2003年1月号 正論
それほど愛国心がお嫌いか フェミニストに歪められる改正教育基本法
明星大学教授●高橋史朗(たかはし・しろう)
中央教育審議会が十一月十四日に公表した教育基本法改正をめぐる中間報告に「国を愛する心」などが盛り込まれたことに対して、翌日付の東京新聞社説は「『国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならない』というくだりも削られている」「国家至上主義や全体主義を明文では否定したくないという後ろ向きの意図が、全くなかったのかどうか」と批判した。
しかし、このくだりは中間報告に明記されており、明らかに誤報である。愛国心に対するマスコミの固定観念がいかに偏見に満ちたものであり、世論を誤った方向に誘導しかねない危ういものであるかが浮き彫りになったといえる。十一月十七日付朝日新聞は「教育基本法改正を考える」特集を組み、「伝統、文化を尊重する精神が最も不足しているのは教育勅語」「タヌキおやじの陰謀の片棒をかついで後世に名を残した金地院崇伝の二の舞いをすべきではない」などという梅原猛氏の暴論を「愛国心喪失は政治家の責任」と題して、教育勅語や愛国心を評価する麻生太郎・自民党政調会長の論稿と際立たせる目論見をもって並載した。
冗談ではない。「愛国心」そのものを一貫して危険視してきたのは日教組とマスコミではないか。十月十七日の中教審基本問題部会で渡久山長輝・元日教組書記長が次のように発言したことなどが契機となって「愛国心」が「国を愛する心」に修正された。
〈アイデンティティや伝統・文化については、「愛国心」として出てくると問題がある。それが国際化と矛盾する偏狭なナショナリズムに陥ってはいけないという認識をしっかりもつべき。・・・男女共同参画の視点もこの中に入れた方がいい〉
健全な愛国心と偏狭なナショナリズムは明確に区別すべきものであり、「似て非なるもの」であることは今や常識である。愛国心を極端に危険視する日教組やマスコミの“敗戦後遺症”の方が問題である。
中間報告に突如盛りこまれた「男女共同参画」
中間報告をめぐる新聞報道は主にこの点に向けられており、最終段階で唐突な形で盛り込まれた「男女共同参画」に関する内容には重大な問題が含まれていることが見落とされている。「唐突」というのは、中教審論議において十分に審議を尽くしていないからである。
中間報告には、第五条の「男女共学」規定を「男女共同参画社会の実現や男女平等の促進に寄与するという新しい視点」から「教育の基本理念として規定することが適当」と明記された。また、「国民一人一人が性別に基づく固定的な役割分担意識を見直し、男女共同参画や自立の意識を有することが不可欠」「学校、家庭、地域など社会のあらゆる分野における男女共同参画の視点に立った教育・学習の推進、情報の提供」などの文言が追加された。
この問題で重要な論点は、(1)男女共同参画社会の実現とは同基本法の第一条(目的)にある「豊かで活力のある社会を実現すること」なのか、男女の区別を差別と混同する「ジェンダーフリー」を実現することなのか(2)男女共同参画は「機会の均等」を求めるのか「結果の平等」を求めるのか(3)「性的自己決定権」について教えるのか否か、の三点である。
そこで、まずこの問題に関わる中教審論議の経緯を見ておこう。
十月三十一日付日本経済新聞によれば、中教審委員三十人のうち九人の女性委員は、教育基本法見直しなどの過程で、男女共同参画基本法の理念を十分にくむよう求める意見書を鳥居泰彦会長に提出したという。それまでの議論はどうだったか。
五月十日の基本問題部会(部会長、鳥居会長)では、男女共学等については、韓国の教育基本法第四条で、「すべて国民は性別、宗教、信念、社会的身分、経済的地位、又は身分的条件等を理由に教育において差別されない」と定められており、「これで誠に十分な書き方になっている」という指摘があるが、これ以上の議論は行われていない。
五月二十三日の同部会では少し踏み込んだやりとりが行われ、「男女同権というのは憲法の規定にもあるわけですから、あえて基本法にこんなことをうたう必要がないのではないか」という「大変な反対」意見に対して、「男女共同参画社会の形成には教育というのは非常に重要・・・この視点を重視するという事は是非一項あるべきではないか」「男女共同参画社会の形成を目指すというような視点が大事だ」との応酬があった。
ただ、「男女共同参画社会の形成を目指すというような視点が大事だ」と強調した委員が一方で、「共学である必要は必ずしもないかもしれません。この辺は議論があるところでして、女子教育のほうが女性がのびのびすると。初めから共学であると、女の役割、男の役割を演じがちであるというような説がありまして、これはまだ結論が出ていない」と指摘している点には注目する必要がある。
六月五日の同部会でもこの点が再び議論され、「男女共学ということではなくて、共同参画的な視点だ」との指摘を受けて、鳥居部会長は「男女共同参画社会ということと、男子校、女子校がそれぞれの役割を果たすというのは別のことだということですね」と念を押して確認している。この日の部会で最も注目に値する発言は、憲法の男女平等の原則と教育上の原則は異なるという、以下の発言である。
〈憲法第一四条で、平等が書かれてありますが、ここでは差別しちゃいけない、「差別されない」と書いてあるのです。ところが、教育の現場へ来ますと、差別と区別の違いが区別されないで、運動会で百メートルの一等、二等を決めちゃいかんとか、そういう愚かなことをかつてやっていたわけなので。さらに、最近は、共学に至っては、混合名簿というようなおかしなことが始まったりしていますが。そういうことを考えますと、憲法と教育上の原則というのは必ずしもイコールではないということを、ちょっと頭の隅に入れておいたほうがいい・・・〉
教育基本法第五条をめぐっては、「男女平等を促すというところまでもう一歩踏み込まないといけない」「男女平等の促進ということについて、日本の社会そのものをこれから先変えていかざるを得ない、そこのところまで踏み込む必要があるのではないか」という「少数意見」もあるが、六月十四日の同部会では、次のような「男女共学」への慎重論が相次いで出されている。
〈むしろ大いに多様化した姿を奨励していったほうがいいのではないか〉
〈アメリカで、社会で活躍している女性の経歴を分析した人がいるのです。その分析に拠りますと、男女共学ではないほうが伸びるという話でございます。ですから、男女共学が必ずしもいいとは言えない〉
〈あえて共学というのは要らないのではないですか〉
〈(男女は)平等ではないのです。「男女の社会的な平等」です・・・共学なんていうのは、今、もう色あせたのです。毎年、アメリカで新聞記事の中で、男女の問題だけを扱った資料集が出ております。これによりますと、この5年ぐらいは、共学をサポートするものよりも、別学をサポートするもののほうの意見が、新聞論調としては多くなっているのです。・・・昔のように共学にすれば男女が平等になるとか、あるいは今、一部で目をつり上げて、クラスで男女ごちゃごちゃの混合名簿にすれば、男女の共同参画意識が高まるみたいなね。私はどこに根拠があるのか、ようわかりません。〉
九月二十日の基本問題部会では「全体的に、男女共同参画の視点が少ない」という指摘があり、十月十七日の同部会で配布された「第2章 新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方について(素案)」に以下の文言が新たに盛り込まれるに至った。
〈現在では男女共学の趣旨が広く浸透するとともに、性別による制度的な教育機会の差異もなくなったこと、また、今日においては、男女が性別にかかわらず個人として能力を発揮できるような、男女が対等な立場で構成される男女共同参画社会の実現が重要な課題となっていることを踏まえ、男女共同参画社会の実現や男女平等の促進に寄与するという新しい視点から、教育基本法において教育理念として規定することが適当と考える。〉
この文言は十月三十日の総会で審議された「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について(中間報告案)」に受け継がれ、最終的には傍線部分が、「ているが、社会における男女共同参画は、まだ十分には実現しておらず、男女が互いにその人権を尊重しつつ責任も分かち合い」に加筆修正され、「今日、教育・学習のあらゆる場において」男女共同参画社会の実現や男女平等の促進に寄与するという文言が追加された。
女性委員の総意として提出された意見には、「教育のありとあらゆる局面において系統的かつ意識的な取り組みを行うことが必要だ」として、「女性の能力発揮の障壁となっている慣行と構造」「父親の教育参加の促進など家庭教育にも男女共同参画の視点が不可欠である」「大学・大学院における女性教員比率の向上及び高等学校管理職における女性の登用促進」「学校・家庭・地域等あらゆる機会などを通じて、固定的性別役割の見直しに取り組む」などの文言の追加が含まれている。また、十月三十日の総会では、「たくましい日本人」という言葉が三回も出てくることについて、「『たくましい』は男性原理・経済原理が強い印象がある」との反対意見が出されたが一蹴されている。
中教審論議の経緯を振り返ると、男女の区別と差別を明確に区別し、「男女共学」や「結果の平等」に批判的な意見が多く、男女共同参画社会や男女平等の推進に関する意見は少数意見にすぎなかった。このため十月三十日に女性委員の総意として提出された意見は極めて唐突な感があり、鳥居会長は「全てに男女共同参画のことを入れると焦点がぼけてしまう」と難色を示したが、結果的にはほぼ中間報告に盛り込まれることになった。
「男女共同参画」=「ジェンダーフリー」ではない!?
以上の審議経過を踏まえて、前述した三点について考察したい。その参考となるのは十一月十二日の参院内閣委員会における男女共同参画に関する政府側答弁で、(1)と(2)の論点に明確に答えている。委員会質疑では、千葉市の男女共同参画条例案が取り上げられている。条例案には当初「女らしさ、男らしさという言葉に端的に表される、性別により男女に一定のあり方を期待する意識は、歴史的、文化的伝統に根ざしており、一方的に否定されるべきではない」との文言が盛り込まれていたが、鶴岡啓一市長の最終判断で削除された。
委員会ではまず、亀井郁夫氏(自保)がこの問題を取り上げ、「男女が互いの違いを認めて尊重しあうのが基本法の精神でないか」とただし、福田康夫官房長官は「男らしさ、女らしさを強調しすぎるのは問題だが、時代や社会情勢が変わっても男女の性別に起因する男らしさ、女らしさは否定できない」と、基本法は「男らしさ、女らしさを否定するものではない」という見解を明らかにした。
また、「公務員や審議会の委員、企業の幹部などは男女同数が望ましい」などと「結果の平等」を求める主張が“一人歩き”しているが、福田官房長官は男女共同参画の目標は「機会の均等」であり「結果の平等」ではないことを強調した。同様に“一人歩き”している「社会的・文化的な性差の解消」を意味する「ジェンダーフリー」が基本法の精神か、との亀井氏の質問に対して、内閣府の坂東真理子・男女共同参画局長は「ジェンダーという言葉は男女共同参画基本計画において使用しているが、ジェンダーフリーという用語はアメリカでも北京宣言及び行動綱領や最近の国連婦人の地位委員会の年次会合の報告書でも、日本の男女共同参画社会基本法、男女共同参画基本計画等の法令においても使用していない」と公的用語ではないことを認め、「一部に、男女の区別をなくす、男女の違いを画一的に一切排除しようという意味で使っている人がいて、大変誤解を持たれているが、男女共同参画社会はこのような意味でのジェンダーフリーを目指していない」と明確に否定した。
内閣府男女共同参画局は「国会でまとまった答弁をしたのは初めてなので、内閣委員会でのやりとりを都道府県に送り、趣旨を徹底したい」として、男女共同参画行政が男らしさ、女らしさを否定するものではないとの趣旨を徹底する文書を各都道府県に送ることを決めた。
これらの答弁が教育現場や行政に与える影響は極めて大きい。まず第一に、男女共同参画担当相である福田官房長官が男女の性別に起因する「男らしさ、女らしさ」は否定できないという見解を明らかにしたことは、「男らしさ、女らしさを一方的に否定することなく男女の特性を認め合う」との文言を盛り込んだ山口県宇部市の条例を支持し、同様の文言を削除した千葉市の条例を支持しない立場を闡明にしたことを意味するからである。既に三十八都道府県と七十九市区町村の自治体で男女共同参画条例が制定されているが、これから制定を目指している自治体に与える影響は少なくないと思われる。
第二に、男女共同参画社会の目標は「機会の平等」であり「結果の平等」ではないことを明らかにしたことは、これから条例を制定する自治体のみならず、今後の全国各地の男女共同参画行政に決定的な影響を与えよう。例えば猛反発を受けて継続審議となった千葉県の条例案の第2条には次のように書かれている。
〈一 男女共同参画の促進 真の男女平等の達成を目指して、男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的および文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべきことを促進することをいう〉
これは男女共同参画社会基本法第2条の規定に準拠した定義であるが、傍線部分(傍線は筆者、以下同様)が男女の機会の均等を意味するのか、「結果」の平等を意味するのか、どちらを求めているのかが争点であった。福田官房長官の答弁は男女共同参画社会の目標は後者ではなく前者であることを明確にしてこの論争に決着をつけた。
「結果の平等」まで求めた共学化勧告
また、全国に先駆けて男女共同参画条例を制定した埼玉県では、すべての県立高校を共学化することに消極的な県教育局の姿勢に対して、「一日も早く県立高校をすべて男女共学にすることを望む」苦情の申出(申出者は所沢高校のPTA関係者といわれている)を受けて、埼玉県男女共同参画苦情処理委員は三月二十八日に埼玉県教育局指導部高校教育課長宛に次のような「勧告書」を送り、来年三月三十一日までに、その取組みについて報告するよう求めている。
〈高校生活の三年間を一方の性に限ることは、人間形成からも、また男女共同参画社会づくりの視点からも問題である。高校生という多感な時期に、異性と真剣に向き合い共に協力し合って問題を解決していく体験こそ重要である。公立の高校として、男女の性差にとらわれることなく、個人の能力・個性を発揮していくため、男女別学校の共学化を早期に実現する必要がある〉
この勧告は、「結果の平等」を求める典型的な事例といえよう。「教育上男女の共学は、認められなければならない」という教育基本法第5条の規定と、男女共学でなければならないというのは根本的に異なる。前者は「機会の平等」を求めたものであり、後者は「結果の平等」を求めたものである。この「勧告書」の「基本的な考え方」は女子差別撤廃条約の第1条に立脚しており、次のように述べている。
〈その第1条「女子差別の定義」には、「女子に対する差別」とは、「性に基づく区別、排除又は制限」とあり、性による区別も差別であると定義づけられています。また、その流れの中で日本でも、一九九九年には「男女共同参画社会基本法」を制定し・・・〉
「性による区別も差別である」という「女子差別の定義」は、区別と差別を混同している。男女混合名簿や運動会の競技内容、身体検査や着替え(高校生も男女同室で着替えている高校が少なくない!)などが教育現場に浸透し「空気」となりつつある。
その背景には「社会における制度又は慣行」がいけないという基本認識があり、都道府県の条例の中には「慣行そのものをなくしていかなくてはいけない」と踏み込んだ表現を明記しているケースもある。問題は「社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮」(同基本法第4条)するということが「ジェンダーフリー」すなわち「社会的・文化的な性差の解消」を目指しているのかどうかという点にある。
同勧告書は「尚文昌武」「文武不岐」「質実剛健」「文武両道」などの男子校の教育目標、「正しく美しい社会の創造」「調和的で情操豊か」「礼儀を重んじる」「温雅端正な品性の向上」「思いやりのある人間」などの女子校の教育目標を問題視し、「埼玉県においても、男女間の格差が生じないようにするために、男子女子の区別をすることなく同じ教育の場を与えることが重要です」と結論づけている。
ここにも男女の区別と差別の混同が見られるが、ジェンダーフリーという言葉はもともと東京女性財団が委嘱した研究プロジェクトグループがバリア(障壁)フリーにヒントを得て用い始めた用語であり、この日本でしか通用しない。
その「ジェンダーフリー」がいかに教育界で猛威をふるっているかを如実に示す文書を紹介しよう。昨年九月二十八日に千葉県教育委員会教育長が各市町村教育委員会教育長、各県立高校長・盲聾養護学校長宛に出した「学校におけるジェンダーフリー教育の推進及びジェンダーに関わる環境の見直しについて」と題する通知には、次のように明記されている。
〈1 積極的にジェンダーフリー教育を推進する。
・教科、特別活動、総合的な学習の時間をはじめ、教育活動全体の中で積極的に推進すること。
2 学校生活をジェンダーフリーな環境に整える。
・特に出席簿等の男女別名簿を見直し、男女混合名簿の積極的な導入を図ること。
3 ジェンダーフリーに関する研修を実施し、教職員、生徒等の意識の改革を図ること。〉
本誌八月号の拙稿で紹介したように、総理府の男女共同参画審議会委員を経て、内閣府の男女共同参画会議影響調査専門調査会長をつとめる大沢真理・東大教授は、「『男女共同参画』は、“gender equality”をも越えて、ジェンダーそのものの解消、『ジェンダーからの解放(ジェンダーフリー)』を志向するということ」「ジェンダーそのものの解消をめざすことを議論し尽くした上で、はっきり決めた」と述べ、日本は世界で唯一「ジェンダーフリー」という理念を政府文書に盛り込んだ「前代未聞」の国家となったと認識しているようである。
この大沢教授の見解が男女共同参画行政や教育界に広がって、“一人歩き”しているために混乱が生じているわけであるが、前述した坂東真理子局長の答弁によれば、それは「誤解」であり「男女共同参画社会ではジェンダーフリーを目指していない」という。両者の見解は明らかに異なっており、この点を明確にした行政指導を速やかに行わなければ、千葉県のような通知が広がりかねない。
「性の自己決定権」を巡る対立
ジェンダーそのものの解消を目指すという過激なジェンダーフリー思想は、男女を区別することが男を主、女を従とする差別につながるとみなして、男女の区別自体を否定し、婚姻制度や家族制度を自由を束縛するものだとして否定し、「性の自己決定権」に代表される新たな女性の人権を主張する。
亀井氏は参院内閣委員会で、千葉県男女共同参画条例案も取り上げた。この条例案は自民党の四項目の修正要求に対して、第一六条(個性及び能力が発揮される教育活動等の促進)、第一七条(生涯にわたる女性の健康支援等)の二項目については修正に応じられないと堂本暁子知事側が突っぱねたため継続審議になった。第一七条は「性の自己決定権」について規定したもので、「性及び子を産み育てることについて、理解を深め、自らの意思で決定することができるよう性教育の充実及び促進」を図る、と性教育にまで踏み込んだ全国で唯一の条例案になっている。
「性の自己決定権」をめぐる性教育のあり方については、先の国会で問題になった中学生向け冊子『思春期のためのラブ&ボディーBook』(厚生労働省所轄の財団法人・母子衛生研究会作成・発行)の絶版・回収が決定し、「直ちに回収すべきだ」と遠山文科相が表明したにもかかわらず、神奈川県相模原市教育委員会が市内の中学生全員に卒業時に配布することが判明し物議をかもしている。
「性の自己決定権」を中学生に強調する同冊子の回収を主張した亀井郁夫氏に対して、小宮山洋子参院議員(民主党「女性と健康」検討チーム座長)が十一月九日付朝日新聞で「性教育教材内容正しい絶版見直しを」と反論している。
「性の自己決定権」を性教育で強調することは、千葉県男女共同参画条例案の前文にある「世界の大きな流れ」に逆行するものであることを堂本知事、小宮山議員はしっかり認識する必要があるのではないか。この点を明らかにするために、今年五月八〜十日にニューヨークの国連本部で開催された「国連子ども特別総会」の成果文書「子どもにふさわしい世界」の起草過程において最も激しく対立した「リプロダクティブヘルス(性と生殖の健康)」をめぐる論争を紹介しよう。
「子どもの人権連」の「いんふぉめーしょん」80号、82号に掲載されている平野裕二氏の報告によれば、「リプロダクテイブヘルス」に関わる記述は、アメリカとバチカンを中心とする勢力によって相当に後退し、とりわけ、リプロダクティブヘルスのための「サービス」という文言をめぐっては、これが中絶を含む可能性があるとしてアメリカ等が強硬に反対し、EUなど推進派の国々と激しい対立が土壇場まで繰り広げられた。
最終的に「健康的な生活の促進」の項では、リプロダクティブヘルスに関わる「教育、情報およびサービス」という文言、リプロダクティブヘルス促進活動の目的(望まない妊娠や性感染症を防止することなど)、「責任ある性行動」の促進に関わるパラグラフなどがすべて削除され、「良質な教育の提供」の項でも、性教育に関わる記述が丸ごと削除された。「リプロダクティブヘルス」という概念は青少年の積極的な性行動や中絶を容認するものであるとして強く抵抗したのは、アメリカのほかに、バチカンやポーランドなどのカトリック諸国、イスラム諸国などであった。アメリカは一九九四年の国連人口開発会議(カイロ)や翌年の第四回世界女性会議(北京)で採択された行動計画・綱領への言及を草案から削除するように求め、「われわれが話し合っているのは女性の問題ではなく、子どもの問題である」として強硬な姿勢を崩さなかった。
