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 北地区では茅葺き屋根が多く残されてきたために、1973年には京都府の調査が実施されたが、住民は保存に対して積極的な反応をしなかったため、調査は一部実施にとどまった。その後、「茅葺き屋根は、昭和50年代に減り始めた」、「トタン屋根は昭和60年頃にとくに増えた」といわれ、1980年ごろから減少したと思われる。減少要因としては、「いろりを焚かなくなって持たなくなったのが大きい。これが決定的かもしれない」、「茅場がなくなってきて材料を買いに行く必要が出てきた」という。そのままの状況が進めば、減少していったであろう。しかし、なんとか、「手近なところに茅を刈る土地が残っていたこと」、「葺き替えの時期ではなくそのままにしておいた」などの条件によって保たれていた1980年代末から、伝建地区の話が持ち上がってきたのである。1988年には研究者が視察し、伝建調査が開始された。この時期に、茅葺き屋根はまだ20軒近く残っていたが、トタン覆いは10軒ほどに増えていた。北地区では葺き替え作業を交換するてんごり(結い)の機能がなくなってはいなかったが、さらに、1988年には茅葺き屋根の住民によって茅葺き屋根保存組合が組織された。この組織が結成されたのは、住民のためだけではなく、外部評価に応じるためでもあった。北地区には、研究者、絵描き、写真家などが入り込むようになってきていた。住民は、「昭和40年代にこれは素晴らしいという人がいた」、「昭和50年代に観光客に刺激された」、「昭和60年代に入ってから関心が高まってきた」、「昭和60年頃から村が珍しい風景になった。外の人からはなんとか残してほしいといわれるようになった」といい、自意識を高めていたのである。
 住民が保存意向を高めたもうひとつの要因は、山村問題の解消への期待であった。「このまま廃村にしたくなかった」という切実な願いがあり、他出した次世代の戻ってこられる仕事をつくることが前提にあった。「茅葺きの里」が生んだ観光事業によって、現在では4人の正社員と常時30名以上のパートタイムの雇用が生まれている。地区の活力は顕著に高まり、茅葺き屋根の家屋の保存によって山村の社会経済問題の解消に向かっている。
 北地区と同じく伝建地区の話があった同町南地区、下平屋地区では住民合意にいたらなかったが、両地区では、観光への意向が固まらず、また実現可能性も低かったことが、北地区の合意形成要因との大きな違いである5
 
表−6 観光事業と茅葺き屋根の保存(北地区)
年次 観光関連の経緯 茅葺き屋根保存関連
1973   京都府文化財保護課による集落調査一部実施
1988 きび工房(餅加工)開始 茅葺き屋根保存組合設立
1989   伝建調査開始
1991 京都府シンボル事業決定  
1992 京都府シンボル事業実施 茅収納庫整備*
1993 民俗資料館開館* 茅葺きの里保存会設立、伝建地区選定
1994 お食事処開業*  
1995 民宿またべ移築・開業(集落運営)  
2000 有限会社かやぶきの里設立・餅加工販売所完成  
2001 日本観光協会「第8回優秀観光地づくり賞」金賞受賞  
注)*は、京都府シンボル事業によって整備された施設
 
 
 北地区では、伝建地区の選定後、毎年5〜10軒づつ、屋根の一部葺き替えを実施している。そして、トタン屋根を茅葺き屋根にする復元も行われるようになり、茅葺き屋根の数が増加した。保存地区選定の1993〜2002年までに6軒のトタン屋根の母屋が茅葺き屋根に復元され、トタン屋根の母屋はあと5軒となった。住居以外には、移築された民宿、食堂、(有)かやぶきの里(餅加工場兼)の建物3棟が新たな茅葺き屋根として移築、建築された。
 また、美山町では、条例によって町内のすべての茅葺き屋根の葺き替えや、トタン屋根から茅葺き屋根への復元に補助金の交付を行っており、茅葺き屋根の保存が進められている。この影響もあって、北地区をはじめとして、Uターンの若い茅葺き職人が現れている。
 このように、茅葺き屋根が社会的に増加している北地区では、茅葺き屋根の維持・増加と、山村の興隆とが密接に関係しているのである。
 
