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昆虫の多角的利用で貧困・食糧問題の解消を
―フィリピンからインドネシアそしてアフリカへ―
NP02050テクニカル・アドバイザー 吉田昭彦
 
現地で作られた手編みの肩掛け。糸は手紡ぎのエリ蚕糸
 
 
(1)日本は得意な分野で国際協力を
 筆者らは『人口と開発』において、過去に二回ほど論文投稿の機会を頂いた。第一のものは二十一世紀に向けた提言として「米と絹の文化の見直しによる食糧不足の解消と貧困の解消」(一九九六年夏季号No.五十六)、そして、第二のものは「発展途上国の経済開発はいかにあるべきか」(一九九九年春季号No.六十七)であった。前者は今回のタイトルと多少似ているが、米の消費量が漸減する中で日本の方々に米文化の利点を述べると共に、発展途上地域への麦文化の拡大に警鐘を鳴らしたものである。発展途上国の多くは熱帯地域に属しているが、麦の栽培は冷涼少雨の地域が適しており、アメリカ文化の主体でもある麦文化の導入を積極的に進めれば、自国では供給できないため輸入依存度が高まり、外貨事情を悪化させ、経済的テイクオフをより困難なものとする。かつ、麦文化に必然的なミルクや肉食依存度の高まりは環境への負荷の大きな生活様式を形成する要因となり、人口の多い地域でさらなる環境への負荷が高まれば、持続可能性は根本から瓦解する。
 絹については、今回記述する内容の基礎的な分野の記述である。米と絹は日本文化の基盤を支えてきた二大要素であり、日本が世界で最も得意とするもので、私たち日本人は多くのものを持ち合わせている。そして、それらは物まねではなく、オリジナリティーに富み、多くの汎用性を持ち、多方面に利用可能である。日本は絹を通して豊かな国への仲間入りを果たすことが出来たといっても決して過言ではない。箱ものを作るひも付きの援助協力でなく、日本が自身で経験してきたことをともに発展途上地域の方々に、援助の手を差し伸べていくべきであるとしたのが、第一の論文の趣旨であった。
 
 
吉田 昭彦(よしだ・あきひこ)
1943年中国撫順生まれ 医学博士
〈現職〉ワールド・グリーンクラブ代表
NPO2050テクニカル・アドバイザー
〈最終学歴〉大阪市立大学大学院工学研究科博士課程(単位修得退学)
〈職歴〉産能短期大学教授、
〈主な著書〉『アマゾンで考えた私の環境貢献』東洋経済新報社1993年『シルク革命』ミオシン出版 1997年『ブラジルノルデステの総合農業開発とアマゾン熱帯雨林破壊に対する抜本的対策』1992年 日経サイエンス(21世紀地球賞受賞)他多数
 
(2)プロジェクトは教え子と一緒に
 第二のものは筆者がブラジル北東部、ネパール、タイ北東部で行ってきたプロジェクトで経験したことをまとめ上げたものである。私的になって真に恐縮であるが、私が実施してきたプロジェクトと多くの皆さんによって行われているプロジェクトとの違いについて少しご紹介することにする。
 私の実施してきたプロジェクトはすべて私の大学時代の教え子さんと一緒に進めてきたことにその特徴がある。プロジェクトの実施は大学における実習時間の延長のようなものであったが、彼らも現地の経営者であり、意見を明確に主張してくる。しかし、普段から意思の疎通は十分に取れていて、プロジェクトの実施に関係しない分野では意見が食い違うことはなく、信頼関係は十分に取れていた。そのため、プロジェクトの現場で、意見や考え方に食い違いが見られたときなどは、若かったこともあるが、親御さん等を入れながらかなり激しい言動が行き交ったこともしばしばあった。しかし、そのことはマスコミ等で知らされる内実とは違った現地の方の本音を知りうる良い機会でもあった。
 
