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2. 「茅葺きの里」に向かう山村
1)観光者によって村人の自意識が変化している
 久多地区の観光事業の経緯は北地区より長く、1981年の新農業構造改善事業などの事業によって民家から離れた森林内に2ヶ所のキャンプ場が整備されたことに始まった。テニスコート、自然活用センター(レストラン、物産販売)、1997年にはオートキャンプ場が整備されている。芋掘りのイベントなどもあり、観光客の入り込みは続いてきた。ただし、観光地というより京都市民や児童の自然体験地という位置付けが強い。そして、雪が多く、公共交通がないので、とくに冬場は往来が少なくなる。観光資源は、重要無形文化財の花笠踊りが代表的であるが、目玉となる観光資源がなく、観光化されているといいがたい。茅葺き屋根を撮る写真家などは訪れるようになっていたが、久多地区のこれまでの観光振興にとって茅葺き屋根は不可欠とはされてこなかった。ただし最近の観光者は、茅葺き屋根の家屋に気が付きはじめ、観光化されていないからよい、鄙びているからいい、静かで穴場的という。ところがこうした魅力は、最近マスコミにも驚きとともに関心がもたれ、民宿やお食事処が取材されるようになってきた。民宿は3軒(茅葺き2軒、トタン1軒)、お食事処は2軒(茅葺き1軒、トタン1軒)あり、看板を出していないところや、客は知り合いやその紹介者だけというところもある。
 そして、近年になり、住民の地区に対する価値観に変化がみられるようになってきたことは注目できる。例えば、先にみた北地区と同時に伝建地区の話が持ちこまれた下平屋地区の住民は、個人的には茅葺き屋根を好んでいても、外部に対しては「くずやを自慢する気はないし、しても仕方がない。町へ行って、うちはくずやですといっても意味がない。」といい、茅葺き屋根の良い外部評価の理解にいたっていないが、久多地区では、訪問者に長いことほめられてきた人ほど、「ここは日本のふるさとである」、「久多の歴史・文化は価値がある」、「歴史・文化を将来に継承したい」と思っている傾向がみられる6。保存地区の観光が知られることよって「茅葺きの里」を好む人が増え、それ以外の山村の住民が観光者の意識を認識することになるという相互作用の結果ともいえよう。「茅葺きの里」の観光者は、山村住民の意識を育てはじめたところである。今の久多地区は、住民の保存への負担と観光客の保存への要求が対立しているのではなく、茅葺き屋根をやめるのは、やむを得ないので残念だというように、住民と観光客とが同じ気持ちになりつつある。当地区における自然減少という成り行きの過程には、住民の残したいという意思が含まれているが、それには観光者の目も影響しているのである。
 
6 岩松文代「山村地域における伝統的景観保存への住民意識−京都市久多地区を事例として−」2002年 森林研究 第74号(印刷中)
 
2)トタン屋根の人も茅刈りを続けている
 この5年間の間に刈った茅をどうしているかについては、アンケート回答世帯のうち、家に全部ためている世帯が15軒、刈っていない世帯が9軒、その他は5軒である。「その他」の内訳は、(1)全部売っている(2)だいたい売っており、ためていない(3)刈ってもらっているがお金はもらっていない(4)あずきの雑草防除のために刈っている(5)肥料のために刈っている、となっているが、茅の販売があることに注目したい。最初に茅を売り始めた住民によれば、茅の販売は7、8年くらい前からはじまり、今では7、8世帯が茅を売るようになっているという話も聞かれる。買い手は、茅を必要としている美山町の業者とのことであり、この流通は、北地区の伝建地区選定以後に伸びた茅の需用によって起こったと思われる。茅の販売は、久多地区の茅葺き屋根を減少させている要因とはいえないが、ここで述べたいのは、久多地区の経済が活発化していることである。茅葺き屋根の維持が大変という理由で、いったんトタン屋根にしたにもかかわらず、そのまま茅刈りを続けており、むしろ励んでいる世帯がある。なぜ茅刈りが可能かというと、販売用の茅は、秋の数日刈った後、干したまま放置しておけばよいので、家の2階に運び入れる必要がない。ささいにみえる運び込み労力も高齢者には大きな負担だったのである。山あいの茅場にはリヤカーも入らず、背負って下りて来るしかない。これが肉体的に不可能になれば茅葺き屋根が維持できなくなるのである。
 そして、雪の多い山村では、売れる作物や自然資源はもったいないと思う経済観念が大きく働く。茅葺き屋根の維持のために茅を刈るのはきついと感じても、生活の足しになる茅刈りなら農作業と同様に励むことができる。資源を利用して様々な工夫をして生計をたてていた時代を知る住民は、茅場も増えているし、売れる茅を放置しておくことは心理的にできずに刈るのである。こうした行動は、従来通りに茅刈りを続けながらも、生活様式の編成が行われていることを意味する。ただし、茅葺き屋根は観光の活性化に有効だからトタン覆いにするのはもったいない、という意識は、民宿業以外の住民からはまだ聞き取ることができない。
 
