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第3期 充実と女性(1893−1935)
 第2期に建てられたグラン・カジノやカフェ・ド・パリ、オテル・ド・モナコなど主要施設の拡張、改装が始まる。またホテル数、客室数ともに増え、1935年前後にピークを迎えたと考えられる。23道路などのアクセス整備も引き続き行われているが、20世紀に入るとトンネル、山越え、立体化など技術的に高度で、費用もかかる工事が増えている。
 このようなハード面だけでなく、ソフト面が充実したのが、この期の特徴といえる。ボーザール(美しい芸術)をキーワードにした劇場、美術館などが建設され、文化面の充実がはかられたほか、時の君主であるアルベール一世の個人的な関心から、先史人類学や海洋学に関する研究施設が作られ、それにちなんだ国際会議なども盛んに誘致された。これらの研究施設は、現在、海洋博物館24、先史人類学博物館25、熱帯公園と鍾乳洞26として公開され、主要な観光施設となっている。
 さらにスポーツや健康に関する施設が、続々と建設された。第1期に造られたバン・ド・メール・ド・モナコを発展させたテルメ27が、カジノ広場の一画に造られたほか、ゴルフクラブ、テニス主体のクラブ、鳩撃ち場なども作られ、当時の王侯貴族や富裕階級のライフスタイルを反映している。自動車やボート、ヘリコプター、複葉機などの、モータースポーツ・イベントが盛んに行われたことも、来訪者の属性が、王侯貴族、富裕階級であったことを物語っている。海水浴場も造られたが、避寒リゾートの時代には、主に子どもや子守りのためのスペースであった。28
 現代のように夏に海水浴や日光浴を楽しむようになるのは、第一次世界大戦前後からである。第一次世界大戦を契機として、女性の社会進出が進み、スポーツや文学、ファッション・ビジネスなど、様々な分野で活躍する女性が増えた。オートクチュール・デザイナーとして一世を風靡したココ・シャネルが、夏の日光浴、海水浴を提唱し、水着や海浜着をデザインすると、流行に敏感な人たちが、夏に太陽の下、水着で過ごすという時間を楽しむようになる。29
 
23 ミシュラン・レッド・ガイドによると、1935年前後、モナコ公国のホテルは30軒程度あり、主要9ホテルだけで1,800室強あった。2002年9月現在、ホテル数は18軒、客室総数は2,190室である。
24 1910年創立の博物館で、地中海海域の海洋環境保護の研究機関としても知られている。
25 1902年設立の博物館で、アルベール1世自らが発掘した遺物が展示されている。
26 アルベール1世の時代、1911年に工事が始まったが、難工事のため、完成は次のルイ2世時代の1933年となった。公園の地下にある鍾乳洞には先史時代の住居跡があり、見学できる。
27 現代のエアロバイクと同じトレーニング器機や水圧を利用したマッサージ、リラクセーションルームなどがあった。第二次世界大戦で破壊されたが、1995年、同じ場所に「ル・テルム・マラン・ド・モンテカルロ」が開業。世界でも有数のタラソテラピーセンターとして高い評価を受けている。
28 Rosset(1985)所収の写真などによる。
29 シャネルについてはCharles-Loux, Edomonde(榊原晃三訳 1980、郷早穂子訳 1990)、水着の登場については深井晃子(1998)などによる。
 
 こうした社会変化に合わせて、モナコでは、女性だけのスポーツ大会を開催したり、スポーツを楽しむ女性を盛んにポスターに描くなどしており、「新しい女性」を意識したプロモーション展開を行ったと考えられる。
 また王侯貴族、富裕階級にとって文化や音楽も大切な素養であり、社交のために欠かせない要素であった。バレエ・リュス(ロシア・バレエ)の公演を、パリで成功させたセルゲイ・ディアギレフ30は、自分の常設バレエ団の拠点をモナコにおき、これが現在のモンテカルロ・バレエ団、モンテカルロ・フィルハーモニック・オーケストラ、モンテカルロ・オペラの母体となった。このバレエ・リュスは、ピカソやマティスが背景画や舞台装置を担当し、ストラヴィンスキーがバレエ曲を作り、シャネルが衣装をデザインするといった具合で、多くの芸術家、音楽家との交流を生み出し、モナコは芸術・文化のサロン的役割も果たしたのである。
 
