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戦後日本の経済発展と停滞
(社)日本家庭問題研究協会 常務理事 降矢 憲一
 
(1)経済成長と諸側面
 
1925年山梨県生まれ
〈現職〉(社)日本家庭問題研究協会常務理事
〈学歴〉東京大学経済学部卒業
〈職歴〉労働省入省、経済企画庁出向
経済研究所次長(79年辞任)
日本大学経済学部教授(経済政策論)
日本年金学会幹事
〈主な著書〉「賃金変動要因の分析」(大蔵省印刷局)
「成長の軌跡」(日本経済新聞社)
「年金の理論と実務(法令協会)
「退職金制度の歴史的変遷」(雇用情報センター)など
 
 日本経済の規模をマクロ指標である実質国民総生産(GNP)でみると一九四六年の十二兆円(一九六〇年価格)から七四年までの三十年間の所謂高度成長期に約百三兆円へと実に九倍弱に増加した。その後経済は安定成長期に入って成長テンポは鈍化したが一九九〇年までの十五年間に約二倍の増加となっている。さらに一九九〇年代以降は長期不況で、経済停滞期に入り、二〇〇〇年までの十年間は実質GDPの増大は四百六十四兆円(九五年価格)から五百三十四兆円へと僅か一五%増に止まっている。
 この経済規模の拡大を経済成長率でみると、六〇年代の年率一〇・五%から七〇年代四・八%、八〇年代の四・三%へと減速し、高度成長から安定成長への軌道修正をはかりながらも、主要先進国の成長率に倍するスピードで発展してき、半世紀にみたない短期間に中進国から経済大国に躍進したのである。世界経済に占めるシェアは一九五〇年の二%から一九九〇年には一二%にまで拡大しており、リーディングカントリの地歩を築くに至っている。
 経済の長期推計によれば、戦前、明治以降の日本経済の成長率は平均三%程度であったし、昭和に入ってから終戦時までの成長率は四・七%とされているので、日本経済は第二次大戦後、近年に到る停滞を迎える前までの期間は成長率が三倍化する程の状況変化で、所謂、歴史的勃興期と称されるに値するものであった。日本の発展を目標としていた、アセアンなどの発展途上国が、日本経済の成長要因に強い関心を示したのも理由のあるところであろう。
 経済の効率化指標であり、また成果指標でもある一人当たり国民所得格差でみると、一九六〇年には対アメリカで八分の一、対イギリス四分の一、対イタリア二分の一などとかなり低位にあり、正しく中進国であったが、二十年後の八〇年には先進国の平均四、〇〇〇ドルにかなり接近し、OECD諸国の中では九〇年にはスイスと並ぶ世界のトップの座につくに至った。
 GNP規模ではアメリカに次ぐ二位の地位を占めながらも一九七〇年代前半までは一人当たり水準では十位以下にある時期がかなり長くつづいたが為替変動相場制への移行下に生じた円高効果によって所得水準の飛躍的上昇を遂げ、国際経済における評価も高まったのである。
 円高効果という計算手段によってドル換算所得がかさ上げされたので形式的表現の悪戯のように思われるが、そうではない。円の購買力が増大するという。実質的な意味の裏付けがあるわけである。海外への投資でも、旅行などの消費でも内容の充実が進み、経済力の増大そのものである。
 従前のわが国は天然資源の賦存に乏しく、これを海外に求めて、加工し輸出することを経済立国の基本としてきたのである。このため、産業発展による国際競争力が貿易収支の均衡を維持しうるまでには若干の期間を必要とした。黒字基調に変わる以前の状況は、景気成熟期には国際収支は赤字を記録した。景気が成熟段階にさしかかると内需の好調で、収益性の低い輸出の伸びはスロウダウンする一方、原材料手当のための輸入は増加する。黒字転換のため、輸入金融引きしめを中心とする景気抑制案をとらざるをえなくなるわけである。国際収支の制約から景気引きしめせざるをえなかったいわゆる国際収支天井説が称されることは六〇年代前半までつづいた。その後、いわゆる石油危機後の一時的な貿易収支赤字も比較的短期に克服され、GNPの二%をこえる大幅経済収支黒字基調が定着するところとなり、為替変動制移行後も、円高基調へと進むが、円高の危機は予想される程に企業収益に影響を及ぼされないような状況が実現されたのである。
 世界生産に占めるシェア、世界貿易に占めるシェアの増大への対応は、海外からの貿易自由化要請への取組みという形で展開した。たとえばわが国の対米貿易収支がはじめて出超になったのは五九年であるが、これを契機に、アメリカのわが国に対する輸入制限撤廃要求が強まった。輸入自由化率は五九年の二六%から六二年に八八%となる程の急速な対応であった。貿易自由化品目のリストがポジからネガに代わる事態はそうした動きを象徴するものであった。