3)山村問題が「茅葺きの里」の形成をさまたげる
 久多地区で生まれ育ち、都市へ出た次世代たちが定年を迎えるのはまだ先である。超高齢社会がこのまま進めば、「茅葺きの里」になりきれない可能性が高く、地区の存続までが危ぶまれる状況である。茅葺き屋根は、この自然的な維持のままであれば、山村衰退とともに消滅してしまうことが危惧される。「茅葺きの里」の形成のためには、少なくとも、次世代が帰郷するまでの間に社会増加に取り組むことが必要である。
 久多地区では、茅葺きの里に向かっているが、住民の「茅葺きの里」という意識は成熟しておらず、今はまだ普通の山村に近い。茅葺き屋根の数が多ければ、外部の目からは「茅葺きの里」にみえても、住民の意識とはかけ離れている場合もある。
 厳密にいえば、北地区は観光地「茅葺きの里」になっているが、今の久多地区は(観光地)「茅葺きの里」と表記するのが適切であろう。
 
3. 「茅葺きの里」でありつづけようとする山村
1)「観光地になりたくない」
 北地区の住民は、訪れる観光者に観光化しないでほしいといわれ、住民もまた一貫してそれを願ってきた。保存地区の白川郷や大内宿は、土産物店や民宿が大変多く、観光によって山村が見事に活性化している。しかし、北地区は民宿3軒、民俗資料館(2002年10月再開業)と、居住地域の前面道路をはさんだ反対側にお食事処と土産物店があるくらいで、観光業は多くない。「みやげもの屋をならべたくない」、「外の資本をいれないように」と、観光地化は初めから懸念されていた。伝建地区選定5年目の年、茅葺きの里保存会の目標は「立ち止まって振り返る年にしよう」として、常に走りすぎないようにと心がけてきた。2000年に住民の出資によって設立された有限会社かやぶきの里は、若者の安定的な雇用を目指したものだが、お金もうけのための会社ではないという考え方も持っている。そもそも、行政の力をかりて始まった観光業は地区の共有であって、「北村はひとつ」という考えのもとで、個別だった事業所の経営をひとつの有限会社にまとめたのである。
 また、北地区では、観光をきっかけに集落組織が再編成され、村落社会の秩序が変化したことで観光業運営がさらに推進された7。住民は、将来に向けてよりよい社会規範を模索しているのである。
 「茅葺きの里」が、商業地域や観光業地域ではなく、生活地域でありつづけるのは難しい大きな課題である。商売目的をどこにおくかという葛藤もあるが、それでも利益を追いたくないという意見は伝建地区選定から10年になる現在でも出され続けている。観光に頼るようになっては「根無し草」になる、と表現して案じる住民もいる。観光は、外部経済とのつながりの深いものであり、自給自足経済の持つ安定感とはかけ離れているからであろう。
 
2)「里」のあり方を再編成している
 ただし、茅葺き屋根の家屋を保存しているのは、「見られているから」という意識によるところが大きい。「茅葺きの里」は、村の生活全体の雰囲気を味わうものであり、茅葺きの里であり続けることは、生活地域であり続けるということである。「里」であろうとする住民意識は、今や観光客と同じになってきている。見てもらうに値する「里」を保とう、と思って動くこと自体がすでに観光地としての振る舞いなのである。つまり、住民は意識のなかでは、ここは「北村」であっても、ここは「茅葺きの里」にもなっており、これからも「茅葺きの里」であろうとしているというように、意識の面では観光地になってきた。
 宿場町、商家町などは、観光者に過去の暮らしを想起させながらも、現代では違っているものだという了解がとられやすいが、「茅葺きの里」は今も里であり、期待される姿と現実の姿は違うにしても、観光者の望むのはそれらが重なっていることである。したがって住民は、ただ茅葺き屋根が増加して、景観的にずらりとそろえばよいとは考えていない。
 
