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◆「あの女性は自分が新潟から拉致してきた」
 筆者らは、この拉致された少女は横田めぐみさんに間違いないとの判断を下し、『現代コリア』一九九七年一・二月号に「身元の確認された拉致少女」という記事を載せる一方、その亡命工作員に会わせてくれるよう韓国政府に要請をした。また、石高氏をはじめとするマスコミ関係者に情報を提供するとともに、西村眞悟衆議院議員と相談し国会の場でこの事件を追及してもらう準備を進めた。
 しばらくのちに韓国政府からの回答が非公式な形であった。石高氏の伝えていることは確かだが、その亡命工作員は公開できないというのだ。一方、めぐみさんの両親が川崎に住んでいることが分り、石高氏らが取材を重ねていた。その際、ご両親は重大な決断を迫られた。横田めぐみという本名をマスコミが報じることを認めるかどうかということだ。
 何の関係もない十三歳の少女をいきなり拉致して連れていってしまうなどという、信じられない暴虐な国家犯罪が事実であるなら、家族が被害者の本名を出して訴えたら、証拠をなくしてしまうために、めぐみさんの身の上に何かが起きてしまうかもしれない。しかし新潟出身のY・Mさんなどという形で報道がなされても世論は盛り上がらず、これまで二十年間何も変化がなかったのと同じ状況が今後二十年も続くかもしれない。そうなれば日本の両親はもうこの世にいないだろう。
 悩みに悩んだ末、両親は「一定のリスクは覚悟のうえで」本名を公開して世論に訴えるという決断を下す。この決断が、後述のように日本の世論を動かすことにつながった。九七年二月三日の西村質問は横田めぐみさんと本名を出して行われた。答弁は六件九人の日本人が北朝鮮によって拉致されている疑惑が濃いというものだった。その九人のなかにめぐみさんは入っていなかったが、九七年五月に国会でめぐみさんも入れられ日本政府が認める北朝鮮による日本人拉致疑惑は七件十人となっている。
 西村質問があったちょうど同じ二月三日の『産経新聞』朝刊と同日発売の週刊誌『アエラ』二月十日号が、やはり横田めぐみという本名を出して写真入りで大きくこの事件を報じた。両者とも問題の工作員との会見を申し込み断わられたが、たしかにそのような工作員の証言があったという確認取りには成功したのがこのタイミングだったのだ。その日の夕刊と夜のテレビニュースで各紙、各局はこれを追って大々的に報じた。
 さて、めぐみさん拉致事件が公然化するプロセスの説明を続けてきたが、いよいよ安明進氏がここで登場してくる。翌二月四日、安明進氏はテレビ朝日系列のニュース番組「ザ・スクープ」の取材スタッフ(日本電波ニュースの高世仁記者ら)と会見することになっていた。高世氏らが前年より追跡していた北朝鮮の偽ドルづくりの実態について証言するためだ。二月三日の朝、成田空港からソウルに出発した高世氏は『アエラ』と『産経新聞』がめぐみさん拉致を大きく報道しているのを見て、事前には予告していなかったが、まず安明進氏に対して報道されためぐみさんの写真を示しながら十三歳の少女拉致について知らないかと質問したのだ。
 すると安氏はこの顔に見覚えがあるとして、一九八八年十月十日当時、彼が在学していた金正日政治軍事大学(工作員養成学校)の式典会場にめぐみさんと思われる日本人教官が他の日本人教官らとともに出席しており、安氏のすぐ後ろに座っていた教官が「あの女性は、自分が七〇年代中ごろに新潟から拉致してきた少女だ」と語った、と証言したのだ。
 同席していた安企部員は安氏に対して「そんな重大な情報をどうしていままで黙っていたのだ」と取材直後に問い質しており、また別の安企部員は高世氏に「われわれは生育歴を順を追って尋ね、対南工作など韓国の重大関心事を詳しく調査するが、外国のジャーナリストはある特定の事柄だけを質問するので、われわれの調べに出てこなかった情報が明らかになることがときどきあるのだ」と説明したという。
 安氏は九三年九月に亡命しているから、石高情報のソースである九四年暮に亡命した工作員とは別の人物だ。安氏は、元工作員として工作活動の実態に関してマスコミなどに具体的な証言をすると危険だという判断をもっていて、その日の取材は匿名でしかも安氏の顔は写さないことが条件だった。北朝鮮の工作員はかなりの規模でいまも韓国に浸透しており、具体的な身の危険がある。実際に金正日の私生活を本に書いた李韓永氏(金正日の前妻の甥)は九七年、韓国内で北朝鮮工作員の手により射殺された。
 とにかくこの日の安氏の証言により、石高氏のソースである元工作員証言を裏づける有力なもう一人の証人が出てきたのだ。とくに最初の証言をした元工作員がいまだに公開されていない状況下では安氏の証言の価値はとても重い。そのため、北朝鮮は繰り返して「北朝鮮工作員・安明進という人物は過去にも現在にも存在したことがなかった」(平壌放送)と強弁している。
 
 
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