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第6期 ユニークな「観光地」 1985−現代
 図5からも分かるように、各観光施設の入場者数は減少傾向にある。また1960年代頃までは、国家歳入に大きく寄与していたカジノなどの認定された専売権による国家歳入は、現在では数パーセントを占めているに過ぎない。しかし国家歳入34自体は増え続けており、また民間企業の売上高では卸売・小売などの商業が40パーセントを占めるのにホテルの売上はわずか3パーセントしかない。こうした状況を考えると、モナコは、もはや「観光」にそれほど依存していない、という見方もできる。
 しかし、観光・ホテル業の従事者は労働人口の17パーセントを占めており、さらにモナコ公国の人口3万人の約88パーセントにあたる周辺地域の人々の雇用を生み出している。つまりモナコ公国において、観光は、金融業35などと比べ、効率的に儲かる産業ではないが、雇用を生み出す効果が高い産業であると言える。このような状況にあって、モナコが1990年代から企画・建設を開始した21世紀5大プロジェクトを検討してみよう。
1)多目的施設グリマルディ・フォーラム(着席で最大約2000人収容、2000年完成)
2)モナコ=モンテカルロ駅地下化(1999年完成済)
3)コンダミーヌ地区に新ホテル(4ツ星、350室)建設
4)フローティング・シーウォール(浮き桟橋 2002年完成予定)
5)既存ホテルのリノベーション
 このうち、1)、3)は直接、観光に関わるプロジェクトである。2)の駅の地下化は、一般的なインフラ整備のようにも見えるが、これに伴い、モナコでは比較的規模の大きい地下の立体駐車場(748台収容)が造られ、キャンピングカーも駐車可能(6台)であること、さらに跡地再開発計画には、3ツ星クラスのホテル2軒(300室と200室)が建設予定となっていることから考えると、観光に関わるプロジェクトであることが分かる。
 また4)のフローティング・シーウォールは総工費1億5千万ユーロ(約177億円)で、352メートルの浮かぶ防波堤であると同時に、桟橋として船を係留でき、さらに内部は駐車場となる。従来、地中海クルーズの客船が、モナコ港に直接、入港できず、沖合に停泊し、船客は、テンダーボートで上陸していたのが、直接、接岸可能となるため、モナコでの観光やショッピングのための滞在時間が増えると予想され、やはり観光振興政策の一つと言えるだろう。
 
34 1999年が約45億フラン、2000年は約40億フランだった。そのうち売上税が50%以上を占めている。
35 金融業が企業売上に占める割合は約20%であるのに、被雇用者に占める割合は5%程度に過ぎない。
 
 5)のホテルのリノベーションも観光に直接、関わるプロジェクトである。オテル・ド・パリやオテル・エルミタージュ、ル・メトロポール・パラスなどカジノ広場周辺地区にあるホテル群が、IT対応や1室あたりのスペース拡張、バスルームのグレードアップなどを行うにあたって、それぞれのホテルがもつベル・エポックやアール・ヌーボーといった時代背景に基づいたスタイルを現代に生かしたリノベーションを行う点が特徴的である。
 オテル・ド・パリ、オテル・エルミタージュを所有・運営するS.B.M.のセールス・マーケティング・マネージャーによれば、こうした改装は時間も費用もかかるが、モナコの歴史や伝統というアイデンティティ、オリジナリティを残しながら現代にマッチした水準に改装することはセールス・マーケティング上、重要な戦略36であると語っている。
 このようなスタイルヘのこだわりは、1960年代後半から80年代にかけてのグラン・カジノの改装、1987年のカフェ・ド・パリの全面改装において、「復古的」改装が行われたことの延長線上にあり、「ベル・エポックの香りを残すモナコ」というイメージを、より明確に表そうとしているものである。
 これらの5大プロジェクトからは、モナコにとって、「観光」はいまだに重要で、おそらく最大の産業であり、「観光」を継続することへの強い意志が読み取れるのである。
 Butler(1980)は、「再生した観光地もいずれは競争力を失うであろう。真にユニークな地域のみが来訪客のプレッシャーに耐え、永続的といえる魅力を持ちつづけることができる。」と述べているが、モナコは、グラン・カジノとその周辺が、モナコの象徴であり、他にはない「真のユニーク」を持ちつづけるためのカギであると考えているようである。
 国家歳入の50%以上を売上税が占めているモナコ公国では、観光客が買い物をするだけでも、観光の経済波及効果が大きいと考えられる。カジノ広場周辺にずらりと一流ブランドのブティックが並び、女性たちがブランドショップの紙袋をいくつも抱えて、徒歩でホテルに戻っても、本物の宝石を身に着けて夜、カジノ広場を歩いても安心37、という国づくりも、国土が小さいことを逆に生かしたユニークな戦略と言えるかもしれない。
 
