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自分の居場所はありますか
 人間関係の「わずらわしさ」や「しがらみ」に代表されるつらい現実。それを仮の世と思いさだめ、戻ってゆく目分の居場所はありますか。
 自分の居場所というのは、あなたが一人っきりでいても寂しくないところです。あなたにとって「こころのふるさと」みたいなところです。
 そのような居場所を見つけるには「自分がどんなことが好きなのか」をわかっておく必要があります。それはまた「自分とは何か」を知る手がかりにもなるからです。
 何が自分は好きなのか。たとえば「遊び」とか「趣味」とか「道楽」といった生き死にに関わらない領域で愉しまれるものは、それぞれが独立した小宇宙といえます。
 そこでは、私は何ごともできないことはない、という感覚をもつようになれるからです。
 おたがいの存在に根ざした関わりであるケアでは、人間関係の「わずらわしさ」や、「しがらみ」を避けて通ることはできません。
 しかし、そのようなケアをとおして、自分の生き方を模索するというポジティブな気持ちをみたすにはどうすればいいのでしょうか。
 それは、現実から“ひきこもる”という回り道なくしてみたされません。このような“逃避”のように見えるネガティブな気持ちは、何が大切で何が大切でないかの優先順位を明らかにしてくれるからです。そこから自分の生きる指針や、世の中の自分の位置が見えてきます。
 ケアに関わっている人は日常、個々の物事に没頭し、差し迫った仕事に忙殺されています。だから、世の中の個々の物事の総体とか、人間関係のなかで個別の行為がどのように噛み合っているのか、現実とどう折り合っていけばいいのかわからなくなっていることがあります。
 生あるものの祝祭には「観客」が必要であるといわれています。生き死にに関わらない領域ではオルタナティブを感じとる力、つまり、別の生き方、別の考え方、別の感じ方もありうることを知ると同時に、よりよい生に向かっていこうという思考が生まれてくるからです。
 
捨て上手になろう
 豊かな時代に私たちは、<あれもこれも>と欲しいものを手に入れて生きてきました。そして、それが習性となってしまい、どれ一つ手放せなくなりました。<あれも>と<これも>の間に、自分なりの優先順位を考えることが弱くなりつつあります。
 <あれもこれも>手に入った時代にどっぷりつかり、私たちは自分が本当に必要なものとそうでないものを選り分けるセンスを鈍らせてしまっています。
 ケアにおいても<あれもこれも>しなければならない事態を前に、<あっちもこっちも>たてようとして、何が大切で、何が大切でないか、分からなくなってしまうことがよくあります。
 <あれもこれも>が当たり前の習性になってしまった人にとっては、どれもが自分が納得できる自分であるための必須条件となってしまい、どれ一つ手放せなくなるのです。
 何が大切で、何が大切でないか。それが分からなくなったとき、立ち戻るよりどころは、不用なものを思いきって捨てる「引き算的思考」をすることです。そうした思考を体得していくことで、私たちは等身大の自分になってゆくのです。
 自分にとって何が本当に大切なのか、何を捨ててもかまわないのか。背に腹は代えられない事態におちいるまでに、何が背で何が腹か、しっかり分かっておきたい。
 何かが欲しければ、何かを捨てなければなりません。メリットを得るためには、何らかのデメリットを覚悟しなければなりません。
 何かを得たら何かを失う。私たちはこのシンプルなことを忘れ、双方得ようとして苦しむのです。







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