 その後わが国の国際的地位の変化を象徴的に示す事態として、IMF八条国への移行とOECDへの加盟があげられる。つまり国際収支を理由として輸入に差別的制限をしないことを義務づけられる国であるしOECDでは貿易外取引、資本取引についても制限の漸次的撤廃に取組むこととなったのである。さらにその先には、貿易収支黒字の余裕資金による対外投資の拡大、公的対外援助ODAの積極化へとなり、世界最大の債権国、援助国となっていったのである。
 経済発展の軸となってきた諸要因のうち、高投資とその裏付けである高貯蓄、さらに技術的進歩としての技術革新に注目しなければならない。
 国民経済に占める投資、就中民間設備投資に関しては、限界資本係数が主要国の半分程度と低く、投資効率の良さを示している。これは、投資の対象が生産的中心であること、政府のインフラ投資との良好なバランスがとれていたことである。しかし、それに加えて指摘しておかなければならないのは高い投資率であり、それを支えた高い貯蓄率である。
 高度成長の初期段階では資本蓄積不足をカバーする日銀の信用創造(復金債日銀引受けなど)が有力な役割を果たしたとはいえ、高度成長がひとたび展開されると高所得、高貯蓄が間接金融メカニズムに組込まれて成長の資金を供給することになったのである。日本人の高貯蓄については勤倹貯蓄の国民性、道徳性に及ぶ説もあるが、経済的視点からみれば、個人の所得の増加が臨時所得の増加を中心としたためいわゆる恒常所得仮説にいうところの消費性間低下、つまり貯蓄率の上昇を結果したところとなったのである。
 他方、設備投資の高揚と密接不離の関係にあった技術革新についても評価されなければならない。戦後期一時までは輸入技術に依存するしかなかった日本であった。技術貿易の収支でみると、七〇年代は〇・一、八〇年代に入っても〇・三という収支比であり収支バランスをほぼ達成しえたのは商品貿易のそれに遅れること二〇年という格差があった。
 こうした事態への対応は研究開発の拡充であった。研究費は五年で倍増という速度で増加される一方、研究者は二十年間に五倍、研究者一人当たりの研究費も同じ時期に二倍へとなるなど研究条件も充実された。その成果は特許件数の倍増となっている。研究開発費の対GNP比で、欧米主要国の二〜三%に対し、わが国も九〇年には三%へと高まり、対外的な技術水準の格差は急速に縮小するところとなった。こうした技術進歩は設備投資の面からみると、更新投資率の上昇となる。七〇年代の〇・二〜〇・三から八〇年代には〇・四〜〇・五へと著しく高まり、新しい技術への転換が急速に進んでいたことが分る。ハイテクの産業においては設備償却期間が五年を下回るまでになった。新製品の開発、多角化などが国際競争力強化へとつながったことはいうまでもない。
 研究開発もさることながら開発された技術や、輸入技術であっても、その実用化段階の進展にはみるべきものがあった。貿易面での特徴として、軽工業品から重化学工業品へ、高加工度化、高付加価値化への足どりは次第に確実なものとなり、「安かろう、悪かろう」の日本製品への評価は急速に後退し消滅するところとなった。
 つぎに資本、技術面の経済発展への寄与についてと同じく、経済発展を支えた労働力など人材育成についてみておく必要がある。国民所得の向上を条件とした国民生活の改善で、教育指向は推進された。加えて、学歴重視の賃金制度面からの刺激もあり、進学率の上昇にはみるべきものがあった。義務教育後の状況として高校進学率は五五年の五二%から、二十年後には九三%へと、高校教育の一般化は七〇年代に入って実現された。また大学進学率は同じ期間一〇%から三九%へと実に四倍化のレベルアップを到成した。こうした教育水準の上昇は、産業界の要望に応えるところとなり高度産業技術国家の地盤を強固ならしめたのである。専門的技術的職業従事者の数は七〇年代の四九〇万から八五年の六三八万へと三割の増加、純粋の技術者のみでは、同じ期間ほぼ倍増という著しいものがあった。マクロ経済成長への寄与としてみると資本の質に比べれば下回るとはいえ労働の質の寄与は〇・五%となっており、欧米主要国の水準を上回っている。







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