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船外機のはじまり
 
 最初の船外機の正確な発端と、ボートの推進器として誰が最初に船外機を使用したかは、外国でもはっきりとしていません。
 ただ、その歴史は約100年ほどと言われ、1866年にフランス人のT. Reeceによって考案された手回し式のものを、1881年に同じフランス人のGustave Trouve'が具現化したものと言われています。
 その後、アメリカやヨーロッパで同時多発的に小型ボート用エンジンを作るメーカーが現れましたが、1896年にアメリカンモーター社によって、最初の販売用のガソリン船外機が生産され、船外機の基本形がここで確立されたといわれています。
 
T. Reece考案の手回し式船外機
 
Gustave Trouve'考案の船外機
 
アメリカンモーター社製 アメリカ初の船外機(空冷1気筒、1馬力)
 
船外機とアイスクリーム
 
 1900年前後頃から現在まで、世界各国で数多くの船外機が作られてきましたが、その中で、現存する最古の船外機のブランドとして生産されているのが1908年に販売されたエビンルードです。このエビンルードの創始者であるオーレ・エビンルードが船外機メーカーを設立するきっかけとなった有名な逸話がありますので紹介します。
 
オーレ・エビンルートとベス
 
エビンルードの原型 “Evinrude Detachable Row Boat Motor”
 
 若き日のエビンルードは、将来の夫人となるベスとデートを楽しんでいましたが、とある夏の日、ベスは湖畔でのデートの時にアイスクリームを食べたいと言い出します。その時、一緒にアイスクリーム屋まで二人でいけばいいことですが、そこは恋人に甘える女性と、なんとしてもその願いをかなえようという男性心理、エビンルードはアイスクリームを抱えて、2マイル半(約4km)の湖を手漕ぎボートで渡るはめになります。当然、アイスクリームは溶けてしまいました。
 そこで彼は、アイスクリームを素早く運ぶため、手漕ぎボートにエンジンを取り付けるということを考え、小型の「ダッチャブル・モーター」なるものを作り出すことになります。彼の目論見は成功。
 それを取り付けた小型ボートで「溶けていないアイスクリーム」をベスのもとへ届け、大感激させたといいます。
 
日本の船外機のはじまり
 
 日本に船外機が入ってきたのは、大正時代で、大学や軍隊が研究用として輸入しました。しかし、研究用は別として一般向けに輸入されるようになったのは昭和の初期になってからです。また、日本で製造を始めたのは、さらに遅れて、昭和10年近くになってからになります。
 
国産船外機第一号「天城・アマギ」
 
 ギネスブックによると、日本で製作された最初の船外機を「天城」としています。
 「天城」は1933年(昭和8)に、当時の東京芝区三田四国町、現在の港区芝一丁目にあった蒲鉾のすりみを作る機械の会社(石川工場)の経営者で、モーターボートを趣味としていた石川治雄氏と、同工場の技師長であった手塚英二氏によって製作されました。
 エンジニア同志のコンビによって昭和6年に国産初の船外機の研究、試作が始まり、昭和8年の日本船外機艇公認記録によると公認時速25.993マイルを出したことが記録されています。
 
第1図 船外機外観図
 
上図:「天城」形状 天城船外機の調査研究報告書より
 
昭和10年前後に市販された国産船外機
 
 1935年(昭和10)頃になると、大阪のハリマ商会から「ハリマ・モーター」が発売されたり、東京モーターボート倶楽部会長で、日本モーターボート協会理事の御法川三郎氏と、東京モーターボートクラブ理事の伊東平次郎氏のコンビによる「A級船外機」の試作品が完成したと伝えられています。
 また、販売時期ははっきりしませんが、大阪の大同商会の「旭」船外機が1937年(昭和12)4月30日の日本工業新聞主催国際工業博覧会に出展して表彰を受けています。
 しかし、当時の船外機は高価で、1945年(昭和20)までの日本の船外機は軍用か、一部の裕福な人達のレジャー用として使われた程度で、まだ一般に十分には普及していませんでした。
 
東京モーターボート倶楽部
 我国最初のオーナー・クラブ、昭和8年4月29日設立・王子区豊島町地先(現北区豊島町)荒川畔にクラブハウス(2階建て)、会員数:44名、保管艇数:36隻
 
1935年(昭和10年)前後の市販国産船外機諸元表
製造者 (株)石川工場 (合)ハリマ商会 (合)大同商会 砧内燃機(研)   (株)友野鉄工所 東京発動機(株)
所在地 東京芝浦 大阪阿波座 大阪市中区菅原町 東京成城 大阪 東京 東京板橋
呼称 アマギ ハリマ・モーター あさひ(旭) キヌタ ヒノデ   卜ーハツ
形式名     明星号 流星号 優星号       2F−50
エンジン形式 水平対向 水平対向 水平対向 水平対向 水平対向 水平対向 水平対向 水平対向 水平対向
冷却方式 水冷 水冷 水冷 水冷 水冷 水冷 水冷 水冷 水冷
サイクル 2 2 2 2 2 2 2 2 2
シリンダ数 2 2 2 2 2 2 2 2 2
シリンダ径 60.36   57.15 63.5 63.5 53.9     50
行程 57.15   50.8 50.8 63.5 50     42
シリンダ容積 326.17   260.6 321.8 402.2 180.13     179.33
定格出力/PPM /4000   3〜4/3000 7〜8/3500 14/4000       3/3200
最大出力/PPM                  
プロペラ減速比 15/25               14/19
プロペラ翼数 2(競争用)   2 2 2       2
重量 38.1   22.5 29.6 29.6       24
高さ 959.5               915
前後方向長さ 439               586
429               305
「日本の船外機」より
 
軍用の船外機
 
 日本の軍隊は陸、海軍で船外機の呼称が違っていました。陸軍は「操舟機」と呼び、海軍は英語を直訳したような「舷外機」と呼んでいました。
 特に陸軍は架橋器材、漕渡器材として器材の研究を続けており、1930年(昭和5)3月には九○式駄載操舟機注1が陸軍大臣から正式兵器として制定されています。その後、正田飛行機(株)で作られた九五式軽操舟機注2(九五とは皇紀2595年、昭和9)は述べ1万数干台も生産されています。
 
注1:九○式駄載操舟機は、プロペラからエンジンまでが一体構造で、歯車室が水中の障害物に当れば簡単に跳ね上がってプロペラを防護する構造や、垂直軸とほぼ同心で回転し、舵と推力の方向が一致するなど、現在の船外機と同じ方式となっています。(長さ5m幅1.62mの鉄舟と組み合わせて使用)
 
注2:九五式軽操舟機は、それまでの操舟機に比べ重量が半分以下(60kg)で、陸上を駄馬で搬送する際の分解の必要もなく、千葉工作所製の九五式折り畳み舟と組み合わせて、それまでの渡河作戦を大きく変えました。
 
 しかし、陸軍で行われた船外機の研究、開発内容が一般に公開されることはあまりありませんでした。
 一方、海軍での船外機の使用は、当時の技術では常時海水で使用した場合、手入れが大変で実用的ではなかったためか、陸軍に比べはるかに少なかったようです。ただ、南の島などの飛行艇の基地で飛行艇と接触しても飛行艇を傷つける恐れのないゴム製のインフレータブルボート用として船外機が使用されていました。
 







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