 
筆者のフィリピンプロジェクトを示すポスターと筆者
 
 
(3)タイもバブル経済を経験
 タイ北東部でのプロジェクトの実施について打ち合わせをしていた時のことである。教え子は特殊自動車の組み立て会社等を多角的に経営していたが、株の運用もかなりの量になっていた。当時、タイはバブル経済が進行中であり、バンコクからの乗り継ぎ用に利用する空港に隣接するホテルのビールの価格が日本並になっていることに気が付き、株取引には厳重に注意をするように促し、素早い売却を勧めた。彼は日本のバブル期に留学生として日本に滞在していた学生であったので、バブル経済の怖さを経営者として実感していた。私の忠告を聞き入れたわけではなかったであろうが、彼は持っていた株をすぐに売却してしまったが、その直後に、タイでは金融クラッシュが発生した。一九九七年七月のことであった。
 
(4)意外に元気な農村の暮らし
 タイ北東部のプロジェクト実施はタイ金融崩壊後のことであり、タイの経済は最悪期を迎えていた。貧しいはずの北東部からバンコクヘ出稼ぎに出かけていたものも、バンコクでは食えず、「出戻り出稼ぎが」目立つほどでもあった。北東部は面積こそ大きいものの、地味は悪く、産業の主体は農業でありながら、バンコクから古都アユタヤにかけてのチャオプラヤ川流域のような生産性の高い米作は出来ず、キャッサバやサトウキビに依存した収益性の低い農業となっている。北東部は私ども外国人にはエスニックで大変気持ちのよいところであるが、タイでは「貧困地域の北東部」(イサーン)として、お荷物扱いにされている。
 キャッサバが多いことに眼をつけてプロジェクトを実施したわけであるが、プロジェクトを実施しながら得られたことは、タイの経済は金融クラッシュの中にありながらも、北東部はバンコクほどその影響を受けず、人々は平静を装って生活していた。教え子からの報告では、タイ・バーツが暴落したため、輸出産業のサトウキビやキャッサバは好調で、一般の人々の生活はバブル崩壊の影響を強く受けていないとのことであった。影響を強く受けたのは金持ち階級だけで、農家は逆に収入は増えていた。ここから得られたことの内容を書き記したのが第二のもので「開発途上国の経済開発はいかにあるべきか」であった。詳しくはそちらを参考にして頂きたい。
 
(5)タイは安定、そして、インドネシアは政権崩壊
 タイ北東部でプロジェクトが開始されたのであるが、一九九八年五月インドネシアでは長らく続いたスハルト政権が崩壊した。タイとインドネシアとの大きな違いはタイの場合、米を中心とした食糧の大量輸出国であるのに対してインドネシアは食糧の輸入国の違いである。インドネシアの食糧輸入で気がかりなことは小麦輸入の急増である。前述したように、赤道直下に位置するインドネシアでは小麦の生産は難しく、輸入は恒常的となる。また、米の輸入量も漸増している。
 貧困が進む発展途上国では、貧困解消のためにも経済的なテイクオフは必須条件であるが、政情の不安は経済的なテイクオフに対する大きな阻害要因となるので、政情不安を取り除くことは最大の懸案事項である。「下部構造が上部構造を決定する」ではないが、下部構造である一般大衆の日常の生活を不安に至らしめる最大の要因は食糧不足である。
 食糧輸入国で政情不安が一度発生した場合、食糧の確保をさらに困難にする要因がある。それは通貨の下落である。事実、スハルト政権崩壊前政情不安によりインドネシアルピアは暴落した。その結果、輸入穀物の価格は暴騰した。ジャカルタなどの人口が集中する都市生活としての貧困層は食糧の確保がより一層困難となり、不満は一気に爆発し、商店への略奪行為等が頻発し、政情不安をさらに助長する悪循環が形成された。一方、農村では、バナナやキャッサバは豊富にあり、食糧不足に陥ることはなく、通貨下落の影響を強く受けない。しかし、逆に食糧輸出国であるならば、自国の通貨下落は収入増となって農村地域を潤すことになる。まさに、タイ北東部の状況はこれであった。
 一九九七年の時はタイを契機に金融クラッシュがインドネシアへと波及したが、現在、アルゼンチンを中心として南米で、再び金融不安がくすぶり始めている。一九九七年以降インドネシア経済は停滞が続き、さらにこの度のバリ島でのテロ事件により、外貨収入では大きな収入源となっている観光収入の激減が必至の情勢で、政情不安と共に再び金融不安に見舞われる可能性は決して杞憂ではすまされない。今後の発展途上地域の開発は金融不安を招きにくい形で開発を進める必要がある。その一つの手本はタイにあり、食糧自給をしっかり確保することである。タイでは、日本と同様に、不良債権の処理は遅々として進んでいないが、外貨事情が直接食糧問題に波及することはなく、食糧問題から派生する社会的な不安は発生していない。
 