5 岩松文代・藤掛一郎「山村集落における伝統的景観保存への住民の反応−京都府美山町における伝建地区の指定を事例として−」2000年 森林研究 第72号
 
III 「茅葺きの里」の形成
1. 「茅葺きの里」になる時節
 「茅葺きの里」は、日本の原風景、故郷と称されることが多く、山村の古い暮らし方が評価されているが、茅葺き屋根のある山村は、どのようにして「茅葺きの里」になったのであろうか。まず、前章で分けた四段階の増減動向を、表−7のように整理して検討する。
 茅葺き屋根の民家は、他の歴史的な町並みとくらべると、日常的な家屋である。茅葺き屋根の社会減少によって、住民がこれまでの生活様式を維持しなくなり、数が少なくなったころに、研究者が価値あるものとして発見し、保存を願ったことが「茅葺きの里」のはじまりである。研究者という存在は山村に対して客観的な評価を下す外来者であり、住民からみれば異質であるが説得力のある存在であって、観光者の先駆けである。このような外部の力が住民に働きかけたことが重要である。その後ますます山村では伝統的な生活文化が衰えていき、茅葺き屋根の残っているところが珍しくなった。
 
表−7 茅葺き屋根の増減動向
増減動向 時期 地域 動機
社会減少 高度経済成長期以降 わが国のほとんどの山村 生活様式の近代化、挙家離村
自然減少 山村問題の続く現在 現在まで残ってきたわずかな山村 高齢化で労力不足、材料不足
自然的維持 山村問題の続く現在 現在まで残ってきたわずかな山村 生活様式の存続、次世代の定住未定
社会増加 町並み保存運動以降 保存地区や個人的に維持される山村 観光振興、社会的活性化、嗜好の高まり
 
 
 自然減少期になると茅葺き屋根は、ほんとうに少なくなっていく。そんな中にあっても、北地区と久多地区では茅葺き屋根が残ってきた。図−1は、両地区の1970年以降の増減推移である。1980年頃までは、両地区の家屋の半数以上が茅葺き屋根であったと思われる。「茅葺きの里」が観光地として広まるのはそれ以降のことであり、戸数が減少し始めたころである。北地区では、1980年代の終わりから伝建地区の話が起こり、合意形成がはかられている間は数の変化はほとんどないが、久多地区では急減が始まっている。北地区が1993年に伝建地区に選定された後、ますます「茅葺きの里」は観光地となっていくが、久多地区の減少は止まらない。「茅葺きの里」の観光者が、久多地区を発見するころには、トタン覆いの家屋が増えてしまった。ただし観光者は、名の知られた「茅葺きの里」に慣れると、まだ知られていない茅葺きの里への関心を高め、そちらに希少価値を感じる。久多地区を取り上げる最近の雑誌では、集落発見の楽しみを提供しようとする論調であり、北地区とは違った姿に描かれている。北地区にしても、保存地区としては後発であるために最初は穴場として紹介されていたのである。
 茅葺き屋根が自然減少しているこの時期には、家屋を建て替えた人や、都会に出た人にとっては、茅葺き屋根の家屋が懐かしい昔の暮らしとしてみられるようになった。
 
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注1) 北地区の数値は、住民への聞き取り調査による。空欄の年次は、明らかにできていない年次である。
注2) 久多地区の数値は、アンケートの有効回答(トタン屋根27軒のうち21軒、居住している茅葺き屋根全ll軒)の結果である。よって実際は、グラフの左側に向かって6軒分が上昇する。
注3) 両地区とも、茅葺き屋根から瓦屋根の家屋への建て替えは、1970年代以降ほとんどないため、現在瓦屋根等の家屋数は含めていない。
図−1 茅葺き屋根の母屋数の推移(北地区・久多地区)
 
 
 茅葺き屋根が社会増加している例は、ほんの一部である。しかし今では、「茅葺きの里」は歴史的町並みのひとつとしてではなく、「茅葺きの里」という独自の個性を持ってきたと考えられる。「茅葺きの里」の存在が知れ渡ることで、「一度は来てみたいと思っていた」という観光者が訪れるようになっている。「茅葺きの里」に入り込む訪問者は、時期を経るごとに研究者、旅人、釣り人、画家、写真家、散策者、観光者、団体ツアー客というように変わってきた。訪問者の変化は、求められる地区イメージが変化してきたことを示唆している。茅葺き屋根の増減動向のどの過程がみられるかによって、「茅葺きの里」は多様になる。
 以上のように、茅葺き屋根が減少傾向にあるから、ぜひ観光したい「茅葺きの里」が誕生したのであり、この動きは「茅葺きの里」の形成の重要な要因である。保存地区にしても、いったんは社会経済が衰退し、また、トタン屋根も多くなっていたのである。観光者の訪れたいという気持ちが最大に高まる時期は、山村の動向と観光者の視線が重なる一時節である。ここで、「茅葺きの里」が確立するかどうかなのである。
 そのほか、個別に茅葺き屋根を維持しているのは、民宿経営者、重要文化財等の指定をうけて残している個人、別荘利用などの愛好家、山村に来住した芸術家の例もあるが現在のところ、その数は多くない。
 最後に、2地区の現状と観光の関係を考察する。
  





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