30 ディアギレフについては、Buckle, Richard(鈴木晶訳 1983/1984)、小倉重夫(1978)による。
 
第4期 戦争による中断(1939−1945)
 1929年の世界大恐慌により、1933年まで建設中止令が出された。しかし熱帯公園の入場者数(図5)などから考えると、カジノが閉鎖されていた1939年から1945年までの約6年間が、事実上の「戦争による中断」の時代といえるだろう。
 
 
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図5 熱帯公園 入場者数
資料:Jardin Exotique
 
 
第5期 再生のためのインフラ(1946−1984)
 第二次世界大戦後、コート・ダジュールは避寒リゾートから夏のビーチリゾートヘ本格的に変質し、モナコヘの来訪者も、それまでの王侯貴族や富裕階級から、ソーシャル・ツーリズムの流れを受けて一般観光客へと変化した。
 しかし、この急激な変化に対応できず、1950年代から70年代にかけて、グランドホテル・モンテカルロやモンテカルロ・パラス、エルダー、ボー・リヴァージュ、メトロポールなどの高級ホテルが、次々と廃業、撤退している。これらのホテル跡地は、企業やミーティング・ファシリティ、公共機関として利用されているが、カジノ広場周辺の建物は、歴史伝統建造物に指定31され、外観が維持されている。
 こうした状況変化の中、1970年代からコンベンション施設が建設されているが、コンベンションやインセンティブを積極的に実施するアメリカ市場を意識した対応策であり、観光マーケットの拡大化、多様化を図ったものであろう。
 またモータリゼーションの到来に対応して、国土の有効利用と道路整備を兼ね、鉄道路線の地下化が進められ、駐車場の整備も行われた。モナコの駐車場の多くは、地下に造られているが、これはカジノ広場や旧市街など観光ポイントが集中している地区の景観維持や徒歩観光の誘導32などの目的も兼ねていると考えられる。
 ハード面だけでなく、ソフト面でも、時代に即した変化が見られる。1956年、大公レーニエ3世が、アメリカ女優グレース・ケリーと結婚したことにより、アメリカ人観光客が増え、アメリカ資本のホテルなども建設された。
 またテレビ、映画、サーカス、花火など、誰にでも分かりやすいテーマのイベントが創設されたことも、来訪者の属性変化に対応したものと考えられる。中でも、オープンチケット制で行われる大公主催の舞踏会33は、文化人や映画・音楽・スポーツ関係などの有名人が参加して華を添え、モナコらしいイベントとして定着しており、大公一家自身が、モナコ公国の広告塔として積極的に機能している。
 Butler(1980)は、「停滞」段階に入った観光地が、「衰退」へ向かうのではなく、「再生」に戻る可能性を述べている。その方法として、1)人工アトラクションを加える 2)それまで手をつけていなかった自然資源を利用する、という2つの方法を指摘しているが、モナコにおいては、テレビや映画関係あるいはサーカスなどのイベントの創始が、1)の方法に該当し、「自然」の代わりに、中世に始まるグリマルディ家という「歴史的資源」をモナコの「観光」の前面に登場させたことが、2)の方法に該当したと考えられる。
 
31 旧市街の建物も歴史伝統建造物に指定されており、中世以来の狭い路地空間がそのまま残されている。
32 カジノ広場(許可車以外は駐停車禁止)周辺の地下や旧市街(居住者以外の車は進入禁止)入り口にあたる海洋博物館の地下には、比較的規模の大きな駐車場があり、車を置いての徒歩観光が誘導されている。
33 3月の「薔薇の舞踏会」、8月の「赤十字の舞踏会」ともに、歴史ある舞踏会を、グレース王妃が現代的にアレンジしなおしたもので、近年、若い人向けの「夏の舞踏会」も創設された。
  





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