(6)イサーンから経済開発のあり方を学ぶ
 発展途上国では売れるものが少ないから、買えるものも少なく、もの不足に陥り貧しくなる。しかし、貧しくとも自給が出来ていれば、買う必要はなく、またもの不足にも陥らず、貧しさは発生しない。ものにあふれ返る日本では、食糧不足などはとても実感できるものではないが、戦後まもなくの頃に日本でも見られたように、食糧不足は多くの人身を惑わせ、不安に陥れるので、食糧不足だけは絶対に発生させてはならない。一度輸入国に陥ると、回復は難しく、輸入は恒常的となり、経常収支は悪化を余儀なくされ、それは経済的なテイクオフの阻害要因ともなって、貧困からの脱却の道は恒久的に閉ざされる。食糧に問題に対して、アメリカは発展途上国にWTOを突きつけているが、発展途上国の貧困解消には食糧の自給が先決であり、それを阻害するとは言語道断とも言える話で、断じて受け入れることは出来ない。
 
(7)新しい形態の養蚕とは
 絹と言うと、日本の一般の方ははまず間違いなく生糸・カイコ・クワの一連の流れを連想する。そのため、絹の話を持ち出すと、それは条件反射のように「生糸は、カイコは、クワは」と話の相槌を打って私の話を支援してくれるのは大変嬉しいのであるが、私たちが考えている養蚕は四〇〇〇年の歴史を持つカイコによる養蚕とは本質的に異なり、生糸をとることに最初から固執しないことに特質がある。
 そのため、生糸の説明から始める必要があり、つい長い話となってしまう。しかし、この点は非常に重要であり、この話が理解できないと当論稿の主題である「昆虫の多角的利用」は理解不能に陥る。養蚕に詳しい方にカイコをトリの餌にするなどと持ちかければ、禁句にも近い話で会話など成り立つものではない。また、生糸では、蛹が繭を食い破って羽化した後の繭(出殻繭)からは生糸を取り出すことは出来ず、出殻繭の利用は生糸の話からはずされる。
 
(8)理念は進化の賜物を大切に
 絹の良さには生糸の良さもあるが、それ以上の良さは進化の過程で形成され続けてきた繭の持つ「蛹を守る」特質である。陸上動物で最も古い動物(昆虫)を今日まで存続させ続けた進化の賜物としての「蛹を守る」特質の方が衣料素材としては生糸の良さより上であり、その特質を優先し、生糸に固執することなくすべて無駄なく紡ぎ用の繭として利用すべきであると言う考え方が「新しい形態の養蚕」の基盤をなしている。蛹を私たちの体と見立てれば、「進化の賜物」で体を守るのであるから、これほど素晴らしい自然の衣料素材はないはずである。また、繭を作る昆虫は森の生物であるが、人類も森を生活のニッチとして進化してきたものであり、相性の良さは保証されていると言える。
 
(9)新しい形態の養蚕の意義
 生糸に固執しない理由はもう一つある生糸を目指した養蚕はカイコとクワに制限されるため、本来温帯地域の生き物であるカイコやクワの飼育や栽培は熱帯地域には適さず、発展途上地域の貧困解消を目的とした産業としては適応性が低い。しかし、熱帯には繭を作り出す絹糸虫は多く存在し、しかも繭の「蛹を守る」特質には普遍性があり、紡ぎ糸用としては使用可能である。ここに「新しい形態の養蚕」の意義があると言える。







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