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2. モナコ公国の観光地形成史
(1)観光の発展と時代区分
 筆者は、モナコ公国の観光地形成史を、次の6期に時代区分した(臺、2002)が、それぞれの期における来訪者の属性、滞在スタイルなどを加味しながら、整理してみよう。
 
第1期 挑戦と挫折(1856−1860)
 サルディニア王国保護領となっていたモナコのロックブリュンヌ、マントンを、1848年にヴィットリオ・エマヌエレ一世が占領した事態に対し、モナコ公国は1861年に、両市をフランス第二帝政時代のナポレオン三世に4億フランで割譲し、独立を維持した(図2)。
 
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図3 1848年前後のモナコ公国領
出典:Baratierほか(1969)Atlas Histrique、図177より作成
 
 
 
 こうして1856年、モナコ港に面した地区にカジノ「ヴィラ・ベルビュー」とホテル「オテル・ルシー」が開業したが、最初の2シーズンを終えた時点で、カジノに来たのはたった1人という状態で、ラングロワとオーベールは事業から撤退した。1859年、旧市街にカジノ「ヴィラ・ガルバルニ」が建設されたという記録はあるが、その後、モナコ公国およびS.B.M.の資料には一切登場せず、カジノ営業は挫折したと考えられる。
 一方、テルメについては、1860年、モナコ港に面したコンダミーヌにBains de Mer de Monaco(バン・ド・メール・ド・モナコ)という海水浴治療施設を開業することで実現した。海水につかる治療とハイドロセラピー(水治療)、松脂のように樹木から分泌される天然樹脂と精油を使ったリラクセーションなどを行っており、現在のタラソテラピー、アロマセラピーに近かったと考えられる。この施設はイタリア人に人気があった、という記録が残されているが、具体的な入場者数などは残されていない。
 カジノの開業期間は冬、バン・ド・メール・ド・モナコは開発初期における営業期間は夏15であり、観光開発初期には、冬・夏の2シーズン制で集客をはかろうとしていたことが分かる。モナコにおいては、観光による立国は大きな挑戦であったが、冬・夏、2シーズン制の集客という試みも、避寒リゾートとして発展し始めていたコート・ダジュールにおいては、一つの挑戦であったと言えるだろう。
 しかしながら、フェリーの運航状況16などからみて、モナコも、1860年代半ばには、避寒リゾート地に組み込まれていったと考えられる。新しい国づくりの2本柱のうち、カジノは失敗に終わり、夏の集客を目指した海水浴治療施設は、モナコが本格的な避寒リゾートに成長する中で、冬の営業にシフトしていった。
 
15 1860年代半ばのポスターによると、バン・ド・メール・ド・モナコの営業は6月から10月である。
16 Journal de Monacoに掲載されたフェリーの広告によると、1861年には、ニース=モナコ間のフェリーは、夏冬1往復ずつで差がないのに、1864年になると冬の運航数が増えている。しかし1870年5月以降は、フェリーの運航広告が掲載されなくなり、1868年10月のニース=モナコ間、1869年12月のモナコ=マントン間の鉄道開通により、交通機関としての役割が衰退したことが分かる。
 
第2期 雪辱戦(1863−1889)
 ほかに産業を興せる可能性のないモナコでは、第1期の失敗を踏まえ、ドイツ・ハンブルグでカジノを経営していたフランソワ・ブランを招聘し、アクセスやインフラ整備を行う条件でカジノの独占権を与えた。1863年には、スペルゲス台地と呼ばれていた地区に新しいカジノが建てられ、1864年には「オテル・ド・パリ」、1868年には、カフェ・ド・パリの前身となる「カフェ・ディヴァン」が開業した。
 カジノを中心にしてカフェ、ホテルがコの字型に配され、山側にカジノ庭園、海側にカジノテラスも造られ、現在のカジノ広場の原型が完成した。以後、この広場を中心に開発が進み、いわば「カジノ広場の時代」を迎える。カジノは1878年には早くも、パリ・オペラ座を設計し、一躍人気を集めていたシャルル・ガルニエによってグラン・カジノ17に建て替えられ、1879年には、併設のカジノ・シアター18も完成する。
 第1期には、ニースからのアクセスは、中世に造られた山越えの狭い道とフェリーしかなかったが、1868年から1869年にかけてニース=モナコ=モンテカルロ=マントン間の鉄道19や道路の整備が進んだ。これらのアクセス整備に伴い、モナコヘの来訪者数は1861年の814人から、1864年の38,015人、1870年の138,831人と急成長、1897年には70万人を超えるまでになっている。(図4)
 
 
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図4 19世紀の来訪者数
資料:Journal de Monacoから作成
 
 
 この時期に、モナコを訪れた人々の中には、カジノ・シアターの柿落とし公演に出演した女優サラ・ベルナールや、グランドホテル・モンテカルロ20を運営するホテル王セザール・リッツとオーギュスト・エスコフィエ21の料理に魅了され、しばしば滞在したというイギリス皇太子(のちのエドワード7世)や歌手ネリー・メルバなど、ヨーロッパの貴族や音楽、芸術関係者が多い。
 この頃までには、コート・ダジュールは避寒リゾート22として広く認知され、さまざまな開発が進んでおり、中でもモナコは王侯貴族、富裕階級が集まる高級リゾートとしての地位を獲得した。これにより第1期の「雪辱」を果たしたといえる。
 
17 現在のグラン・カジノの前身であるが、その後、改装、拡張を繰り返しており、当時のままではない。
18 現在のオペラハウスの前身であるが、Folli, Andrea(2000)所収の写真を見ると、完成当時は平土間だったことが分かる。その後、客席を複層化し、王室専用バルコニー席などが付け加えられた。
19 現在、モナコ国内の鉄道駅はモナコ=モンテカルロ駅だけだが、当時はモナコ駅とモンテカルロ駅の2駅あった。
20 現在のモンテカルロ・グランド・ホテルは、1960年代にアメリカ資本によって建設されたロウズホテルが改装後、この名前になったもので、リッツが運営していたグランドホテル・モンテカルロ(1882年開業)とは無関係。
21 リッツについては、Stucki, Lorenz(吉田康彦訳 1987)、富田昭次(1998)、エスコフィエについてはEscoffier, Auguste(大木吉甫訳 1992)、辻 静雄(1989)などによる。
22 1830年代から開発が進んだニースやカンヌのほか、モナコ公国同様、1860年代から開発が進んだマントンなどが主な避寒リゾートとして人気を集めていた。工代将章(1987,1990)、臺 純子(2001)など。
  





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