日本財団 図書館


基調講演 弱くあることの自由
立岩真也 信州大学医療技術短期大学部助教授
 
たていわ・しんや 1960年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了、日本学術振興会特別研究員等を経て現職。著書「私的所有論」(勁草書房,1997年)、「弱くある自由ヘ−自己決定・介護・生死の技術」(青土社,2000年)等で、「自由」とはなにか、「自己決定」とはなにかを再考し、自己と他者、個人と国家の関係を検討する。
 
 私はわりあいと長いこと、介助(介護)する側に支配されてきたことの恨みに発し、介助される側自らが主導権をとろうとする動きを見てきた(安積遊歩他「生の技法−家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補改訂版」、1995年、藤原書店)。その人たちは、私の言うことを聞いて、きちんとやることをやってくれ、と言う。それはもっともな主張だと思う。だから、ケアを行なう側が語ること、行なう側のことが語られること、行なう側にとっての大変さが語られ同時に深い意義が語られること、これらのことについて素直になれない。だから、このような集まりにしっくり馴染むお話をすることはないだろうと思う。すみません。(もう一つ美しく語られることに素直になれない一派がいる。女性、の少なくともかなりの部分だ。こちらは実際に行なう側に現実に課せられる労苦、何を言われてもどんなに持ち上げられても逃れ難い労苦を忘れることができない。これももっともなことだと思う。)
 ただ、むろん、人と人との関係が手段的な関係に尽きるとは、誰もがそんなことを考えていないように、私も考えない。というか、きちんと手段としての介助が提供されるように構成される社会があるとしたら、その社会は「贈与」をその基本に据えた社会であるしかない。「私的所有論」(1997年、勁草書房)とその後に続く作業で、そのように構成されていない私たちの社会をよしとする主張を批判し、では代わりに何が可能なのかを考えようとしている−それはまた、自分でできないこと、他人の手を借りるということがどういうことなのかを考えるということでもある。そして、「善意」をいちいち必要とせずにすむような−必要なものはそんなことと関係なく機械的に贈与されるような−関係の中で、まぐれのように、人に出遭うことができたりもするのだ。そんなことを考えながら、「遠離・遭遇一介助について」という文章を書き、それは「弱くある自由へ−自己決定・介護・生死の技術」(2000年、青土社)という本に納められた。
 それらに書いたのは基本的には単純な話なのだが、しかし少々込み入っているようには見える。それは、いつも二つのこと−よいこと/つらいこと、大変なこと/おもしろいこと…−が同時にあって、しかもただ両面があるとか二つの要素があるとか言うだけでは仕方がなく、その二つを同時に考え、そこからどこに行けるかを考える必要があるからだ。講演では、そう込み入ったお話をすることはできないし、すべきでもないだろう。だからそのどこをお話しするか、それは当日までに考えておかねば、と思っています。より詳しくは上に記した本をご覧ください。
 と以上は、たんに本の宣伝だったのかもしれません。もう一度ごめんなさい。ついでにホームページ「生命・人間・社会」(http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htm-私の名前で検索するとはじめの方に出てくると思います−)もよろしく。
朝日新聞 2001.1.11 より
(拡大画面: 866 KB)
z1004_01s.jpg








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION