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社会的存在としての私の全体性の回復
 自分らしさの全体性の獲得、それが健康の原点なのだということを内面的なありかたを中心に見てきました。しかし人は孤立して存在しているのではなく、周囲との、すなわち社会や自然とのかかわりの中で生きている存在です。
 自分が自分としてこころから喜べるのは、周りとのかかわりがうまくいっているときではないでしょうか。他者との関係がぎくしゃくしているとそれだけでスピリチュアル・ペインの原因となります。
 自己の全体性は内面だけの問題ではなく、社会的な関係においても回復されなければならないわけです。
 聖書の中で、キリストが重い皮膚病に苦しむ人を癒した後、おもしろいことを命じています。
「だれにも何も話さないように気をつけなさい。行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」(ルカ5章44節ほか)
 身体的な癒しだけで十分なのではなく、この人が社会的にも癒され、本来の自分らしさを回復するようにとの配慮の言葉ではないでしょうか。病いが癒えても社会的な関係が回復されない限り、いきいきといのち輝くような健康的生活を取り戻すことは難しいからです。
 それには当然、受け入れる社会の側で事情を理解し、ときには既成概念を捨て(あたま)、態度を改め、環境を整備し(からだ)、こころを開いて歓迎する(こころ)という「全人的かかわり」が求められます。
 その人を受け入れることで社会が犠牲を払うのではなく(一見そう見えることもあるかもしれませんが)、実はその人のおかげで「より健康な社会」として新しい全体性を備えていくことになるのです。日本の社会では、ごく最近までハンセン病の人たちが社会の不公正、すなわち社会の不健康さゆえにスピリチュアル・ペインを余儀なくされてきました。その痛みを通して社会の「不全」な部分が示され、回復への歩みを進めることができたのです。
 エイズやB型肝炎についても社会的受容ということでは心配な面がありますし、病気一般についてそれがいえるのかもしれません。政治家が倒れたときなど、病状をひた隠しにする意図にもそれが反映しています。
 何もかにもが「健康志向」で猫もシャクシも「ヘルシー、ヘルシー」、抗菌グッズが大繁盛という最近の世の中のあり方に、何かとても不健康なものを感じてしまうのは私だけでしょうか。
 健康な社会というのは、それぞれの人のそれぞれのあり方を受容でき、その全体性を享受できる社会だと思います。そうした中でこそ、ひとつひとつのいのちが輝くことができるのです。
 周りの誤解や不寛容からくるスピリチュアル・ペイン。それはその社会の健康が試されている印でもあり、そのペインを真摯に受容できたときに社会自体が真の健康を回復できるのです。その意味で、その苦しみには社会が癒され、健康に生まれ変わるための生みの苦しみとしての側面もあるのでしょう。
 
“聖なる”全体性の獲得
 さて、ここまでHEALTH(健康)、HEAL(癒す)、WHOLE(全体)というつながりを見てきましたが、実はもうひとつ同じ語源から出ている言葉があるのです。なんとそれはHOLY(聖なる)という言葉です。健康と聖なることとどうつながっているのでしょうか。うまく説明できるどうか心配ですが、次のようなわけです。
「自分の全体性を取り戻すことが健康の真意だ」といままでさんざん申してきましたが、実は自己を中心において目分だけで完結してしまってはだめなのです。人間、それほど偉い存在ではありませんし、うっかりそれをやると自分が世界の真ん中に鎮座してヒトより偉い、まるで神様であるかのように勘違いしかねないのです。人間、それほどにエゴのかたまりで、うっかりすると鼻もちならないほど傲慢になりかねません。
 本当の自分らしさの発見というのは、そんなふうに目己実現の欲望の限りを尽くすことではなく、本来の自分の姿に謙虚に目覚めることから始まります。自分が自力で生きているわけではなく、生かされている存在なのだ、と気づくことです。そしていつか必ず死ぬ存在です。生まれることを選べなかったように、死を引き延ばすこともできない。与えられた生と決められた死の間で生きることを許された存在だと気づくことです。
 今朝、呼吸をして目覚める保障など何もなかった存在です。なのに今朝、目覚めた。いま、呼吸をつづけている。今日という一日がこの人生に新たにつけ加えられた。思えば思うほど自分の努力や思惑を超えて生かされているいのち、預け与えられたいのちなのです。この私にいのちを与え、私を支え、生かしていてくれる存在に気づくかどうか。気づくとすれば、そこにHOLYにつながる道が備えられているのです。
 その気づきは、理屈(あたま)や体感(からだ)で会得できるものではなく、スピリチュアルな次元(こころ)で受けとめられることなのだと思います。いわばスピリットがヒョイと飛び込んできて、ハッとわかってしまう。こんな言い方すると、手品か何かのようですが「スピリットが・入って来ること」、つまり「イン・スピレーション」によるというわけです。
 そこに、人間と聖なるものとの接点がある。「神の息を受けて、人は生きる者となった」という聖書の人間理解を見ましたが、人間が人間として人間らしく生きる原点に、スピリットを接点として聖なる方につながるということがあるわけです。聖書的には神ですが、神様と呼ばなくてもいいかもしれません。自然といっても、宇宙といっても、ブッダ、大我、アッラーでもいいかもしれません。とにかくそういった大いなる力に支えられ生かされている自分だということに気づいてこそ、その人のいのちの全体性が初めて完結する、というのです。
 究極の「健康(HEALTH)」は完璧な自己をつくりあげることにあるのではなく、あるがままの自己の全体(WHOLE)を受容し、いのちの根源である「聖(HOLY)」にそっくり委ねること。生も死も超えた「永遠のいのち」に抱かれて安らぐことにあるのかもしれません。
 少なくともこう考えることで、人間は自分のいのちの本質に目覚め、自己絶対化することも自己卑下することもなく、自らを省みる契機をもつことができます。大いなるいのちの根源に抱かれ委ねられたいのちであればこそ、死すらも絶望ではないのです。「死よ、おまえの刺はどこにあるのか」と恐れや強がりからではなく、声高らかに宣言し、輝く終末を迎えることができるのです。
 スピリチュアル・ペインは、このインスピレーションヘと私たちを招く、貴重なきっかけとなり得るのではないでしょうか。痛み、苦しみ、理不尽なこと、それが真摯に問われ、それを突き抜けたとき、人は自分のいのちの深い根源を見いだすのです。







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