36 モナコのホテルの年間稼働率は85%程度と非常に高く、マーケティングの成果と考えてよいだろう。
37 モナコ公国では、人口67人に1人の割合で警察官が配備されており、主要観光地区、駐車場、ホテルなどにはビデオカメラが設置されている。万一、不測の事態が起きても、瞬時に国境を封鎖できる態勢をとっており、安全・安心度が高い国といえるだろう。
 
(2)観光地形成の時代区分とその特徴
 (1)ではモナコ公国の観光地形成史を概観したが、観光開発の特徴、来訪者の属性の特徴、滞在期間や時期、滞在スタイルなどの項目で、時代区分ごとに整理してみよう。
 表1から、モナコの観光地形成史において、2つの大きな変化があったことが分かる。第1は、来訪者の属性の変化である。第2期、第3期までは、王侯貴族や富裕階級、あるいは芸術家、文化人などが訪れていたのに、第二次世界大戦を挟んで、第5期以降は、一般観光客、コンベンション客へと様変わりした。これは戦後に普及したソーシャル・ツーリズムの流れを受けて、一般の人々がバカンスや観光旅行に出かけるようになっただけでなく、ヨーロッパや中近東などの多くの王室が1910年代から第二次世界大戦中に姿を消したという社会変化の影響も大きい。本物の貴族にかわって、華を添える役割を果たしたのが「この世紀のえせ貴族、映画や演劇界のスター」38たちで、第一次世界大戦後に、映画やテレビ関係のイベントが創設されたのは、こうした変化と無関係ではない。
 
 
表1 モナコ公国の観光地形成の時代区分とその特徴
時代区分 観光開発の特徴 来訪者の属性の特徴 滞在期間・時期滞在スタイル
ハード面 ソフト面 アクセス面
第1期 挑戦と挫折  (1856−1860) カジノ創設とホテル建設、海水浴治療施設開業     海水浴治療を好んだのはイタリア人  
第2期 雪辱戦  (1863−1889) カジノ、ホテル、カフェ建設、広場、庭園、音楽キオスクなど カジノ広場で音楽演奏、日傘美人コンテストなどを開催 フェリー、鉄道、道路の整備 王侯貴族や富裕階級 避寒シーズンは11月から5月で、約半年。避寒目的であるが、社交空間でもあった
第3期 充実と女性  (1893−1935) 文化・芸術・科学・スポーツなどの施設建設。モンテカルロ・ビーチホテル開業 モータースポーツや文化的イベントの創設、国際会議の誘致 周辺地域からモナコに入る山越え道路、立体化など 前期の来訪者に加え、自立した女性が目立つようになる 避寒シーズンは11月から5月で、約半年。一部の人は日光浴や海水浴を楽しむため、夏にも訪れるようになる
第4期 戦争による中断  (1939−1945) 建設中止、カジノ閉鎖        
第5期 再生のためのインフラ  (1946−1984) 休廃業のホテル跡地の整備。コンベンション施設。 グラン・カジノ、カフェ・ド・パリなどの「復古的改装」 テレビ、映画、サーカス、花火など誰にでも分かるイベントの創設 鉄道路線の地下化とそれに伴う道路整備。駐車場の整備も進む ソーシャル・ツーリズムの流れを受けた一般のバカンス客や観光客。コンベンション客も登場。イベントの参加者として映画や演劇などのスターが数多く訪れる 滞在日数は、観光が4泊程度、コンベンションは70年代/5泊前後、80年代/4泊前後。夏の海水浴、日光浴、観光。イベントの通年化が進む
第6期 ユニークな「観光地」  (1985−現代) 5大プロジェクトの実施/2000人規模の多目的施設、浮き桟橋、新ホテルなど IT対応など、ホテル客室の改装、ル・テルム・マラン・ド・モナコ(美容と健康)開業(1995) 高速道路との接続、駅の地下化 コンベンション客が3割を占める 滞在期問は80年代以降横ばい
 