そこで、議長提案はアメリカ等に大幅に譲歩した修正案になり、「国内法、宗教的信念および文化的価値観を考慮に入れながら」という文言が新たに挿入され、「健康のための教育、情緒およびサービス(リプロダクティブヘルスおよび精神的健康のためのサービスを含む)」のうち( )内の文言が削除され、「サービス」が「基本的ヘルスケア・サービス」に改められた。
最終交渉でもアメリカ大使は、「リプロダクティブヘルス・サービス」という用語は「合法的な中絶サービスの合法化または拡大」を支持するように解釈できるとして、この言葉の使用の拒否を表明し、思春期の妊娠や性感染症を防止する最善の方法は禁欲であるというブッシュ政権の信念をあらためて強調した。
アメリカは、性教育は若者の性行動を奨励するおそれがあるという理由で反対し、エイズ感染症を少なくするためには、禁欲、性的活動の開始を遅らせること(詳細なプログラムについては、拙著『間違いだらけの急進的性教育』黎明書房並びにビデオ『どうするエイズ・性教育』高橋史朗・西岡久壽彌、松岡弘監修、参照)、一夫一婦制および貞節、パートナーの人数を減らすことが重要であると強調した。
「国連子ども特別総会」の審議の経緯を見ると、リプロダクティブヘルス推進派のEUやリオ・グループよりも反対派の主張が圧倒的に優勢であることがわかる。千葉県男女共同参画条例案や性教育冊子『ラブ&ボディBook』を奨励する小宮山議員や相模原市教育委員会などの主張がいかにこの「世界の大きな流れ」に逆行するものであるか、おわかりいただけたであろう。
議長提案に盛り込まれたように、その国に「文化的価値を考慮に入れながら」その国独自の性教育、リプロダクティブヘルスヘの取り組み方を考える必要がある。この点は、男女共同参画の促進に当たっても、わが国の独自の「社会における制度又は慣行」を全面的に否定するのではなく、その「文化的価値観を考慮に入れながら」、祖先たちが築き上げてきた「制度または慣行」のよい面は損なわないような配慮が求められよう。
基本法の勝手な解釈を許すな
男女共同参画社会基本法第一条(目的)に「社会経済情勢の変化に対応できる豊かで活力ある社会を実現することの緊要性にかんがみ」と明記されているように、「豊かで活力のある社会を実現する」という目的を達成するためには、男女の特性、違いを活かす必要があり、「ジェンダーフリー」はこの男女共同参画社会の目的に反する。
ちなみに、第四回世界女性会議で採択された行動綱領に対するバチカンの声明書にはパウロ法王の「ある程度の役割の相違があることは、この相違が勝手な押しつけの結果ではなく、男性であることや女性であることの特異性の表れであるならば、女性にとって決して不利ではないと認めることもできる」という「ジェンダー解消」に対する見解が示されている。先の参院内閣委員会における政府側答弁もほぼ同様の認識に立っている。
中教審の最終答申でも「男女共学」規定を新しい教育理念に改定するとの基本方針は変わらないと思われるが、千葉県の男女共同参画条例案や教育長通知、埼玉県の公立校への共学化の「勧告書」、中学生向け性教育冊子を奨励する厚生労働省や相模原市教育委員会などの動きにお墨付きを与えるような最終答申にならないよう十分に注視する必要がある。そして、何よりも緊急を要することは、男女の区別を差別と混同するジェンダーフリー、男女の「機会の均等」ではなく「結果の平等」を求める誤った男女共同参画行政、「世界の大きな流れ」に逆行する「リプロダクティブヘルス」を教える性教育を是正する行政指導の徹底を図ることである。とりわけジェンダーフリーの“一人歩き”を一刻も早く止めねばならない。
◇高橋 史朗(たかはし しろう)
1950年生まれ。
早稲田大学大学院修了。
スタンフォード大学フーバー研究所客員研究員、明星大学助教授を経て現在、明星大学教授。
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