7 岩松文代「グリーン・ツーリズムの展開と集落組織−京都府北桑田郡北集落を事例として−」森林応用研究 第8巻 1999年
 
3)茅葺き屋根の維持に取り組んでいる
 茅葺き屋根が増えれば、管理していかねばならない。集落づくりに前向きに取り組む次世代でも「守りが大変になったな」という感想は持っている。観光客からは景観に見合った生活様式が求められ、それを育てることが大変になる。住民は茅葺き屋根の自然的維持ができるように努力している。これまでの茅葺き屋根の増加は急であったため、茅は職人や業者が他地域から集めたものを使用してきたが、茅場の造成や茅葺き屋根保存組合の茅刈りの出役は今も続けられている。茅葺き屋根が残存8ではなく、生活の営みとして続くようにと努力されている。保存地区になってからのほうが、茅葺き屋根の維持作業を重要視しているように感じられる。他の保存地区でも同様に、茅葺き屋根の保存会が結成されたり、職人が名乗りをあげたりと変化を遂げている。北地区で聞かれた「細々と保存していくことが文化的だと思う」という意見に、これから自然的に維持していきたいという方向性が表れている。
 
IV 結論
 茅葺き屋根の増減動向は、山村の社会経済・生活様式の盛衰・編成と密接に関わっている。「茅葺きの里」は、こうした茅葺き屋根の増減動向、山村の変動によって形成され、その動きの段階によって、観光される「茅葺きの里」としての多様性が生み出されている。そして観光もまた「茅葺きの里」の形成に大きな影響を与えている。観光が興ることによって、住民は居住地を「茅葺きの里」と意識するようになり、「茅葺きの里」としての振る舞いを始めるようになる。
 山間に茅葺き屋根の家屋がたたずんでいれば、現代人はかならず心を動かされるといってもいいすぎではないだろう。都市から見た山村の価値は、古きを見る良さというだけではなく、「茅葺きの里」というまとまりの持つ独特の魅力にもある。「茅葺きの里」に含まれる「里」の観念は、他の伝統的建造物群と違い、かつては誰もが知っていた暮らしであるという魅力を持っているのではないかと思う。
 幸いなことに、わが国の茅葺き屋根の家屋は破壊されたのではなく、トタン覆いの姿で残っており、トタン覆いの古い家屋がまとまっている地区は今だに少なくない。山村によっては、トタン屋根で覆った家屋に対しても住民が「茅葺き」と呼んでいるところもある。茅葺き屋根の復元は技術的には可能であり、「茅葺きの里」の姿ならばつくることができる。ただし、最も重要なことは現代の住民生活である。
 茅葺き屋根の数の変化は、「茅葺きの里」形成にいたる大きな要因であるが、「茅葺きの里」のなかにある家屋は茅葺き屋根ばかりではない。保存地区においてさえもトタン屋根、瓦屋根、プレハブ造り、コンクリート造りの家屋が混在している。これらの家々が共存する山村が「茅葺きの里」なのである。そのために、村落社会の秩序を保つような、各家の合意形成が必要になる。また、山村が「茅葺きの里」でありつづけるためには、産業様式の選択と新しい産業の創出、生活様式の編成が行われていくことも必要である。
 「茅葺きの里」の形成には、このように山村生活の様々な次元の要素が混ざり、この先の向かう方向が選択され、熟成されることが不可欠である。こうした変動は文化の働きであり、「茅葺きの里」の形成には、それまでの山村生活を変える新しい文化的な力が働いたのだといえる。つまり、昭和年代以降の山村の変動、民家の大規模な変化の中で、「山村集落」を「茅葺きの里」にしたのが、現代の観光文化の力なのである。これは、山村住民が外部の人々から観られることによって精神的にも行動的にも変化を遂げたという現象であり、逆境が主張されてきたこれまでの山村史においては、際立った興隆の波であるといってよい。
 
8 千葉徳爾『民俗と地域形成』風間書房 1980年
注)千葉は、民俗の伝承性について、「それは行われている限りは何等かの意味を有している。こういう民俗事象に対して、われわれはその民俗が生きているという。これに対して、ほとんどの生活上の機能を失い、形態としてのみ、わずかに存在が認められる民俗を、「残存」と呼ぶ。たとえば、海女が潜水して鮑を取る作業が、漁村の生業の一端として行われていれば、前者の場合であるが、同じ作業が観光客から見物料をとるために行われている場合には後者であるといえよう」と述べる。
  





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