 
 第2の変化は、滞在スタイルと滞在時期の変化である。(1)でも指摘したように、モナコでは、第1期に冬・夏 2シーズン制の集客を試みたが、失敗に終わっている。第2期は、まさに避寒リゾート色の時代であった。
 しかし第一次世界大戦終結から第二次世界大戦勃発までの、ベル・エポック時代に、女性の自立、社会進出が進む。第3期になると、流行に敏感な人々が、冬だけではなく夏にも、モナコを含めたコート・ダジュールを訪れるようになっていく。モナコでは唯一、プライベートビーチを持つホテルであったモンテカルロ・ビーチホテルの開業は1928年であり、滞在スタイルと滞在時期の変化をとらえたものと言えるだろう。第二次世界大戦後は、完全に夏のリゾートヘと変質し、コンベンションやインセンティブ誘致は、「オフ・シーズン対策」という役割を果たすことになる。
 
38 Corbin, Alain(渡辺響子訳 2000)pp.59
 
 「日焼け」が労働者階級の代名詞であり、特に上流の女性にとって肌を晒すのがタブーであった時代39には、夏の集客は成功せず、「日焼け」がお酒落なこととなって初めて、夏のリゾートヘの転換が可能となった。滞在スタイルの変化は、価値観の変化によって引き起こされたものであることが分かる。これらの2つの変化に伴い、滞在期間も約半年という長期から、数泊程度と短期になった。
 いずれの変化も、モナコが企図したものではなく、外的要因の変化である。第5期に、いくつかの高級ホテルが撤退、廃業したことを考えれば、外的要因の変化にいかに対応するかが、一つの鍵となることが考察できる。
 
3. 発展モデルとの比較と本論のまとめ
 2.で検討してきた内容と図4、図5と表1をButler(1980)の観光地の発展モデル(図2)と比較検討してみると、モナコにおける観光地形成の時代区分の第1期から第6期は、第4期の戦争による中断を除いて、Butlerが言う「探検」「参加」「発展」「完成」「停滞」「衰退」(または再生)の6つの段階と、ほぼ適合すると考えられる。(表2)
 
 
表2 バトラーの観光地の発展モデルとの比較
モナコの観光地形成の時代区分 バトラーのモデル
  特徴 発展段階 特徴
第1期 (1856−1860) カジノ、ホテル、海水浴治療施設の建設 探検 観光客は極めて少ない。来訪客用の施設も不十分
第2期 (1863−1889) アクセス整備。モンテカルロ地区にカジノ、ホテル、カフェ。1861年の来訪客814名から急増。避寒リゾートとしての地位を確立 参加/発展 来訪者数が増える。観光シーズンが明確になり、広告宣伝が行われる/主要市場がはっきりしており、イメージが作られていく
第3期 (1893−1935) 第一次世界大戦前:19世紀末には来訪者が70万人に 完成 来訪者数の全体量が増加する。観光シーズンの延長や市場地域の拡大のための努力が行われる
第一次世界大戦後:社会的価値観の変化により、夏のリゾートの萌芽  
第5期 (1946−1984) アライバルは70年代には15万人前後、80年代半ばには20万人を超える。コンベンション客のほうが滞在日数が多い 停滞 来訪客数はピークを迎え、イメージは確立しているが、コンベンションやイベント客に依存しはじめる
第6期 (1985−現代) 各観光施設の入場者数は80年代半ばをピークに減少傾向。アライバル数は80年代後半から90年代前半は25万人前後、90年代後半は30万人前後に 衰退/再生 来訪客の実数も減退局面に入る/それまでとは異なる魅力を引き出すことによって再生する
 
