみんな酒飲んで酔っ払って高歌放吟をしたという話です。七十、八十歳になって、何故そういうことが行われるか。それは、やはり、精神のふるさとをまだ慕っているものがあるからではないか、また、ノスタルジアだけではない、何か真理、人間の生命、宇宙、人生といったものに結びついたものが、旧制高校時代にはあったからだと思うのです。そういうものが今、ノスタルジアとして心に結びついているのではないかと思います。私も旧制静岡高等学校の寮に三年間いました。この三年間は、私の人生において非常に貴重な時間でありました。この時に学んだり、体験したことはその後の私の思想の底流にあることは確かです。
 余談ですが、その当時、便所の落書きに、しゃがむとちょうど目の前に、「猿股の紐を締めつつ思うなり我が今の身のいかに淋しき」と書いてあったのを覚えています(笑)。なかなか酒落たことをやる奴がいるなとその時感じましたね。「猿股の紐を締めつつ思うなり我が今の身のいかに淋しき」と、男の人は分かるでしょう。やはり、青春時代の一ページには、こういうこともあっていいのです。残念ながら今の体系を見ると、見当たりませんね。
 西沢先生や皆さんは、教養大学という思想で、それを作れと、そう言っています。私もそれも一つの考えだと思い、「教養大学というものを考えなさい」と、彼らに言っています。或いは大学の予科というものを三年間そういうものにしてやらしたらどうか。そうすれば、その大学に入れるということならば、ゆったりやれるではないかと。何か、そのような体系でこれを考えなさいと。そう言っているのです。
 
教員の質、教育の中身の問題
 
 二番目に、彼らに言ったのは、教員の問題です。やはり、教育は教員が余程の力を持っていないとできないものです。ともかく、少子化で今後は二万七千人の先生方が五年間で余り、その力を利用して、総合的学習、また少人数学習や習熟度別授業をやらせるようですが、そういうことをやるにしても、先生にその力があるかどうか、これが重大な問題であるのです。
 私事で恐縮ですが、私が小学校一年に入った時に、初めての教室で落合先生という、当時、五十歳前後の先生が、みんなの前で一人ひとり呼んで話をしました。その時、みんなの前で私の頭を撫ぜて、「この子はいい子だ。将来、西郷隆盛みたいになるよ」と、そう言われたのです。私はそれを聞いて非常に嬉しく思い、それで小学校を卒業してからも、落合先生をずっと慕っていました。それで、私が結婚する時に、お仲人を誰にするかという話になり、私の父親は、私が当時、内務省に勤務していたから、内務省の高官になって貰ったらいいと言った。しかし、私は、父の案に反対し、「仲人は自分で決める」と言って、落合先生に決めたのです。先生は、その頃はもう年取り、県立高崎商業学校の書記をして、奥さんと二人で慎しく生活していました。私は、高崎の落合先生の家へ行って、「先生、是非、お仲人になってください」とお願いしました。しかし、先生は「とっても私ごときが」と遠慮して、なかなか受けてくれない。しかし、私は、三拝九拝して、「どうしても先生になって頂きたい」と懇願した。それで最後に、ポツッと、「だって中曽根君、モーニングがないよ」と言う。「モーニングなんて要りませんよ。国民服で結構です」と、それでやっとお仲人になってもらった。高崎神社で結婚式を挙げましたが、その時、落合先生も非常に嬉しそうにして下さっていたことを覚えています。
 ともかく、そういう先生の感化力が幼心に映って、今になっても忘れないわけです。そのような先生をどのようにして育てるか、それが問題なのです。これは、なかなか難しいことです。新しい学習指導要領で、今、文部科学省がいろいろなことを考えて、野心的なことをやろうとしているが、一番のポイントは、そういう先生ができるか、できないか、ということにあるのです。
 また新学習指導要領の体系は分かるが、教育の中身や教科書の問題が大切です。教育の中身というものをどのように充実したものにして、それを監視し、そして誤ったものを直せるか、そういうことが非常に重要な問題なのです。これはPTAの皆さん、或いは市町村長の皆さん、市町村の教育委員会の皆さん方が本当に心してやってもらわなければならない問題です。そのような考えに立って、教員の問題を考えるべきです。
 それに関連して、彼らに「師範学校というものを、考えなさい」と言っています。昔は、師範学校、高等師範学校、文理大学という体系があって、賛否両論はあるが、「使命感」を持った先生が皆出てきたのです。今のような教育学部のようなもので出てきた先生方と、師範学校や文理大からきていた先生は、やはり違います。つまり、先生の「使命感」を育てる教育者としての初級から最上級までの学問的体系、教育的体系を、師範学校のような考えを基本にして、つくる必要があります。所謂「でも、しか」先生では駄目なのです。そのような改革すべき非常に重要な点も、国民会議の報告には指摘されていないのです。
 
留学生十万人増計画の遂行
 
 そして最後に言ったことは、留学生の問題です。留学生十万人計画というものを私の内閣の時に作成し、最近ようやく七万人まで上がった。しかし、十年計画で十万人と言ったのがまだできていない。最近は少し、増えてきていますが、これはODA(政府開発援助)のお金をもっと使ってもいいから、思い切って十万人計画を速やかに達成するべきです。日本が国際国家になり、将来アジアに伸びていくためにも、これは非常に重要なファクターになります。日本に留学したために、かえって反日的意識が強まるものでは絶対いけない。その点において、留学生の住居の問題、生活費の問題、或いは日本語の問題といったことについても、思い切った手を打つべき段階だと思います。
 これは、私が総理の時からやってきたことですから、敢えてそのことも申し上げたものです。
 さて、そこで結論を申し上げますが、今までのような教育改革に関する方法、或いは遂行・着手・実施というものを、再び同じようにやろうとすると、同じような過程を繰り返す危険があります。今度は、そのような過ちを繰り返さない。今までのようなやり方であれば、また、教育改革論が出て、審議会が作られるわけです。それでは、何回も何回も同じことを繰り返してやるという形にならざるを得ません。それをここで断ち切るべきです。それには先程申し上げたような、いい悪いの判別を行い、そして、それを遂行するための工程管理表をしっかりつくり、その思想と哲学を明確にするべきなのです。それが今、教育改革で大事な問題ではないかと思うのです。
 そういう考え方に立って、今、至急やるべきことは、文部科学大臣が中教審に対して教育基本法の改正を諮問することです(拍手)。我々は、教育基本法の改正を強く唱えて国会でいろいろやっています。しかし、手続的に見ると、文部科学大臣が中教審にそれを諮問して、その答申を得て進むという形が行政的スタイルであり、システムです。それをやらないと言うのであれば、我々は、今の教育基本法の改正を議員立法でやろうと思っていますが、それはできるだけ避けた方がいいことです。何故なら、教育改革は、確固たる根を持って、そこに幹をつくり、枝を張ってもらったほうがいいからです。そのために文部科学省があるのですからね。そういうことから出来るだけ速やかに、もう年内中には、中教審に対して教育基本法の改正を諮問すべきです。そして小泉君は、「教育改革に蛮勇を振るえ」、それが私の結論です。
◇中曽根 康弘(なかそね やすひろ)
1918年生まれ。
東京大学法学部卒業。
元衆議院議員、元首相・自民党総裁。


 
 
 
 
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