 
 これは「観光地の変遷がダイナミックであり、常に進展し変化するものである」「観光地の変遷は、観光者の好みやニーズの変化、ハード面の施設のたえざる自然劣化と適宜の改修、当該観光地本来の人気の源であった自然ないし文化的魅力の変化(時には消滅)を含む多様な要因によってもたらされる」というButler(1980)の主張を裏付けるとともに、観光振興を行う側から見れば、こうした様々な変化を見逃さず適切に対応し、努力し続けなければ、観光地として長く存続することができないことを示している。
 時代や社会の変化の中で、カジノの役割40は、どのように変わってきたのだろうか。カジノの収益が、国家歳入の多くを占めていたのは1960年代までで、1988年以降の統計では、カジノが国家歳入に占める割合は数パーセント以下である。
 
39 ヴィクトリア時代の海水浴や水着についてはChristie, Agatha(乾 信一郎訳 1977)による。
40 モナコ人はカジノに入場することができず、国外からの来訪者向けの施設となっている。
 
 しかしグラン・カジノの建築内装スタイルを守りながらの改装、整備は継続的に行われており、モナコのランドマーク的存在として細心の注意が払われていることが分かる。映画「モンテ・カルロ」(1930年公開)や「狂乱のモンテカルロ」(1931年公開)に見るのと、ほぼ同じ内装が今も残されており、ゲームをせず見学だけで帰る人も多い。入場料10ユーロ(約1200円)41から考えるとグラン・カジノはモナコで一番の観光施設である。
 モナコのカジノにおいてギャンブル場としての役割が減少した理由については、「ラスベガスの訪問客はアメリカ人が8割を占め、ヨーロッパ人はあまり多くないこと、来訪者の所得・文化的水準が比較的高くない地域の人が多いこと、さらにこれまでのラスベガスは、マーケティングの4P政策(Place、Product、Price、Promotion)が有効である高度大衆消費社会の存在を大前提としている」という成澤義親(1999)の指摘から考えると、モナコヘのアライバルの50%以上が、すでに成熟した消費社会に入っていると考えられるヨーロッパ主要国からの来訪客であること、高級リゾートのイメージを生かしてトップ・インセンティブを積極的に誘致しており、来訪者の所得や文化水準などの属性がラスベガスとは大きく異なっていることが想定される。
 モナコ公国は約150年もの間、様々な観光振興を行ってきたが、「探検」期に造ったカジノは失敗に終わり、現在のカジノは収益よりも、ランドマークとして機能するなど、その役割は大きく変化した。また「参加」「発展」期には、高級避寒リゾートとしての地位を獲得したが、一度の世界大戦を経て、それ以前には想像もつかなかった社会や価値観の変化に直面し、コンベンションやインセンティブ誘致など多角的なプロモーションを継続的に行い、現在にいたっている。このことからも、観光は「カジノを造れば儲かる。すべてうまく行く」という単元的発想では対処しえない複雑な現象であり、真摯な取り組みが必要な課題であることが明らかとなった。
 最後に、モナコの観光地形成史において重要と考えられるキーワードを示唆しておきたい。第1期に造られた「バン・ド・メール・ド・モナコ」が、「テルメ」、さらに「ル・テルム・マラン・ド・モナコ」へと継承され、現在も高く評価されていることから、モナコにおいては「美と健康」が、時代や社会の変化に耐えうる不変的価値観であったことが想定される。今後、研究を進める中で、さらに検討を加えていきたい。
 
41 モナコの主要観光施設の入場料は、海洋博物館の11ユーロを除けば5ユーロ前後である。
  





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